第6話 合言葉は自由
一行は南西を目指していた。ヒトラーの機械的記憶力は大変なもので、ドイツ軍が西に動き、ソビエト軍が(たぶん)その間隙を埋めつつあることを正確に覚えていた。独ソが戦端を開く前に、西か南の戦線にたどり着くことが最も近道で安全なはずだった。
「濃くなったと思わないか」
ブレネケがマイネッケに言った。
「風向きは、東か」
マイネッケは人差し指をつばで湿らせると、空にかざした。
「おそらく西からも来るな」
ひとりごとのようにブレネケは言うと、先行して様子を見るためにコラーを呼んだ。
硝煙の匂いが強くなったことを、ふたりとも懸念していた。砲煙が見えないか、マイネッケは地平線に目を凝らした。
フライブルクは泰然と歩いている風を装いつつ、ちらちらと空に目を向けていた。こうなっては、撃ち合いに巻き込まれる前に空から見つけてもらって、救出隊を出してもらうのが一番有望である。
「いいか、必ず総統はお前たちが助け出すんだぞ。お前たちにはそれができる。それがお前たちの任務でないとしたら、誰の任務だって言うんだ」
第1親衛装甲擲弾兵師団'LAH'師団長・ヴィッシュ准将は、前師団長であるディートリッヒ大将からの電話を苦笑しつつ切った。今日はまだ3回目だ。昨日から通算すると12回目だが。この重大機密を軍用とはいえ一般電話でイタリアから怒鳴り散らしてくるのだから困ったものである。
ディートリッヒ大将はイタリア北部を守るため、第1親衛装甲軍団司令部を設立する準備をしていた。スターリングラード方面に進出して痛打を食らったヴァイクス元帥のB軍集団が整理されて消滅し、その名だけを引き継いだ新しい軍集団司令部がロンメル元帥の下、北イタリアに設置される話も進んでいる(のちケッセルリンク元帥の南方軍司令部が陸空軍を統一指揮することで決着し、B軍集団は大西洋方面に移った)。ドイツには忙しい戦線がいくつもあった。ディートリッヒはふたりの息子の名付け親をヒムラー親衛隊長官に頼んだりしていたが、最古参の党幹部としてヒムラーとの関係はかなり微妙で、LAH師団を自分の私兵として溺愛していたのである。ぜひとも、総統とLAH師団の運命的な絆をここで再確認したかった。
「シュトルヒ(連絡機)が帰投しました、将軍」
副官が声をかけた。親衛隊の階級呼称は「軍とは違う」ことを強調するヒムラーの好みで、だいたい長ったらしいものになっていたが、前線では適当に省略されている。
「休ませろ」
ヴィッシュは指示の細部を省略した。装甲師団に割り当てられた連絡機は師団長の指示に従うことになっているが、昨日からヒトラー一行を探して飛びっ放しなのだ。
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「歌でも歌うか、諸君」
フライブルクが言い出した。
「明るく行こう」
その提案を迎えたのは、無言だった。フライブルクはかまわず続けた。
「パルチザンやソビエト軍に対抗できる戦力もスピードもない我々としては、友軍が我々を見つけるチャンスを大きくすることに、賭けるべきではないかな」
言われて見ればそうだった。友軍から撃たれるのが、一番ばかばかしい。ブレネケがベルグの背中をトンと叩いた。ベルグは覚悟を決めるように瞑目した後、「エリカ」を歌いだした。花のエリカと女性名のエリカを引っ掛けた曲で、第二次大戦直前につくられた兵隊歌である。
兵士たちは唱和するが、士官たち、カシターナ、そしてヒトラーが口をつぐんだままでいる。新しい歌だから、ヒトラーの兵士時代にはなかったのだ。
「カシターナは、何か歌わないのかい」
フライブルクが言うので、ふたりの士官がおいおいという顔をした。ロシア語の歌など歌っても友軍は認識してくれない。無茶苦茶な話だったが、ブレネケに通訳してもらうと、意外なことにカシターナはすんなりと歌を歌い始めた。
