水もしたたるなんとやら
水も滴るなんとやら
「なんだこれ……」
根室爽太が彼女、小樽繭と話したのはその日が初めてだった。
現在、高校二年生の根室爽太が通う高校には聖母がいる。
勿論聖母というのは比喩なのだが、その比喩が冗談ではないほどに小樽繭は寛大な心と可愛らしい美貌を兼ね備えた少女だ。
黒髪のロングのストレートヘアーは常にサラサラとしていて、光沢を帯びており、夜縹の瞳は見る人全員を魅了して、乳白色の肌は乳児と同じほどに滑らかで潤いを保っている。鼻梁も端整で、低身長という欠点でさえ守ってあげたくなるような繊細な美しさを誇っている。
勿論、そんな彼女が学校にいるとなると、友達と喋っていても繭についての話題が尽きることはなく、よく○クラスの輩が聖母に告白をしたという噂が絶え間なく流れてくるが、告白の朗報は1度も聞こえたことはない。
しかも可愛いだけでは無く文武両道らしく、毎回テストの順位は上位10%、体育の時間はいつもエース的立ち位置。更に言ってしまえば無遅刻、無欠席と全く非の打ちどころが無いないのも彼女がモテる所以なのだろう。
そんな才色兼備で抜け目のない少女。それが一学年下の小樽繭という優等生だ。
そうもなると勿論その優等生は、爽太の目にも魅力的に映る。
だが、彼女は大親友の小樽恋治の義妹で最近再婚した連れ子らしく「他人の家庭のことまで気にするな」と言われれば全くその通りなのだが、正直付き合いたい、とは思えない理由がそこにはあった。
それに、もし告白したとして特に魅力もない爽太は振られるのが目に見えてるで、高嶺の花として遠くから見るだけなのがちょうどいいというのもある。
どちらにせよ、全く接点のない爽太には関係のない話だと思っていた。
だから、誰一人外を出歩かないような雨の中、彼女が傘すら刺さずに電柱の元で佇んでいる姿を見かけた時は。何をしているんだろうと不審に思った。
電柱に腰を掛けている姿は遠目でも特徴的な艶のある黒髪が目立っておりスグに彼女だと分かった。
自分に厳しそうな彼女が体調を犠牲にしてまで雨に濡れているのがわからなかった。
誰かを待っているような素振りはなく、雨に濡れることへの抵抗もなくただどこか遠くをぼんやり眺めている。
着ている白無地のプルオーバーは雨で濡れて黒い下着が透けて見えており、いつもの彼女なら絶対に見せない姿を晒している。
その風貌は訳ありであることをハッキリ主張しており、関わってはいけない雰囲気が漂っていた。
ただ、なんの理由もないのにこんなことをする人ではないだろうし、本来はこのまま放っておく方が良いのだろうが――その場を通り過ぎようとした時に、横目に見えた泣きそうな表情と熱を失った虚ろな瞳に後ろ髪を引かれ、爽太は頭をぐしゃりと掻いた。
「はぁ……」
別に下心やお近づきになりたいなんて野心はない。
だが、ああいう表情をされるとどうも見捨てておけなかった。
「なにしているんですか?」
余所余所しく声を掛けて待ってみるも、返ってくるのは五月蠅い雨音のみ。数十秒待っても微動だにしないのでどうやら無視をされているらしい。
(声、かけなければよかったなぁ)
そう思っても、話かけた事実は変えられない。
「聞こえていないんですか?」
と再度話しかけて傘の中に彼女をいれると、ようやく重げな髪が持ち上がって彼女と目があった。
やはり整った顔だった。
ツリ目にツンと伸びた鼻先。ロングの黒髪に夜縹の瞳がよくマッチしている。
全身を濡らす雨さえもが彼女にとっては良いアクセントで、燻んだ瞳以外はいつもと何の変哲のない可憐な少女だった。
「根室先輩……?」
目があってから確認するように訊いてきた。
一度も話したことが無いのに苗字を覚えられていたんだなと少しばかり妙な感懐を抱くもこの場では素直に喜べなかった。
「驚いた、名前知っているんだね」
「勿論、覚えられていたほうが嬉しいじゃないですか。それに兄さんの親友ですし……」
にへらと柔和な笑みを浮かべている繭だが、口角があまり上がっておらずスグに空元気だと理解できた。
さらに恋治の親友として認知されていることにも驚いた。
小樽家についてよく知らないが、少しは情報が共有されているらしい。
「嬉しいね。特に君みたいな有名人に覚えてもらえているなんて」
「一応フルネームで覚えてますよ。根室爽太せんぱい……でしたよね」
彼女の態度は変わらず、どこか裏を詮索しているようで恐ろしいが、ソレ以上にせんぱいのイントネーションが艶かしく背徳感を覚えてしまう。
「正解。で、なんでそんな有名人の小樽さんは傘もささずに雨に打たれているんだ?」
「ちょっとありまして……」
一瞬視線を逸らしてバツの悪そうな彼女だったがすぐにこちらに向き直る。
「それ訊きますか?普通」
「まぁ、そんな場所にいたら気になるからな……」
繭は少し考える素振りをする。
「気分……ですかね」
人は気分で雨に打たれたくなるのだろうか……
その思考は爽太には理解できないのでテキトーに流しておくことにした。
「気分ねぇ……」
「……」
繭が目を伏せた。他の理由は言いにくいのだろう。それならこれ以上その話題には追求せずに話題を変えることにした。
「家には帰らないのか?」
繭は再度顔を膝にうずくめて首を縦にふる。
なら、と思い最後に一つだけお節介を落とすことにした。
「じゃあさ、とりあえず俺の家に来なよ。服も濡れているし……」
キョトンとした顔で繭が顔を上げる。
数秒間見つめ合った後に繭の口がゆっくり動いた。
「なんでですか?」
繭からは素朴な疑問が飛んできた。
顔を目を見ると少し警戒しているようにも見える。
いくら兄の親友のお誘いだとしても彼女からすれば赤の他人、そんな人にホイホイ付いていくなんて爽太でもしないのでその反応も理解できる。
だが、本当に他意はなく。
「なんだか見捨てておけなくて」
ただ、それだけだった。
「ダメ、かな? お前の兄に誓って変なことはしないし。休んでいきなよ」
善意で行っているのだが、じっと瞳を凝視され、額に変な汗が流れている。
一度繭が視線を空へと逃がし、再度爽太に視線を戻すと、ふふっ……と微笑んだ。
「優しいんですね……」
「まぁ、人並みにはな……」
「家、本当に行ってもいいんですか?」
「勿論。兄の親友の頼みだと思ってくれ」
「なら、お言葉に甘えさせていただきます」
とニコッとはにかんで笑った彼女の顔はさながら天使の様だった。