星のしずく
12月の日曜の昼下がり、遼は教会の塀ごしに中庭の様子をうかがった。小さなブランコと砂場だけの庭には誰もいなかった。幼稚園を経営している教会の平日には、ふだんは20人くらいの園児が遊んでいる。
よし、と遼はうなずいた。近所の自宅から持参したハシゴをかかえ、教会の敷地に侵入する。小学4年生の遼はカウボーイハットに白黒のジャンパー、すりきれたジーンズにブーツをはき、赤いスカーフを巻いている。ベルトのポーチからは、束ねたロープの端がのぞく。
教会の壁にハシゴをたてかけ、2階のバルコニーにあがる。庭から引きあげたハシゴでさらにのぼり、赤い屋根から顔をのぞかせた。
切妻屋根の先端にそびえる十字架の根もとに、白いセスナのラジコン機がひっかかっている。誰のものかは知らないが、それが遼の獲物だ。
遼はハシゴにバランスを保って立ち、ポーチから投げなわを取りだした。それを頭上でふりまわす。投げなわは遼の得意技だ。
青白くすきとおった冬空に、白いなわがまった。十字架の先端にあたった輪がむなしく屋根をすべった。遼は、なわを回収して再度こころみる。
3回目の挑戦で、投げなわは十字架の先に引っかかった。なわをぐいっと引いて手ごたえを確かめる。大丈夫、しっかりしている。
遼は手もとのなわに力をこめ、急勾配の屋根のふちに足をかけた。慎重に命綱をたどって、1歩いっぽセスナ機を目指す。
「おい、カウボーイの少年、そこでなにをやっている」
50がらみの白髪のうすい神父が庭から見上げていた。足首までおおう、たけの長い黒いコートをまとい、首に十字架をかけている。
「すみません。ぼくのラジコン機が屋根に引っかかってしまったんです」
「嘘をつきなさい。あのセスナはわたしのだ」
「いえ、神父さんの大切な飛行機が取れなくて、お困りだろうと思ったんです」
「いまさら、そんな言いわけをしても遅い。すぐに下りてきなさい」
あと少しだったのにな。遼は、せっかくの獲物に未練げな視線をおくると、神父の指示にしたがった。
遼の母親の静江が電話で呼ばれた。神父の執務室で、静江はくりかえしあやまっていた。遼の頭も無理やり下げさせられた。
「わたしのラジコン機を取ってくれようとした行為はいいんですよ」
神父は、母親の前では、寛容にも遼の言いわけをうけいれてくれた。
「しかしね、ハシゴとなわで教会の屋根によじのぼるなんて、まるで泥棒ですよ。神聖な十字架に投げなわを使うのはもっての他です」
「すみません」と静江がくりかえし、「遼には投げなわを禁止させます」
「なにより、遼くんが屋根から足をすべらせたら大変ですよ。ラジコン機は壊れても買いなおせますが、遼くんになにかあれば、とりかえしがつきません」
神父の説教は続く。さすがは、毎週の礼拝で信者に語っているだけはある。話は聖書や詩編の引用にまでおよび、えんえん1時間にわたった。
「――では、ここに集ったお2人に神の祝福がありますように。アーメン」
「アーメン」遼と静江も復唱して、ようやく執務室から解放された。
だいぶ低くなった冬空の下、遼はハシゴを引きずって歩く。教会と同じ並びにある団地の敷地にはいった。ハシゴは、団地の共同倉庫に戻した。
団地の自宅に帰る道すがら、静江はずっと遼をしかり続けていた。
「泥棒のまねごとなんかして、本当に警察に通報されたらどうするのよ」
「ぼくは未成年だから大丈夫だって」
遼はえらぶりながらも、神父の説教にはこりごりだと思った。
「もうこんな時間じゃない。6時に駅で武志さんと待ちあわせているのに」
「ぼくはいっしょに行かないよ。もう3回も会っているからね」
「だめよ。今日はもう1人、遼に紹介したい人がいるの」
誰だろう? 遼には見当がつかなかった。
たそがれても明るい駅前広場に着いたのは午後6時15分だった。遅刻したのは神父の説教のせいじゃなく、静江の化粧に時間がかかったからだ。
クリスマスまであと1週間の広場には、高さ5メートルのクリスマスツリーが飾られていた。イルミネーションで輝くツリーの下に人だかりができている。そのなかに、武志さんと、彼に手をつながれた少女が待っていた。
静江が遅刻をあやまる。「遼のいたずらのせいで足止めされていたんです」
「遼くんは、またカウボーイのまねごとでお母さんを困らせたんだね」
武志さんの眼鏡の柔和なまなざしが、遼のカウボーイハットと赤いスカーフに向けられた。武志さんは髪を七三にわけ、濃紺の背広に革靴だった。
隣の少女は、遼と同じくらいの年ごろだ。ぺろんとした髪を肩までたらし、広い額の下の目がどこかうつろな感じがする。