「ポーリュシカ・ポーリェ」だった。ソビエト軍歌だ。古参兵たちが思わず振り向いたが、歌えといったのはフライブルク少佐だし、どうすることもできない。
兵士たちは村を後に戦いに行ってしまった、というところで、カシターナは歌うのをやめた。そのことに気づいたのはブレネケだけだったが。雑学王だがむらっ気のあるヒトラーは語学が総じて苦手で、そもそもそれが軍歌であることに気づいていなかった。
「総統も、いかがです?」
フライブルクがごくごく自然に声をかけたので、ベルンシュタインは怒るタイミングを逸した。
誰もが驚いたことに、ヒトラーは歌いだした。
'''喜ばしくも見ゆるは いとも尊き御堂にて'''
'''技の巧みと安らぎと 絶ゆることなく満ち居たり'''
'''呼ばわる響き絶えずして 永く言挙げたてまつる'''
'''チューリンゲンを統べたもう ヘルマン伯の万歳を'''
(リヒャルト・ワーグナー、「タンホイザー」大行進曲、マイソフ訳)
ベルンシュタインとゲーリケがラララで唱和し、みんなもそれにならった。ヒトラー以外はワーグナーの歌詞など覚えていない。
「何を考えているんです、少佐殿」
ゲーリケ中尉が何気なくフライブルクの脇に寄って、ささやいた。
「いや、別に。だがみんな明るくなったろう」
たしかに重苦しい空気は払われた。フライブルクは続けた。
「総統は、目の前の女性を励ますためなら、歌も歌われるのだな」
ゲーリケは目を見張って、人差し指を口に当てた。それには答えず、フライブルクは言った。
「勝負は今日でつく。総統の身辺を頼むぞ。俺は格闘はダメだ」
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それは、唐突にやってきた。Ju88爆撃機の偵察型で、何のマークもつけていない。アプヴェーア(国防軍情報部)のために働いている機体だった。みんな必死に手を振った。Ju88はこちらに近づいてきて、翼を振った。地上では歓声が上がった。もっと近くで見ようとするように、機体は高度を下げた。
バリバリと不快な轟音がすぐ近くから起きた。
ソビエト軍が対空用によく使う、4連マキシム機関銃が至近から火を噴き、Ju88を火球へと変えた。パルチザンだ。しかもかなり装備がいい。Ju88は機首をわずかに引き起こし、マキシムのあたりに突っ込んだ。機銃弾が連続してはぜる、けたたましい音がして、静かになった。
「ベルンシュタイン、ゲーリケ、総統とカシターナを頼む。後のものは散開して射撃用意」
フライブルクが告げた。Ju88の乗員は問題外だ。Ju88の乗員席は狭い空間に集中している。脱出せずに地面に突っ込んだ以上、安否を問える状態ではない。
ぱらぱらと銃声が起こった。パルチザンに囲まれていたのだ。
顔を引きつらせたベルグが、コラーの助けを借りて軽機関銃を撃つ。それを落ち着かせるようにマイネッケが寄り添う。他の者は近くの窪みに走った。たぶんここが戦場だった1941年ごろ、どちらかの兵士が壕を掘ったところに違いない。窪みの縁はすっかり丸くなり、草が全体を覆っていた。ブレネケは油断なく、地雷の埋められている兆しを探した。これでは壕のどちら側に地雷があってもおかしくない。拳銃を構えたフライブルクが声をかけ、遅れてマイネッケたちも窪みに飛び込んで、とたんに狭くなった。
「娘さん、何も心配することはない。私は腕っこきの護衛を連れているからね」
ドイツ語はわからないが、ヒトラーの声の調子は、カシターナを少し落ち着かせたようだった。カシターナがパルチザンの元に飛び込めば万事休するのだが、そんな素振りはまったくない。住んでいた村で、よほどのことがあったのだろう。
