2.倫理なんて
穏やかに思索にふけりたいのなら、学生会館は打って付けの場所だ。
名前に反して、学生も教授もわざわざ近寄らない。そこに近寄る人間にも近づかない。
それは学生会館が軍の所有地だから。
そもそも、この大学は軍立であり、卒業生の多くは軍に就職する。
軍の軍による軍のための大学なのだ。とはいえ、大学は大学法人として独立しているため、介入しすぎることはできない。
軍と大学の思惑がぶつかった妥協点が学生会館。大使館のようなものだ。大学のルールは適応されず、介入も出来ない。治外法権であった。
主な用途としては学生の処罰、風紀委員の連行先、臨時の軍法会議などであった。
つまり、ここに来る学生は大学から呼び出された哀れな囚人と風紀委員、そして倫理委員だけだ。
当然、倫理委員の執務室も学生会館に存在していた。学生会館と言う名前を辛うじて取り繕うために、運営は少数の学生――学生会館に出入りできる風紀委員によって行われており、それは併設されたカフェテリアも同様である。
学生会館の外観というのは軍の建物ということもあり、贅沢するわけにも行かないのか、質素なものだ。
打ちっぱなしの冷たいコンクリートは用のない人間が訪れることを拒絶しているが、外観に反して、中の居心地は良い。暖かく、人影を感じない。
そこに無粋な大声が響き渡った。
「まずは情報を共有しましょう!」
シラッと乾く空気感を物ともせずに訳知り顔で話す夏凪の話を聞きながら、郡司はさっと周囲に目を滑らす。
先進性を思わせるアールデコ調のおしゃれなカフェの一角。
三人はいくつか据えられた丸テーブルの一つを三角に囲んでいる。だが、この店はそんなにいい店じゃない。
閉鎖的なこの町では大した競争相手もおらず、改善しようという気がない。だからこんな不味い苦汁――たんぽぽコーヒーなんかを出せる。
コーヒーを飲むことができない郡司にとってコーヒーとたんぽぽコーヒの二択は事実上の一択であり、苦渋の決断であった。
それでもわざわざここに集まっているのは仮にもチームのリーダーである夏凪が言い出したからだ。
そんな訳で入ったこともない大学のカフェで話し合いの席を持っていたが、郡司はその選択を早くも後悔していた。
夏凪が大声で話すせいか、店員や数少ない客から注目を浴びている。
幸いなのは閑古鳥が鳴いていることであるが、静寂が打ち破られるという意味ではそれも良くない。
本人は店内に背を向けているために気が付いていないが、角に座る郡司からは居心地の悪い視線が丸見えであった。
チッと舌を打ち、上目遣いで立ち仕切る夏凪を見上げる。
「ハァ……少し静かにしてくれ」
落ち着いていた怒りが、再びふつふつと沸き上がる。予想通り、面倒な女は迫力ある瞳を見開き、こちらを向く。
「ふっ、なんでそんなこと――あなたは私の上官かしら?」
バンッと机を手で叩き、身を乗り出す。威圧的な、という形容詞も追加だ。圧されたようで癪ではあるが、自らの声も抑える。
「別に共有することはない。各自で動けばいいんじゃないのか」
「私もあなたたちを認めてはいないわ!でもチームとして動かないとリーダーである私の評価に関わるじゃない!」
眉が怒る夏凪は郡司に向けて、真っ直ぐに人差し指を向ける。
「それに私はあなたのことを知らないのだけれど?」
夏凪の相貌が三日月形に歪む。
「倫理委員会に加入するメンバーは入学時点で決められているの。そしてそのことは入学以前に伝えられている。これはそこに南部さんも同じはずよ」
南部と呼ばれた少女は興味なさげに机の上で手を組み、そこに顔を埋めており、さらに頭を深く埋める。それは辛うじて、頷いたように見えなくもない。
「そこから考えると、あなたは倫理委員会にむりやり捻じ込まれたんだと思うわ。……あなた一体何をしたの?」
「……何も」
じっと、こちらを覗き込む視線を正面から受け止める。数秒が長く感じた。それでも視線から逃げる事はしない。
ふいっと夏凪が視線を逸らした。
「まあ、いいわ。それじゃあ、【獣の啓示】について共有しましょう」
ヒラヒラと手を振り、座り直す。
