第4章 夏の東風に乗って
多くの国でそうであるように、ソビエトでも同じ地域の兵士は同じ部隊に集めるのが原則であった。ところがドイツの侵攻により、多くの軍管区は丸ごとドイツ軍の手に落ち、残された国土から集めた兵団も、激しく転戦して戦線を支えるほかはなくなった。
多くの師団は定数を大きく割り込み、それでも補充を受けることができなかった。それは軍管区システム半壊のほかに、新たに作られた二元システムも影響していたであろう。ドイツとの戦争が始まった直後から、新兵の徴募と部隊編成はグラブウプラフォーム、赤軍編成兵備総監部の責任とされ、編成を完結した部隊は参謀本部に引き渡された。そしていずれも、スターリン国防委員長に直属する同格の組織であった。編成した部隊数がグラブウプラフォームの成績となるのだから、既存部隊への補充が後回しとなるのは致し方がない。
しかし本当の理由は、補充再編のため部隊を後方へ置いておく余裕がない、というソビエト軍の台所事情であるかもしれなかった。前線で消耗しきった部隊が集められ、ひとつを残して解体され、統合されることはときどきあった。
----
第7親衛軍の第24親衛ライフル軍団は、3つの師団から成っていた。いずれも第7親衛軍がまだ第64軍と呼ばれ、スターリングラードで戦っていたころからの所属部隊である。
ワシレンコ少将の第15親衛ライフル師団は、フィンランド戦争、第二次ハリコフ攻防戦、スターリングラードと転戦し、国境の北から南まで走り回って一度も全滅の憂き目を見なかった幸運な師団である。
デニセンコ少将の第36親衛ライフル師団は、もともと第9空挺軍団(歩兵6個大隊、山砲兵3個大隊基幹の師団サイズ)だったものが、1942年夏に歩兵不足から親衛ライフル師団に改組されたもので、戦中派の師団である。改編後はスターリングラードが初陣だった。
ロソフ少将の第72親衛ライフル師団は、3月に親衛師団の称号を受けたばかりで、元は3代目第29歩兵師団である。初代はミンスク、2代目はヴャージマで包囲され、それぞれ全滅した。3代目ははるか北極圏のアルハンゲリスク軍管区で編成され、スターリングラードで初めて戦った。
すでに述べたように、ソビエト軍は1941年に大損害を受けた後、いったんほとんどの歩兵軍団や戦車軍団を解散して、師団を軍に直属させた。幸運にも生き延びて練度を高めた部隊が「親衛」の称号を受け、軍直轄部隊を使ってきめ細かい用兵をする軍団組織を復活してもらって、ここぞという戦場に投入された典型例が第7親衛軍である。親衛ライフル師団は砲兵連隊の砲が1割多いなど、多少の装備定数表での優遇はされていたが、どの師団も定数を割り込むのが常態では、どれほどのご利益があったか怪しい。むしろ、決定的な戦場に軍直轄砲兵が集中投入されるとき、それにあわせて進むのが親衛軍の真骨頂であった。
第7親衛軍がクルスク突出部南端の付け根にいるのは、もちろんドイツの進出をとがめて反撃するためであった。それが今、ドイツ軍の退却に誘い出されて西進している。北のクルスク突出部との隙間に入り込まれない限り、包囲の危険はないはずだが。このまま戦線を短くして終わりなのか、第7親衛軍にも南進してドイツ軍の南端部分を切り取る命令が下るのか。士官たちは軍の進路を気にしていたが、兵士たちはそれすら知るよしもない。
そんな各師団の中を、騎馬や供与ジープの伝令が駆け巡った。前進せよ。あたう限りの速度で前進せよ。
士官ばかりの小部隊を全滅させたパルチザンの無線報告から、ソビエト首脳はヒトラーの遭難を確信したのである。いまや第7親衛軍のふたつの親衛ライフル軍団は、ドイツ軍の崩壊を期待しつつ、ヒトラーの死を確認するか、あるいはそれを与えるために前進速度を増した。
はるか西で、いったん退却したドイツ戦闘親衛隊の戦車軍団が前進を始めたことも、パルチザンの知らせにあった。