それほど長く、機関銃の弾は続かない。すべてを賭けて外へ走るべきか、フライブルクが迷う余裕もなかった。パルチザンが一斉に姿を現し、走ってきた。マイネッケが指示するのを待たず、ベルグは短機関銃を持った、最も危険な相手から順に銃を向ける。
唐突に、西側から轟音と衝撃がやってきた。パルチザンが迫撃砲を撃ったのか? 違う。パルチザンが地雷を踏んだのだ。地雷が地雷を誘爆させ、たてつづけに3回の爆発が土砂を飛び散らせる。
フライブルクはカシターナに武器を渡そうか迷って、やめた。武器を持たないことで死なずに済むかもしれない。士官たちが拳銃を撃ち始めている。短機関銃を構えた最後のひとりが打ち倒される。フライブルクが飛び出そうと祈りの言葉を探している間に、ブレネケに先を越された。パルチザンがブレネケに銃を向けるのを、さすが正確な狙いでベルンシュタインの拳銃がとらえる。PPSH短機関銃が手に入った。なお数人が壕に走り寄ってくる。ブレネケはまだ残っている右手の薬指でPPSHの引き金を引く。弾は出ない。故障だ。壕に飛び込んだ最初のひとりを、ブレネケはとっさにPPSHで殴る。いきなりPPSHが暴発を始め、反動でブレネケが背中を叩きつけられる。パルチザンは銃剣つき小銃でブレネケを刺そうと振り返ったところを、カウフマンの拳銃に撃たれる。どうせ当たらないからと撃たず、まだ弾が残っていたのだ。しかし射撃姿勢が悪いのでカウフマンも後ろのめりになり、戦闘用ナイフを構えていたマイネッケの手元を狂わせる。
カシターナの悲鳴が響いた。ノーマークになった西側から、地雷に吹き飛ばされなかったパルチザンが血だらけの顔をゆがませて、戦闘用ナイフをかざしている。
無機的な銃声が、その顔を凍りつかせた。すべての表情を失った顔は、力なく地面の上に落ちていった。
ヒトラーもまた、発射したばかりの拳銃を手に、表情を凍らせていた。全ての人間が何かしら動いているのに、ヒトラーだけ止まっていた。
空からぴりぴりと振動が伝わってきた。偵察機の変事をいぶかしんだドイツ戦闘機が、墜落推定地点の様子を見るよう命じられてやってきたのだ。みだりに発砲するな、という命令を受けているらしく、ほとんど機関銃音は聞こえない。開けたところを走るパルチザンだけが掃射を受けていて、壕の中は孤立した世界になっている。それを利用してベルンシュタインとゲーリケが、手が8本あるかのように近距離戦闘の精髄を見せ、次々に壕内のパルチザンを沈黙させていた。ついに壕内と周囲からパルチザンの脅威が去ると、フライブルクは空に向かって手を振って見せた。すでに戦闘機は、炎上するJu88を視界に捉えているはずだった。
状況を察してくれればいいのだが。
戦闘機は翼を振って去っていった。翼を振ったのは了解なのか、ただの挨拶なのか、考えてみても仕方がない。
「急いで移動だ」
フライブルクが言った。ヒトラーをカウフマンが抱きかかえるようにしている。ベルンシュタインとゲーリケは奮闘の後でへとへとで、ヒトラーの身辺がお留守になっていたらしい。
「人を撃ったのは、初めてですか、我が総統」
カウフマンは穏やかに尋ねた。
「私は伝令兵だったからな」
ヒトラーの返答には、まだどこか魂が完全に戻ってきていない響きがあった。
「人など撃ったことがないのが普通なのです。こんな時代は、普通じゃありません」
カウフマンも穏やかに応じた。カシターナが何か言いかけていることに気づいたカウフマンは、歩みを止めずに、カシターナに目線で発言を促した。
カシターナはヒトラーに、弱弱しい笑顔を添えて、ロシア語で何か言った。
「何と言っているのかね、軍曹」
ヒトラーは尋ねた。
「お礼を言っているのですよ、我が総統」
