第三章 ①
木を染めていた可憐な薄紅の花は瞬く間に散り去り、淡く萌え出た若い芽が木を豊かにする。
絶世の美しさを誇った木も幻想世界を抜けだし、生きるため現実世界に根を張る。
これからますます緑が輝く季節となる。
千鶴が南山家にやってきて一月。
離れの生活にもだいぶ慣れ、奥向きのことは上手くこなせるようになってきた。
しかし、肝心な看護婦としての仕事をほとんど出来ていない。
そもそも桐秋と深く関われていないのだ。
南山家に来た初日、奥向きのことを教えてもらった女中頭に付き添ってもらい、あらためて桐秋に挨拶をした。
が、彼はこちらをちらりとも見ようとしなかった。
それからも千鶴は桐秋と接触の機会を伺っているが、なかなか好機は訪れない。
桐秋は日がな一日、自室に閉じこもっていて、ほとんど外に出ない。
部屋から出るのは朝の鯉の餌やり、夕方の入浴など自室で済ますことのできない必要最低限の用事のみ。
部屋の襖もいつも固く閉じられている。
治療には新鮮な空気の入れ替えも必要であるため、千鶴は桐秋の部屋の前を通るたび、気づかれないよう少しだけ戸を開けているが、次に通る時にはぴっちりと閉められている。
作った食事も部屋に入ることが許されていないため、扉の前に置いている。
千鶴はなんとか言葉を交わそうと、桐秋が部屋から出てきた時を見計らっては、犬のように桐秋の後をついて回る。
そのつど、体の具合や食事の献立はどうか、手伝いが必要なことはないか、何かにつけて尋ねるが、返事は返ってこない。
また、千鶴が深く踏み入れない理由としては、桐秋が自分のことは自分で済ませ、介助の手を出し損ねているということもある。
千鶴が派出看護婦として関わってきた患者は、着替えや入浴、何かにつけ介添えを必要とする人達だった。
ゆえに、今までと同じように桐秋にも同様の提案をしたが、苦い顔をされた後、きっぱりと断られてしまった。
いつも千鶴の問いかけには受け答えすらないが、このときばかりは明確に言葉にして、必要ない、と言われた。
たしかに桐秋の生活を観察していても、不便な様子はまったく見当たらない。
よって現在、千鶴は桐秋の使う場所や物をきれいにしておく、病人食を用意するなど、補助的な役割しか果たせていない。
それでもやはり大きな問題はある。
桐秋が医者の診察を拒んでいるということだ。
毎朝、南山が雇った医者が離れを訪ねてくる。
そのたびに、千鶴は部屋にこもる桐秋に声をかけるが、中から返答はない。
医者には千鶴が見た範囲での桐秋の様子を伝え、とりあえず大きく体調を崩す様子はないので、現状、注意深く観察しておくようにと言われている。
が・・・。
この一月、千鶴は前任の看護婦のこともあり、桐秋の様子を探りつつ、最低限の看護に努めていた。
新参者に初めから、あれやこれや言われても煩わしいだろうと思ったからだ。
けれど躊躇ううちにも、桐秋の顔は日に日に青白くなっていく。
これ以上見過ごすことはできない。
なんのために自分はここにきたのか。
あらためて自分の役割を思い出し、千鶴はついに桐秋の部屋に踏み込む決意をした。