「正直、私が知ってることはそんなにないわ。【獣の啓示】が日本の宗教ではないということぐらいね。海外で生まれた宗教が日本に輸入されてきた。とはいえ知名度があるわけでもなく、大きなこともしていない。所謂マイナー宗教ね」
「それは大臣のお父様から聞いたのか?」
「そんなわけないじゃない。このご時世、カルト宗教が乱立しているから宗教絡みのトラブルも多いのよ。だから法学部では結構な数の宗教を覚えておく必要があるの」
そういう物なのだろうか。煽ったつもりが無知を晒してしまう。
「あなたは……どうせ何も知らないんでしょ。南部さんはどう?」
夏凪はこの店に入ってから先頭に立ち続けてきた。席を取り、音頭を取り、話を仕切る。
いわゆる優等生なのだろう。
郡司はこういうタイプの人間はあまり好まない。
出しゃばりは上から見ればよく見えるが、横から見る分には視界を塞ぐ。
対照的にほとんど声を出さないのが、南部春香。
猫の様に体を丸め、声を出したのは最初に自己紹介したっ切りだ。
先ほどから、注文したコーヒーにチビチビと口をつけ、話を聞いてる様子はない。
彼女がなぜ倫理委員会に選ばれたのか、疑問はつきないが、特段倫理的とは限らない。
なにより郡司自身が秩序を軸とはしていない。どちらかといえば混沌よりであろう。そう自覚していた。
南部は機嫌よく話し続ける夏凪の話を聞き流し、話を振られても素知らぬ顔でふわぁと欠伸をしていた。
「ねえ、南部さん。私の話は聞いているの?それとも聞く価値がないということ?」
はっきりと眉を顰め、喧嘩腰で南部に難癖を付ける夏凪。南部の視線が上がり、カップに戻り、ややあってまた上がる。
「そう、あなたの話に意味はない」
キュッと瞳孔が締まる。売られた喧嘩は買うとばかりに言葉の槍を突き刺す。夏凪だけでなく、南部も気が強いタイプのようだ。
言葉数が少ないことから、どちらかと言えば大人しいタイプだと予想していたのだが、残念なことに期待外れであった。
「それなら、あなたが知っていることを言ってみなさいよ」
「…………獣の啓示はあなたの言う通り有名な宗教じゃない。これまで大きな事件も起こしていないし、規模もそこまで大きくはない。…………でも――」
ゆったりとした喋り。溜めて口から言葉を出し、また溜める。
「……数日前に、サークルの人間が行方不明になってる。あのサークルの人間が行方不明になるのはこれで三度目。一度目は偶然でも、それが二度三度と続くと必然」
「サークル?」
「……大学内においても隠すことなく【獣の啓示】というサークルで活動している」
さすが情報学部というだけあり、スラスラ詳細な情報が出てくる。
いったいどうやって調べたのか。本来なら情報を調べるところから始める必要があっただろう。
それを短縮できたのはありがたい。
郡司には特別な伝手や公にならない情報を探る手練手管があるわけではないから。
クッ!と圧された夏凪は矛先をこちらに向ける。流れが変わった。
「それなら役割を決めるわ。私がリーダーだから、南部さんが情報担当。そして三峰さん、実地調査はあなたに任せるわ」
夏凪にそう命じられたとき、郡司は思わず顔を上げてしまった。
――実地調査。
宗教組織に直接乗り込めということだろうか。
郡司は今回与えられた任務に対して乗り気ではなかった。
この大学は軍の費用で建てられたということもあり、所属する学生は半軍属となっている。
そのため倫理委員会に所属しろと言われれば、所属し、任務を言い渡されれば、任務達成に向けて邁進するしかない。
だがそれはそれとして、やる気があるわけではなかった。学生として入学した人間がいきなり軍属です、といわれた自覚が芽生えるはずもない。
中には忠誠心を持っている学生をいるのかもしれないが、多くの学生はそうではない。例に漏れず、郡司自身、軍に思うところはなにもなかった。
そんな低空飛行の心に実質的なワンオペ命令。不愉快にも程がある。
――自分でやれよ、口先だけの物臭女。
……なんてことは口には出さない。
代わりに天を仰ぐ。見えるのは木目の天井だけであったが。