ロシア語を知らないカウフマンは答えた。
「他に考えられません」
のどかな雰囲気が漂っているのは、その数メートル四方だけだった。後方も側面も疑い出せばきりがない。周囲を固める兵士たちはきょろきょろしながら早足で進んでいた。パルチザンはもう一行の位置を知っているのだ。軽機関銃は放棄してきた。弾がない。
不意にブレネケが立ち止まった。
「来た。イワンの戦車だ」
かすかに風に乗って、T34戦車独特の騒がしいキャタピラ音が流れてくるのを、ブレネケは聞き取ったのだ。
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ソビエト第7親衛軍は自らの運命を悟り、受容した。ヒトラーの死を確実なものとし、自らの死と引き換えにするのだ。あたう限りの偵察部隊が編成され、放たれた。
「補給物資で食えるものは、食ってしまえ」
第7親衛軍司令官・シュミロフ中将は言い放った。
「トラックを偵察に回すのだ」
公然と、あるいは隠れて、補給物資からウォッカが兵士たちに行き渡った。若干の車両が飲酒運転による衝突で失われたが、もはやそれを気にするものはいない。
すぐに明らかになったことは、高度に錯綜した情報が司令部を押し流さんばかりに殺到するので、偵察情報の分析評価は無駄だ、という事実であった。
ソビエト軍はシンプルな用兵に戻った。歩兵、そして戦車。ローラーを回し、戦場を平らにならすのだ。
やがてパルチザンから、怪しい一団が発見され、ドイツ空軍の妨害で取り逃がしたことが報告された。もはや作戦も何もない。シュミロフは簡潔に、全軍その地点を目指すよう下令した。
だがドイツ親衛戦車軍団にも、空軍から同様の情報が届いていた。幸か不幸か、両軍が激突しようとする南方では、側面擁護と鉄道路線防衛のため、ザルマン中佐の戦闘団が戦闘準備に入っていた。
ドイツ軍も前進せねばならなかった。ソビエト軍も前進せねばならなかった。前哨部隊が戦闘に入ると、それは一歩も引かぬ遭遇戦へとエスカレートした。大口径自走砲の数ではソビエト軍に利があったが、機関銃の数と用法でドイツ軍はまだまだ勝っていた。組織的な機動ができぬまま、大隊単位の激突と消耗が繰り返された。目指す地域が同じであったから、双方とも譲れないのである。ドイツ親衛装甲軍団には戦意はあったが、細かい駆け引きは器用とはいえなかった。
「動かないで、友軍が来るのを待とう」
フライブルクの提案は、正統的なものだった。ドイツ軍の歩兵戦闘マニュアルでは、対戦車戦闘手段がない状態で戦車に出会ったら、壕を深く掘ってもぐりこみ、何をするにもやり過ごしてからにしろ、ということになっている。
いま一行は、小川のほとりにいた。川の運んだ粘土が岸を固め、わずかな高低差ができたところで、かろうじて敵味方の視線を逃れている。それもそう長いことではあるまいが。
カシターナが、何か言った。
「食事をしよう、と言っています」
ブレネケが通訳するのを待たず、グルパの袋が魔法のように出てきた。ひとつかみずつのグルパが配られ、残りはほとんどなくなった。
「こういうことだったのだな」
ヒトラーが言った。誰も答えなかった。兵があえて何かを選んだとき、士官は沈黙するしかない。
グルパをじゃりじゃりと噛む音が、穏やかな和音を奏でた。
「一粒の蕎麦もし死なずば」
ヒトラーがつぶやいた。
「私が生きて帰れたら、この贈り物にどう報いたらいいだろう、カシターナ」
通訳を受けたカシターナは、何事かを歌うように言った。ブレネケは翻訳に困っている
ようだった。
「カシターナはこう言っています。ロシアではあまりにも多くの命が失われている。総統が命を救われるとしたら、その代償は、どれだけの命をロシアで救うことに値するだろう、と」