歩兵をいっぱいに乗せたT34戦車の列が、歩兵たちを追い越してゆく。随伴歩兵中隊を乗せた、第167独立戦車連隊の車両である。歩かないで済む彼らを、うらやましいというものは、新兵以外いなかった。戦車めがけて攻撃が集中しても、降りて逃げたりしないのが随伴歩兵中隊である。全員が短機関銃装備だから、近づくまで反撃することすらできない。何台かが歩兵もろとも失われても、何台かが敵陣に飛び込んで、射ち合いで敵歩兵を黙らせればよし、という部隊だった。
見慣れないシルエットの車両が見える。第1529自走砲兵連隊のSU152である。最新鋭の貴重車両だった。もう砲兵から切り離される心配はない。砲兵が一緒に進んでいるのだから。ソビエトがどんどん強くなってきたことを、前線の兵士たちは実感していた。
ドイツ第11歩兵軍団は、のしのしとハリコフの西を北上し、前進したソビエト第7親衛軍の背後を突こうとしたが、ハリコフ包囲を目指すソビエト第57軍の一部と鉢合わせする格好になった。ラインズの隣をすり抜けるランニングバックのように、ドイツ第3装甲軍団はその西を北上し、ベルゴロド市との連絡回復を目指した。
ドイツ軍でも、歩兵部隊が前に出て、戦車部隊が後をついていくパターンが普通になってきていた。戦車部隊があまりにも希少になったからである。
互いに歩兵が前面に出てくると、元気になるのはソビエトのSU122とSU152である。大口径の野砲だから、歩兵に対して効果的で、ドイツ軍の歩兵兵器では射程がまるで及ばない。150ミリ歩兵砲などでは対抗できないのだ。しかし巨弾を車内に持ち込む数に限りがあり、濃い弾幕を張れないまま、ドイツ装甲師団のマルダー自走砲に射程内まで飛び込まれ、被害車両が続出した。
この当時、装甲師団のマルダー自走砲は15両前後、つまり1個中隊相当程度のことが多い。戦車連隊を温存したまま、歩兵、自走砲、さらに第228突撃砲大隊の突撃砲も加わって、陰惨な前哨戦が幕を開けた。第25親衛ライフル軍団がドイツ第3装甲軍団のチームワークで浮き足立ったころ、予備の位置にいたソビエト第47軍が東から第2波として投入され、ドイツ第3装甲軍団にぶつかった。6個師団のうち4個は編成から半年未満、1個は大戦前にキエフで編成され、兵員補充源を失ったまま戦い続けていて、戦線に出すのはかなり無茶だが、それでも果敢に突進をかけてきた。
第3装甲軍団のブライト大将は、前進停止を命じざるを得なかった。ソビエト歩兵を追い散らすため戦車連隊が出動し、自動車化歩兵部隊は大急ぎで弾薬を補充した。次の前進を支援するため、第3砲兵司令部部隊に統括された軍団砲兵群は一斉に陣を敷き、砲撃準備にかかった。エンジンへの負担を避けるため、のそのそと遅れて進んできた第503重戦車大隊のタイガー戦車も、しぶしぶ支援砲撃の列に加わった。
マンシュタイン元帥は第24装甲軍団の投入を決断した。はるか南東から、2つの装甲師団とヴィーキング装甲擲弾兵師団が鉄道で呼び寄せられたが、列車の手配もあって全軍団の投入に4日はかかる。それぞれの師団から連隊規模の戦闘群が車両だけで猛進し、ケンプ軍支隊の側面を支えにかかった。
呼び寄せられた師団群は、戦車連隊の定数もはるかに割り込んでいるが、何よりも長砲身型のIV号戦車がまだ少ない。地形にも不慣れで、装甲偵察大隊が大きな犠牲を出しながら、戦闘群の前方を確保する戦いが続いた。敵の位置と地形をつかむと、あとはヴィーキング師団に6両だけある3号突撃砲や、第23装甲師団に7両だけ配属された3号自走重歩兵砲が威力を発揮して、歩兵が安全に陣を張れる余地を確保した。貴重な戦車はその後方で、ソビエト軍の戦線突破に目を光らせる。
----
「またかよ」
ベルグは空に向かって、聞こえるはずもない悪態をついた。偵察機型らしいドイツ軍のJu88爆撃機が、手を振るカウフマン一行にいったん接近した後、興味を失ったように飛び去ることが、もう3回も続いていた。
