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第2章 チャレンジ・アンド・レスポンス


 1941年の暗い夏、国境近くに布陣していたソビエト師団と軍団は、多くの砲兵器材を失った。軍団砲兵を臨機応変に師団に張り付けることが軍団長の役目なのだから、砲兵部隊が足りないときに軍団があっても意味がない。ソビエトはいったん、軍の下にあった軍団司令部のほとんどを廃止して、どの師団にも属さない軍直轄砲兵を増やすよう尽力した。


 1942年秋には、ようやく数を増してきたソビエトの軍直轄砲兵はほとんどが連隊単位かそれ以下であった。1943年春になると、3個砲兵連隊をまとめた砲兵師団が戦線のあちこちでその存在感を示し、夏ともなれば、そのまた3倍の規模を持つ突破砲兵軍団が編制表に現れた。


 ソビエト軍の欠点は、部隊と部隊の現場協力がうまくいかないことであった。ドイツ軍と同じような進撃の仕方をすると、その欠点を突かれてしまう。ようやくそのことに気づいたソビエト軍は、いかにもソビエト軍らしい方法で、その欠点を乗り越えようとしていた。


 攻撃を始める瞬間、ありったけの大砲を集中して、戦線に大穴を空ける。これなら現場での調整も何もいらない。大きな差がついてから、戦車部隊を進めればよいのである。


 だからソビエトは、そのチャンスを慎重にうかがっていた。


「モーデルの装甲師団が移動を始めた。移動距離はわずかだが、明らかにクルスク方向とは逆だ」


 ジューコフ元帥(ソビエト軍最高司令官代理)は、モスクワに帰って来たワシレフスキー参謀総長に言った。


 ジューコフも、中央方面軍司令部から帰ってきたばかりである。こうやって参謀本部の首脳が分担して方面軍司令部に出向き、あれこれと口を挟むのが、良くも悪くもソビエト流の指揮である。第9軍の動向は中央方面軍司令部を通じて真っ先にジューコフの耳に入るから、説明役も自然とジューコフになる。


 モーデルは装甲師団群を、中央軍集団司令部のあるオリョールと後方のブリャンスクを結ぶ鉄道に沿って再配置した。パルチザンの輸送妨害が激しくなり、保安師団やハンガリー軍師団だけでは抑えかねる状況になっているため、装甲師団の存在自体を重石に使おうとしたのである。ソビエト軍から見ると、これは他の地域への移動に備えた配置にも見えた。


 ジューコフは苦渋の表情で作戦地図を見つめていた。ワシレフスキーは辛抱強く、ジューコフが話し始めるのを待っていた。


 もしドイツがツィタデル作戦を中止したのだとしたら、ソビエトがこの春から営々とクルスクに築き上げた陣地は無駄になる。そしてソビエトは、ブラッディな突撃から国土奪回を始めなければならない。秋の泥濘前に攻勢をかける準備を急がねばならない、とすらいえる。


 そうだとしたら、この状況を選んだ責任は、ジューコフが負うしかなかった。


「ヒトラーに関する噂は、知っているな」


 ジューコフは話題を変えた。


「行方不明の可能性がある、と聞いている」


 ワシレフスキーは慎重に言った。


「もしドイツの政権が交代したとすれば、我々は弱い抵抗のもとで、一気に国土を奪還できるだろう」


 ジューコフはさりげなくワシレフスキーの表情を読んだが、無駄に終わった。根負けしたように、ジューコフは言った。


「南西方面軍の現戦力で、ドイツ軍を追うことは出来るか」


「第7突破砲兵軍団と第9突破砲兵軍団を、使ってもいいということだね」


 ワシレフスキーは鋭く聞き返した。ジューコフは押し黙った。どちらもクルスクでドイツ軍が消耗した後の攻勢に備え、南西方面軍に配属してある。


「使わずに、と言ったら、怒るかね、アレクサンドル・ミハイロヴィチ」


 ジューコフは小さな声になった。


「それはかえって危険だろう」


 ワシレフスキーは言った。


「まず敵が放棄した地域を確保すべきだ。本格的な突破はその後に続くものだ」


「同志スターリンが、それで満足されればいいのだが」


 ジューコフの表情に含まれているのは、気負いでも脅しでもない。純粋な懸念であるように、ワシレフスキーには聞こえた。なしくずしに歩兵・砲兵・戦車が無秩序な前進を始め、スターリンが後退や停止を許さず、ドイツの反撃で虎の子の突破砲兵軍団が大打撃を受けることを、ジューコフは憂慮しているのだ。