ヒトラーはちょうど最後のグルパを口に放り込もうとしていたが、その手が止まった。
「私はゲルマンの血の民である。今ここに私は、ロシアの実りの民ともなろう」
ヒトラーは残りのグルパを口に放り込んで、噛み砕いた。ブレネケが困惑をはっきり表情に出し
ながら、ヒトラーの言葉を懸命に通訳した。
「政治家は、こういうことを平気で言うのだ、お嬢さん」
ヒトラーはチャップリンのような笑顔を浮かべた。
「ロシアの民のために何ができるか、考えてみよう。約束する」
和やかな時間は、突然の砲声で打ち切られた。数台ずつの戦車部隊が互いを視認し、砲戦に入ったのだ。壕を掘る時間も道具もない。大きなキャタピラ音が響いたかと思うと、10メートルほど向こうの川原にソビエト戦車が突っ込み、止まった。不自然な姿勢をとったための、ギア周りの故障だろう。
「戦車から離れろ」
フライブルクが叫んだ。ドイツ軍の砲火は当然、あの車両に集中する。近くにいてはたまったものではない。川に沿って、泥の中をみんな走り出した。背後で大きな爆発音がした。砲塔上部にあるふたつの丸いハッチが、勢いよく跳ね上げられ、そこから炎が噴き出していた。
この当時、戦車と戦車の砲戦距離は1キロが相場である。友軍が迫っているに違いないが、下手な飛び出し方をすると敵から、あるいは味方から撃たれる。
ロシア語の叫び声が河畔から上がった。ロシア歩兵とパルチザンが入り混じった一団が、川原を覗き込んで一行を見つけたのだ。少し長いロシア語の叫びは、明らかに一行に向けられていた。止まらないと撃つぞ、と言っているのかも知れないし、神を信じているんなら祈りを唱えるんだな、と言っているのかも知れない。いずれにしても、一行にもう戦う力はないから、同じことだった。
チャポン。何かが川に落ちた。同じものが岸辺に落ちたとき、その正体は明らかになった。轟音と共に。
ドイツの小銃擲弾である。対戦車タイプのものが有名だが、本来は分隊レベルの支援火器であり、ただの手榴弾に相当する弾薬もある。ドイツ戦闘親衛隊の歩兵たちがこっそり近づいて、荒っぽい奇襲をかけたのだ。それでもヒトラーに銃を向けるソビエト兵士に、ベルンシュタインがさっきパルチザンから取り上げた戦闘ナイフを投げて、沈黙させた。
岸辺にたどり着いた兵士が叫んだ。「総統だ!」まだ飛び交う銃弾に、一行は身を伏せた。明らかにドイツ側の弾幕が濃い。まもなくドイツ兵たちが川床に飛び降りてきた。
助け上げられつつ土手を上ると、一気に視界が開けた。ドイツ戦車が散開している。ベルグが思わず歓声を上げた。みんな走っていた。コラーがカシターナの手を引いている。この状況になっても荷物を離そうとしないカシターナのもう一方の手を、カウフマンが取った。両手を取られたカシターナの頭から麦わら帽子がふわりと落ちて、川に浮かんだ。
マイネッケは用心深く振り向くが、その手にはもう火器はない。ベルンシュタインとゲーリケはヒトラーの後ろを、楯になるように走った。
希望がすぐそこまで見えたとき、轟音と閃光があたりを満たした。ゲーリケが背中を真紅に染めて倒れた。Ju152自走砲の弾片を浴びたのだ。ドイツ戦車が応射するが、まったく届かない。Ju152は仰角を取って、弓なりに遠くから榴弾を撃ち込んでいるのだ。戦車兵たちがハッチを閉めて引っ込む。直撃を受けるほど不運な戦車はないが、戦車の近くでも安心とはいえなかった。ドイツ戦車が傍らを通り過ぎていく。ブレネケがゲーリケの認識票を折り取って、その目を閉じてやると、再び走り出した。何事も手短に。ここは東部戦線。
「総統を乗せてもらえないか」
フライブルクが手近な3号戦車に走り寄って怒鳴った。戦車はぎりぎりの乗員を乗せる隙間しかないが、榴弾の被害を食い止めるチャンスは増す。叫び声に気づいた戦車長がハッチを空けて飛び出した。自分が場所を空けなければ、人が入れないのだ。
