六
あっという間に山の天辺を超えて、花清と王貴は夜空にとび出した。下方を見やれば、黒く染まった山並みがうねうねと遠くまで続いている。まるで巨大な蛇のようだ。こんな景色、王貴は生まれてこのかた見たこと無い。びゅうびゅうと空を切ってゆく感覚も同じく初体験だ。王貴は悲鳴が出そうになるのを懸命にこらえた。
「どうだ? 空を飛ぶ感想は」
からかうような口調で、花清が問いかけてくる。が、王貴は何も答えられない。答えられるわけがない。今や、目の端が湿っぽい。
花清が笑い声を上げた。
「まー、そんな怖がらずに景色でも楽しめ。ほら、月がきれいだぞ」
だから、そんなことを言われても無理なのだ。そんな余裕はない。
内心で文句を呟きながら、王貴は目を閉じた。
暗闇に意識を沈め、ひたすら風の音を聞くこと間もなく。
「着いたぞ。北の村ってここで間違いないか?」
花清がそう声をかけてきたので、王貴はゆっくりと目を開けた。
生きた心地のしなかった王貴は、ここがどこかなど最早どうでもいいように思えたが、のろのろとあたりを見渡してみたら、暗がりの中に見える石造りの家々の並びには確かに覚えがあった。覚えがあって当然だ。間違いなく、自分の住んでいる村なのだから。
花清が王貴を降ろす。そんなに時間は経っていないはずだが、大地に立つ感覚が懐かしく感じる。ふらつきそうになるのをこらえながら、王貴はどうにかこうにか口を開く。
「こ、ここで間違いないよ。ありがとう……」
「いいってことよ」
花清は得意げに胸を逸らした。そんな彼を王貴はまじまじと見つめる。
この少年は一体全体なんなのだろうか。強い上に空まで飛べるなんて、最早めちゃくちゃなほど普通ではない。僵尸だという時点で普通ではないが、しかし果たして彼は本当に僵尸なのだろうか。生きた人間と同じように動きまわるし、しゃべることも出来ている。それに、笑ったり不機嫌になったりと、ころころと表情を変える様は、まるで死人だとは思えない。
つい、見つめすぎてしまったらしい。花清が眉をひそめた。
「なんだよ。顔に何かついてんのか?」
口から出てきた声音も、表情と同じく不機嫌がにじんでいる。王貴は口早に答えた。
「いや、そうじゃないよ。そのなんていうか、すごいなって思って。強いし空も飛ぶし、顔つきとかも活き活きしてて死人っぽくないし。あの襲ってきた僵尸とも全然違うから……」
「だから、俺はあんな三下どもとは格が違うんだよ」
花清の眉間のしわが深くなる。ますます機嫌を損ねさせてしまったようだ。
「ご、ごめんなさい……」
王貴が謝ると、花清は大きく息を吐いた。そして、一拍間を開けた後、おもむろに口を開く。
「……ま、俺も死んでからこんなに楽しく生きられるとは、ちっとも思ってなかったけどな!」
そう言いながら花清は、それはもう朗らかに、顔いっぱいに笑みを咲かせた。
王貴は呆気に取られた。死んでから楽しく生きるとは、なんとまあ不思議な言葉であろう。しかし、彼にとっては本当にその言葉の通りなのだ。そうでなければ、こんな風に笑いはしない。
「さてと。それじゃ、俺は行くわ。桃瑞が待ってるから。今後はあんまり夜に出歩くなよ」
そう言うと、花清は満月に向かって跳んだ。王貴ははっとする。花清はもう行ってしまうらしい。慌てて大声で叫ぶ。
「あの、助けてくれてありがとう! それから、怖がってごめん!」
花清が振り返る。黙って王貴を見ている。月を背負う彼の表情は窺い知れない。
また、不機嫌にさせてしまっただろうか。王貴の胸の内に緊張が募る。と、その時。花清が突然片手を上げて、声を張り上げた。
「なんだ、お前良い奴じゃん!」
王貴はぱちぱちと目を瞬かせた。そんなことを言われるとは、思ってもみなかった。
「それじゃーな」
花清は大きく手を振ると、体を翻した。そのまま、ぐんぐんと高度を上げてゆき、やがて夜空の彼方に消えてしまった。
音もなく夜が降り積もる。涼しいそよ風が、王貴の頬をなでた。澄み渡った夜空には、ふっくらとした望月といくばくかの星が煌々と輝いている。花清の姿はもう見えない。しかし、王貴は空を見つめ続けた。
不思議な二人であった。道士の少女と、その相棒のおおよそ死人らしくない僵尸の少年、という二人組。彼らはどこから来たのか、どうして一緒に行動しているのか、もっといろいろ聞いてみたかった。
そんな後悔を覚えた時、ふと思い出がよみがえる。
「あれ、花清って……」
幼い頃に、物知りな祖母が語ってくれた昔語りの一つ。
昔、いくつもの国が覇権を争っていた時代。その乱世の最中、『鬼神』と恐れられた少年がいた。彼は戦いが何よりも好きで、喜々として戦場を駆け巡り、数えきれないほどの人間を屠った。英雄と呼ぶには血に塗れすぎた彼は、敵だけではなく味方からも恐れられたと言う。確か、その少年の名は花清ではなかったか。
「……いや、そんなまさかね」
満月に向かってぼんやりとつぶやいたところで、王貴は我に返る。こんなことをしている場合ではなかった。弟が待っているのだ。一刻も早く家に帰らなければ。
一歩踏み出したところで、しかし王貴は今一度空を仰いだ。真っ暗な空にぽっかりと浮かぶ丸い月。熟れた月の色は、黄色と言うより琥珀色に近い。
今宵の満月を、きっと忘れることはない。そう、王貴は思うのだった。