 ワシレフスキーは、少し息を吸って、そして言った。


「前進を始めるなら、早いほうがいい。同志スターリンのお望みを考えればな」


----


 風はさわやかだった。キューベルワーゲンは人影の途絶えた道路をひた走っている。カウフマンは何度も後ろを振り返ったが、ケンプ軍支隊に属する部隊は追いついてくる様子がない。西に向かっていないということだろうか。カウフマンには見当がつかなかった。


 道の上に、三角柱を横倒しにした形の障害物があることに、カウフマンは気づいた。細い木枠の三角柱に、有刺鉄線が緩くぐるぐる巻いてあるようだ。


「道をそれますぜ、軍曹」


 マイネッケはカウフマンの返事も聞かず、ハンドルを切って道から逸れた。半円を描いて、障害物を大回りしようというのだ。不整地に入ったことが振動で否応なくわかった。


「頭を低くしてください、軍曹」


 マイネッケは続けた。


「道の真ん中に止まってくれとイワンが言ってるんです。狙撃兵がいますよ」


 カウフマンはムダと知りつつ、車体のふちから周囲を見た。


 東部戦線はあまりに広大なので、パトロール隊が回るだけになっている地域もある。雪の深かった1941年~1942年の冬などは、低空飛行で生身の兵士を雪の上に落とすことも行われた。それやこれやで、ソビエトのパルチザンには正規の兵士が相当数送り込まれているのだ。狙撃兵など珍しくもない。直前で迂回、などという読まれやすい行動をすると、地雷が待ち構えているかもしれない。だからマイネッケはパルチザンの読み筋をはずして、大回りを選んだのである。


'''ぱん!'''


 不吉な音が響いた。マイネッケは前方の小さな壕から、小銃を構えたパルチザン兵士が顔をのぞかせているのに気づいた。タイヤをやられたらしい。マイネッケはとっさに、壕に向けてハンドルを切り、アクセルを踏み込んだ。無理のかかった前輪が不愉快な高音を立てる。


 破れたほうのタイヤが、小さな個人壕にはまり込み、車体は前のめりに傾いた。カウフマンとマイネッケは、空中に投げ出された。


 金属と金属がきしむ音がして、キューベルワーゲンの車体は上下さかさまになった。その車体に押しつぶされなかったのは幸運というほかない。打撲した全身が痛んだが、ふたりともゆっくりと起き上がった。キューベルワーゲンは幸い炎上しなかったが、もう上から見ると長方形ではないだろう。


 不愉快だが、という前置きは飲み込んで、マイネッケが簡潔に言った。


「イワンの持ち物を調べてみましょう。食料を探さないと」


 どうやら、歩くしかないようだった。


----


 ハリコフでいちおうの備えを終えたドイツ軍の前には、ほとんど無人の野が広がっている。ソビエトの攻勢が迫っていることはまず間違いないのだが、その兆しは現れていない。通信車の上から眺めると、小規模な偵察隊が早足で移動している姿が目に付いた。


 モムゼン空軍少佐は、第42歩兵軍団に配属されたフリフォ(連絡士官)である。ハリコフ周辺には数多くの飛行場と航空部隊がおり、地上支援の打ち合わせをするのがモムゼンの役目である。


 ソビエトの攻撃的意図が明らかになるにつれ、陸軍より先に空軍が忙しく働いていた。ちょっと困るのは、ハリコフとベルゴロドの中間地点に当たるミコヤノフカ空軍基地に進出し、ツィタデル支援の中核になるはずだった第8航空軍団司令部が、機材・物資と共に突然立ち退きを要求されてしまったことである。フリフォの交渉相手は航空軍団司令部だから、これは少なからず仕事を滞らせた。