「何が起こっているのでしょうな。地上も騒がしくなっておりますし」
ブレネケは返答を期待しない口調で、現状を短く総括した。パルチザンらしき集団の往来頻度と規模が増し、軽機関銃1丁と弾薬箱ひとつではとても対抗できそうになくなってきた。偵察役が先行して様子をうかがい、その手招きで残り全員が走って前進する、最前線のような移動方法を取らざるを得ず、そのことがますます歩みを遅くしていた。
敵も味方も、何かを必死に探している。その探し物が彼らでないことを、またJu88が思い出させてくれた。
----
サブマシンガンが2丁に、自分も含めてピストルが3丁。ヒトラーのピストルは数に入れないとすれば、火器はこれだけになった。
前哨を買って出たゲーリケが少し前を歩く。
一番後ろをさりげなく歩こうとしたフライブルクだったが、ベルンシュタインがいやな顔をするので、真ん中をヒトラーと歩くことにした。
「彼らについては、安心していい」
ヒトラーがようやく口を開いたのは、すっかり日が高くなってからだった。
「彼らは格闘と接近戦のプロだ」
言われてフライブルクにも、ベルンシュタインが背後を取られるのを嫌がるわけがわかった気がした。
「失礼、少佐の名前はなんと言ったかな」
「ギュンター・フライブルクであります、我が総統」
自分の名前を昨夜呼んでくれなかったのは、知らなかったからなのだ、とフライブルクは気づいた。
後ろからぴりぴりした気配が伝わってくる。ベルンシュタインの責任感が気配となってあふれ出しているに違いない。シュトラッサー中佐から託された任務を、ベルンシュタインは全身全霊で果たそうとしていた。
あれでは激しく消耗するだろうが、1、2日保てばいい。それで前線に行き着けるはずだ。
ドイツ兵の死体は、まだそれほど古くなかった。3人が散らばっているのは、ここで全滅したものか。火器や弾薬はすっかり持ち去られていた。それでもごそごそと雑のうを漁るフライブルクに、ベルンシュタインは露骨な嫌悪の表情を浮かべた。
「あった」
フライブルクは安堵の微笑をたたえて、戦果を取り出した。果物ナイフのような小型ナイフだった。日本陸軍では銃剣をゴボウ剣と俗称したが、ドイツ軍でも事情は同じで、刺すための銃剣には刃がついていない。それとは別に刃のついているナイフを兵士は持っていて、兵士に世話をしてもらう高級士官は持っていない。
フライブルクは早速、そのナイフを使って、兵士が背中に丸めて持っていたツェルトバーン(ポンチョ)を引き裂き始めた。ドイツ軍のポンチョは首を出す穴が開いた三角形の布で、防寒具として軍服の上に羽織ることもあるし、4枚まとめてボタンを留めるとテントになる。フライブルクはそれをぞんざいに長方形に切ると、2枚ずつベルンシュタインとゲーリケに渡した。
「階級章を覆ってください。目立つから」
フライブルクは簡潔に言うと、自分のジャケットを脱いで、肩の階級章にポンチョの布を巻きつけ、そのジャケットをヒトラーに差し出した。
「我が総統、これをお召しください。総統の服は、その、上等すぎますので」
フライブルク自身は、背中に真っ赤な穴のいくつか開いた、兵士のジャケットを着た。フライブルクは平然と、兵士のガンベルトを吊り革ごと失敬して、雑のうと銃剣も手に入れた。ヒトラーは相変わらず無表情で、フライブルクの贈り物を受けた。ヒトラーは毒づくこともできないほど空腹なのが感じとれたが、どうしてやることもできなかった。フライブルクが多少前線の事情に通じているといっても、ソビエトに侵攻したときにはすでに陸軍大学校を出ていたから、師団司令部などで上げ膳据え膳の参謀勤務をしたに過ぎない。潅木とジャガイモの茎を区別したり、タマネギの芽を見分けたりすることは、士官学校でも陸軍大学校でも教えてくれないのだ。