「わたしの娘の愛梨だよ。小学3年生だから、遼くんのひとつ下だね」
武志さんに、体を遼のほうに向けられた愛梨がぺこりと頭を下げた。
「遼もあいさつしなさい。愛梨ちゃんは、あなたの妹になるのよ」
そういうことか、と遼は静江のこんたんに気づいた。
遼はカウボーイハットを脱ぐと、あいさつがわりにそれを愛梨にほうった。
「あっ」静江と武志さんの声があがる。
つっ立ったままの愛梨の顔にカウボーイハットがあたった。彼女はひどくおどろいたらしく、悲鳴をあげてその場にしゃがみこんでしまった。
――えっ? 遼は事態がのみこめなかった。ひとつ年下の女の子でも受けとれるていどの強さで投げたつもりだったのに――。
「なんてことするのよ。愛梨ちゃんは……」
「いいんです」武志さんが静江の言葉をさえぎった。「遼くんは知らなかったんだから。――遼くん」と向きなおり、
「愛梨はね、小学生になったころから、すこし目が不自由になってしまったんだ」
「えっ」遼は思いがけず衝撃をうけた。
愛梨は1級の視覚障害者だとあとで知った。視力が0・01以下しかないらしい。
その夜、武志さんと愛梨と、駅前のレストランで食事をして別れた。話しているのは親どうしばかりで、さしむかいの遼と愛梨は一言もしゃべらなかった。
遼の両親が離婚したのは3年前だった。遼の父親に、ほかに好きな人ができたらしい。静江は働きに出るようになり、身体障害者にかかわるボランティアで武志さんと知り合ったそうだ。
そして今日、愛梨を紹介された。静江と武志さんの再婚話は進んでいるようだ。遼は、2人の再婚をまだ納得していない。
翌週の土曜日はクリスマスイブにあたっていた。
その日、昼食をおえた遼は、団地の敷地にある公園に行った。きりんのオブジェを目標に、投げなわの練習にはげむ。自宅にいたくない気分だ。武志さんと愛梨がおとずれ、イブを祝う約束があった。
遼が帰宅したのは午後5時半だった。玄関には、男物の茶の革靴と、赤い小さなパンプスが並んでいた。リビングをのぞくと、静江とテーブルに向かいあった武志さんが片手をあげた。
「遼くん、お帰り。また、お邪魔しているよ」
遼は、本当に邪魔だとばかりに、カウボーイハットのつばを下げる。
武志さんは、今日は車で来ていて、一晩泊っていくという。
「今晩はね」と静江が機嫌をとる口調で、「クリスマスイブのご馳走を用意しているのよ。夕食まで、遼の部屋にいる愛梨ちゃんのお相手をしてあげてね」
静江と武志さんは2人だけの話があるらしい。再婚の相談だろう。
遼は自室のドアを開けた。床のまんなかで、クマのぬいぐるみで1人遊びをしていた愛梨が顔を上げた。白いフリルのついたピンクのワンピースに、ぺろんとした髪を赤いリボンでまとめている。
おしゃれをしたって見えないのに、と遼は心のなかで毒づいた。
「――お兄ちゃん?」愛梨の定まらない視線が向けられている。
そのなじめない呼びかけには答えず、
「この前はごめん。目が悪いなんて知らなかったんだ」
愛梨がぬいぐるみを置いて立ちあがった。両手をさしのべ、たよりない足どりで近づいてくる。遼のいる位置はぼんやり見えているようだ。遼はよけるわけにもいかず、ドア口につっ立ったままでいた。
愛梨の手が遼の腕にふれる。遼はびくりと体をすくませた。愛梨の視力0・01の目が、遼の目をのぞきこんでくる。ふわりとシャンプーの匂いがした。リビングからは、テレビのものらしいジングルベルが流れていた。
愛梨の小さな指が遼の頬をなでた。遼の顔のりんかくをなぞり、造作をさぐる。
「やせたあご……ちいさな鼻……眉はちょっと薄いみたい……」
「やめろよ」遼は体を引きはなした。
愛梨の両手が力なく下がった。とまどったような目をむけている。
「ごめんなさい。お兄ちゃんがどんな顔をしているか知りたかったの」
『お兄ちゃん』の呼びかけに、とまどいはふくれあがる。
「だって見えないんだろ」遼はつい口走っていた。「いくら指で探ったって、愛梨の視界には映しだされないじゃないか」
「そんなことない」愛梨の声も大きくなる。「わたしの目はこの指なの。ふれるだけで、大きさも形も、こまかいしわまでぜんぶ、わたしの頭に映し出されるの」
「だったら」遼は窓に向かい、ガラス戸を開けはなった。窓わくに切りとられた夜空に、ちらほらとまたたく星を指さし、
「あの星は見えるかよ。あんなにいっぱい輝く、満天の星空だ。あの星と星をつなぐと星座ができあがる。あれが射手座、あれが――」
「……わたしには見えない。わたしの目は光りを感じられないから」
