第五章 ⑨
部屋に入り、うなだれる桐秋の頭に反芻されるのは先の中路の言葉。
『逆境にも負けず、努力するひた向きな姿』
――そうだ。彼女は冷たくあたる桐秋にもめげず、正面から向き合ってくれた。
桐秋が諦めた父にも立ち向かい、まっすぐな想いでもって桐秋の研究を認めさせた。
『一人一人に寄り添う優しい心』
――そうだ。彼女は優しい。
いつも桐秋の言葉に耳を傾け、桐秋を思いやった行動をしてくれる。
おまけに桐秋の幼い頃の突拍子もない約束をも、自分のことのように叶うと応援してくれている。
『立派な看護婦』
――そうだ。彼女は素晴らしい看護婦だ。
彼女は桐秋が少し無理をしていることが分かると、咎めるのではなく、自然に休憩にしませんかと優しく声を掛けてくれる。
桐秋が八つ当たり同然で非難した食事も、普通の食事、いやそれ以上に手間暇のかかる栄養面も考えられた美味しい食事になった。
桐秋の意志を尊重しながらも、主治医と相談しながら、桐秋の体調をしっかりと管理してくれている。
おかげで、独りこっそりと文献をめくっていた頃より、断然、研究は捗っている。
『笑顔』
――そうだ。
あの、夏の太陽のようにまぶしく輝き、春の陽光のように柔らかに降り注ぐ、千鶴の花咲く笑みは、誰の心をも強く惹きつける。
あの笑顔を好ましく思い、好きになるのは当然だ。
みな中路の言ったことに共感できる。
と同時に、それらが自分だけに向けられたものではなかったことにいまさらながら気づく。
閉鎖的なこの離れという空間が桐秋に千鶴を独占させていた。しかし、そこに異物が入ってきた。
立派な庭の悠々と泳ぐ錦鯉の池に、少年が川でとったフナをいれたような。
異な存在であるが、同じ模様の錦が泳ぐ中で、黒光りする野生のそれは、はっと人の目を引く。
そして、その共同体に、「外」という魅力的な存在を認識させるのだ。
胸が焦げつくような、身の内が滾るような、黒く尋常でない熱さの想いが桐秋の中に蠢く。
加えてその感情を増幅させるのは、中路が結婚という未来の約束を描ける若者だということ。
それを当たり前に口に出して言える人間だということ。
自分は未来に限りがある。
千鶴に何かしてあげたいと思っても、何かにつけ制限のある桐秋が可能なことなどほとんどない。
自由に、池の外に連れ出すことは叶わない。
しかし彼はどうだろう。
身体も丈夫で、わずかしか接していないが、性格的にも悪い人間でないことは分かる。
良い医師だということも。また、千鶴が少なからず好感をもっている人物でもある。
一緒になれば、きっと彼女を尊重し、この先の人生を豊かなものにしてくれるだろう。
千鶴を諦める理由として、そう思えば思うほど、
どうにもならない想いの上に、たくさんのどうしようもない理由を重ねれば重ねるほど、
そのどうにもならない想いは、どうしようもない理由を吸って、
落ち葉が積み重なった泥池のように、桐秋の心をどす黒く浸食して苦しめる。
体の病とは違う心の病。
どんな医者でも治せないもの。
自分自身で向き合うしかない。
苦しみを抱えながらも桐秋は本をとる。
千鶴が叶うと信じてくれた約束を果たすために。
これが今の自分にできる、千鶴の想いに報いるたった一つの手段なのだから。