「フランツ! 総統を後方へお連れしろ」
戦車長が叫んだ相手は、おそらく砲手であろう。主砲の照準と引き金を預かる砲手は、副戦車長として扱われている。
戦車長がヒトラーを助け上げようとしたそのとき、いきなり砲塔が回った。至近で75ミリ砲が発射された爆風と衝撃で、戦車長もヒトラーも地面に叩きつけられた。ほとんど時間を置かず、戦車に不快な断裂音が走ったかと思うと、砲塔が白煙と共に数十センチ持ち上がり、斜めになって落ちた。にじみ出るように火炎が車内からあふれ、弾薬のはじける音がする。T34戦車の群れが発砲しながら突進してきていた。
この時期、ドイツ軍戦車の大半を占める3号戦車と4号戦車には、ソビエト軍の対戦車ライフルからの被害を軽減するため、シュルツェンと呼ばれる薄い鉄板が車体側面と砲塔に取り付けられ始めていた。ソビエト軍にとっては、今までより一回り大きいシルエットの、見慣れない戦車が増えたことになる。中央軍集団戦区でもそうだったように、ソビエト軍はドイツ軍の新型ティーガー戦車に対しては思い切って接近するよう指示されていたので、ここでも誤認による散発的な突進が起こってしまったのである。
カウフマンがヒトラーを背負った。戦車長はクルーの名前を次々に呼びながら、戦車を離れようとしない。フライブルクは簡潔に叫んだ。
「走れ!」
もはや走れる方向はほとんどなかった。時刻と太陽の方向から、だいたい南に向かって走っているはずだ。戦車と戦車の混戦は続いている。開けた地形のために、歩兵は戦車に近寄れない。
南から、鋭い砲声がとどろいた。ソビエト戦車が数台、魔法にかかったように炎上する。見たこともないシルエットの車両群が、前方にいた。
砲を下ろしたホルニッセが、砲のついたホルニッセを1両ずつ牽引しているのだ。エンジンの負担を和らげる措置だった。ホルニッセの長砲身88ミリ砲は、常識外れの距離からソビエト車両を次々に無力化していく。
歩兵の小集団が近づいてきた。胸の国家記章が角ばっているので戦闘親衛隊ではない。
「もう少しの辛抱です。ツーク(小隊)がおります」
士官が声をかけた。
「小隊などでどうにもなるものか」
フライブルクがいらだって答えた。
「パンツァーツーク(戦車小隊の意もある)に乗ってしまえば、こちらのものです、少佐殿」
自信たっぷりに答える士官の肩には、ピンクの兵科色がパイピングされている。歩兵の軍装でありながら、戦車兵と同じピンクの兵科色を持つこの士官は……
「装甲列車だ!」ベルクが目ざとく見つけて叫んだ。列車の中央近くに、見慣れない車両を積んだ貨車がいる。その戦車らしきものも、盛んに発砲していた。
ザルマン中佐は、ホルニッセの一団と、専用貨車ごとパンター戦車を組み込んだ装甲列車を、自分の戦闘団として編成したのだった。ティーガーやパンターはドイツ国有鉄道の標準的な貨車には横幅がありすぎるので、専用貨車がある。貨車に載せられたパンターの故障エンジンは取り外され、空洞は弾薬庫代わりに使われていた。
ザルマン中佐自身は、Kヴェルケ修理上がりの8トン牽引車を指揮車にしていた。対空機関砲を積むために後ろ半分を平板にした軽トラックのような車体で、急ごしらえの枠と幌で仮屋根をつけ、各種の無線機をずらりと並べていた。
「もう大丈夫です、といいたいところですが、パルチザンの線路破壊は侮れませんでな」
ザルマンは挨拶もそこそこに、状況説明にかかった。
「行く手の安全確保が大変です」
「そのことなら心配なさそうですよ」
フライブルクは言った。列車めがけて、ドイツ戦車の小集団があとからあとから接近している。親衛戦車軍団の車両に違いなかった。