愛梨がしゃがみこんだ。ひろいあげたクマのぬいぐるみに顔をうずめ、小さな体をふるわせている。声をこらして、泣いているようだ。
遼は、心にもない言葉を後悔していた。再婚話に対する不満を愛梨にぶつけたんだとわかっていた。それでも、口をついた言葉は止まらなかった。
どっと吹きこんだ北風が遼の髪をなぶった。
ふりかえった夜空に『満天の星』はなく、東京のとぼしい星が遠くかすかに光っているだけだった。
愛梨がすすり泣いている。遼は部屋にいたたまれなくなった。リビングの前の廊下を足音をたてて進む。「遼なの?」追いかけてくる静江の言葉をふりきり、雪のちらつく戸外に飛びだした。
行くあてはなかった。ただ愛梨のそばにいたくなかった。遼の足は、クリスマスイブを楽しむ人の行きかう駅に向かった。にぎやかな場所を無意識のうちに求めていたのかもしれない。
ふと、遼は足を止めた。雪は降りつづいている。
駅舎の1階の壁全面に、ミュージカル公演の看板がかかっていた。そこには、黒いシルクハットとマントをまとった、白いほおひげの老人が描かれていた。題名に『クリスマス・キャロル』とある。
看板の前には、1メートル半の高さの脚立が置きっぱなしになっていた。看板を架けかえている途中なのかもしれない。あたりに、看板職人らしき姿はなかった。
こな雪のまう青黒い空を、ひとすじの光りが流れていく。
よし、と遼はベルトポーチの投げなわにふれた。
*
遼は、午後7時を過ぎても帰ってこなかった。
リビングのテーブルの上には、イチゴのクリスマスケーキ、子供用のシャンパン、ローストレッグなどが並んでいる。武志と静江が心配そうに黙りこんでいる。愛梨の向かい側の椅子だけが空いていた。
愛梨は、自分の目が原因で遼と仲たがいしたのが哀しかった。視力の弱い妹なんてもちたくないんだ、と寂しい気持ちになった。
そのとき、電話が鳴って、静江が席を立った。
「えっ、警察。遼がつかまったんですか。いま交番にいるんですね」
愛梨は心臓が激しく鼓動しているのを感じた。お兄ちゃんが警察に逮捕された。愛梨は敏感な耳をじっとすませる。
「――器物損壊ですか」静江の声はうろたえていた。
お兄ちゃんはなにか壊したらしい。愛梨の動悸はいっそう速くなった。
静江が電話を切った。「これから交番に来るように言われたんですけど、愛梨ちゃんも来てほしいって、遼が強く言っているらしいの」
静江がどうしたらいいか武志にうかがっている。
「わたし、行きます」愛梨はこたえた。「お兄ちゃんのところに連れていってください。お兄ちゃんが逮捕されたなんて、なにかの間違いです」
「そうだね」武志が同意し、「3人で遼くんを迎えにいこう」
愛梨と静江は、武志の車で交番に急行した。車をおりると、冷たい粒が愛梨の額におちてきた。武志に手をひかれて派出所に入る。椅子のきしむ音がした。
「来てくれたんだね」はずむような遼の声だ。
「遼、あなた、どうしてあんなことをしたの?」静江が強くきいた。
「その動機なんですがね」見知らぬ声は警官だろう。「なかなか白状しようとしないんです。お母さんからも、きつくしかってください」
「愛梨、これだよ」遼が椅子から立ちあがる音がした。「ぼくはこれが欲しかったんだ。ほら、これにさわってみてよ」
愛梨は両手をさしのばしてみる。なにかとがったものが指にふれた。遼がそれを愛梨の手に押しつけてくる。それは愛梨の両手にかかえるほどの大きさがあり、そのわりに軽くて、中心から、とがった先が5つの方向にのびている。
「これが星だよ。このあたりで一番大きいやつを、投げなわでゲットしたんだ」
「あなたのお子さんはひどいんですよ」
その警官によると、駅前広場の5メートルのクリスマスツリーの前に脚立を立て、その上から、ツリーの先端のトップスターに投げなわを引っかけたという。
「交番からそれを見つけたわたしが、少年にやめさせようと駆けつけました。すると、なわを握ったまま脚立から飛びおりたもんだから、ツリーのてっぺんの星が根もとから折れてしまったんです」
遼の母親がしきりに警官にあやまっているようだ。
「――ねえ、見えるよね?」遼の問いかけには不安な調子があった。
愛梨は星をなぞる手を止め、その作り物を胸にかかえて顔をあげた。
「うん、見える。見えるよ、お兄ちゃん。とっても、きれいだね」
「よかった」遼の安堵が伝わってきた。
愛梨は胸に熱いものがこみあげるのを感じた。それは愛梨の瞳からあふれ、かかえた星の表面をしたたる。――お兄ちゃん、ありがとう。
遼のその気持ちが、なによりのクリスマスプレゼントだった。
了