若いゲーリケはフライブルクを見習って、別の死体の雑のうからナイフを取り出し、ベルンシュタインも無言でそれにならった。
「さあ、時間をすっかり使ってしまいました。行きましょう」
フライブルクは声を張り上げた瞬間、空腹を自覚した。
----
どちらの方向からも切る音か叩く音が聞こえていた。ザルマン中佐は、ドニエプロペトロフスク・Kヴェルケの本部にようやく通されたところだった。砲塔を持ち上げる巨大なアーチ型クレーンがあちらにもこちらにも見える。
もともとドイツのシステムでは、戦車部隊の修理隊でどうにも修理できない車体は本国に回送され、工場で改装されたり、スクラップになったりする。しかしそれは輸送システムに負担をかけるから、野戦車両修理廠(Kヴェルケ)がリガ、ミンスク、ドニエプロペトロフスクなどに作られた。Kヴェルケはいわば半官半民の存在で、軍が移転費を負担し、民間車両工場を労働者ごと本国から持ってきて、そのまま運用しているものだった。
「いい車両はツィタデルが近いからというので、根こそぎ持っていかれましたからねえ」
工場長は気の毒そうに言った。
第24装甲軍団を投入する事態となり、いよいよドイツ軍の手元は苦しくなった。人なら、いる。パンター戦車の各装甲師団への導入を控え、残った戦車を1個大隊にまとめ、1個大隊分のクルーを後送して車両受け取り待ちにしている師団がいくつかあるのだ。マンシュタインは1個大隊分のクルーからフランスで待命を満喫する夢を取り上げ、「最後の大隊」を編成するために、ザルマン中佐をKヴェルケに派遣したのだった。
たしかにザルマンが現場を見回しても、戦車の形とは程遠いがらんどうのシャーシが多い。
「あれは?」
ザルマンの視界に、4号戦車の車台を使っているらしい、見慣れない車両の一群が入ってきた。
「ホルニッセですよ。あまりにも故障続きなんで、前線から送り返されてきました。しかも砲のついているのは半分くらいです。現地で砲だけキープしたみたいですね」
工場長は溶接や切断の音に負けないよう大声で言った。
「どこが悪いんだ」
「足回りとか、色々ですね。砲だってかなり故障してます。ああ、それで思い出した。完全な姿をしたのがいくらか、あるにはありますがね」
工場長はザルマンを別の一角に連れて行った。流線型の美しい姿をした車両があった。
「パンターです。ご存知と思いますが」
傷ひとつない新型戦車が、なぜここにあるのか。工場長はニヤニヤと説明した。
「燃料漏れでエンジンが焼けましてね。代わりのエンジンがないんで、動かないんです。砲塔から上はなんともないんですがね」
ザルマンは考え込んだ。何かできそうな気がした。
----
エンジン音がする。東から聞こえてくることを考えると、それは吉兆のようには思えなかった。フライブルクは少しぼやけてきた頭で、隠れられるくぼみを探した。無駄だとは思いながら姿勢を低くするフライブルクの真似をすることを、もう誰もためらわなかった。
「カメラーデン!」
ひそめた声が、それでもフライブルクたちの耳に達した。潅木の茂みから、手招きするものがいる。その袖がフェルドグラウ(ドイツ軍服の色)であることに、フライブルクは賭けた。
近づいてみると、それは潅木ではなかった。家畜小屋の跡から失敬したのか、木枠のついた金網に、びっしりと草や枝が植えてある。足りない物陰をそれで補いながら、カウフマンたちは進んできたのだ。
「我が総統?」
思わず口にしたカウフマンの語尾は自然に上がっていた。ありうることではなかった。なぜ東部戦線の真ん中でヒトラーに出くわすのか。
ヒトラーの顔にも驚きがあった。その視線は、ドイツ兵に混じったカシターナに向けられていた。ヒトラーの示したものが純粋な驚きであるとしたら、カシターナがヒトラーに示していたのは、純粋な怯えであった。