 頭上をヘンシェル地上攻撃機がゆっくり通り過ぎていく。30ミリ機関砲で装甲の薄い戦車の上部を打ち抜く、特殊な機体である。無線の周波数や出力の関係で、機上で陸軍と相談しながら目標を選ぶのは無理だったから、空軍は勝手に出撃するほかない。


 今回、陸軍の注文はちょっと変わっていた。なるべく砲兵を叩き、歩兵・戦車・砲兵の連携を崩してくれという。ヘンシェル地上攻撃機のような特殊機は別だが、その他の地上攻撃機は歩兵や戦車をやり過ごし、砲兵やトラックの列をねらって攻撃をかけていた。


 無線車からモムゼンを呼ぶ声がする。レシーバーを取ると、先乗りした戦闘機部隊からの、ロケット砲部隊の大集団を発見したという報告だった。ソビエト機が迎撃に群がってきて、大立ち回りになっているらしい。


 ハリコフへの準備砲撃は、今にも始まろうとしているようだ。


 戦車と歩兵の排除については、陸軍はほとんど何も言って来ない。なにか秘策があるのだろうか。モムゼンは今朝前線で見た、見慣れない自走砲のことを思い浮かべた。


 ソビエト軍の準備砲撃は、たっぷり60分続いた。そのあとにやってきたのは、歩兵の突撃だった。いつもの通り、懲罰大隊(規律違反者などが危険な任務につかされる部隊)が先頭に立っているのだろう。ドイツ軍の生き残った迫撃砲と機関銃が歓迎の声を上げ、やがて地雷がこれに加わる。


 若い上等兵がひとり、旧式の37ミリ対戦車砲に張り付いて、発射ボタンに手をかけている。祈るように枯れ草をかぶせられた砲には、先込め式の巨大なホローチャージ弾が取り付けられている。彼よりまだ若い他のクルーたちは手に入る限りの武器を持って、周囲に伏せていた。先込め式で、次弾装填のチャンスはないからである。


 来た。ソビエト戦車群だ。20台から30台の群れが、ひとつ、またひとつと視界に現れる。


 75ミリ~85ミリ級戦車砲・対戦車砲の撃ちあいは、1000メートル程度の距離で始まるのが通例である。敵も味方もそう思っていた。ところが今日のドイツ軍は違っていた。3000メートルを切らないうちから、火蓋を切ったのである。聞いたことのない発射音に、上等兵は新兵器の噂を思い出した。


 すべてが当たったわけではない。しかし有効弾は出た。わずか2000メートルの距離を詰めることが、死の短距離走になった。


 ソビエト戦車も撃ち始めた。撃ちながら走った。一方的に撃たれる距離で撃破された戦車はわずかだった。わずかだったが、それがソビエト戦車の動きを変えていた。


 ソビエト戦車には無線がないという一種の固定観念があるが、この時期になるとソビエト戦車のほとんどは、無線レシーバをすでに持っていた。


 レシーバである。あくまで。


 発信できる無線機は、少なくとも小隊長車(3台に1台)くらいしかない。


 ドイツ軍は、アンテナの形状で発信機を持った車体を見分けて、それを集中的に狙った。こうなるとソビエト戦車は、連携も柔軟性もなく不器用に突撃するしか道がなくなる。1台、また1台と、種々雑多な砲や砲以外のもので、ソビエト戦車は撃破されていった。


 ホローチャージ弾は有効射程が短い上、うまく垂直に当たらないと熱い炸薬が飛び散ってしまい、装甲を溶かせない。思い切り引き付ける必要があった。


 1台のソビエト戦車が射界に入ってきた。なんとか砲を回せる。上等兵は発射ボタンを押した。

 命中! 砲塔の付け根だ。貫通はしなかったが、炸薬が砲塔リングの隙間から車内に入って乗員を殺傷したか、動きがおかしくなった。


 止まらない。こちらにそのまま向かってくる。


 上等兵は迷わず逃げ出した。別の歩兵がソビエト戦車に駆け寄ると、平べったい後部に集束手榴弾を投げ上げる。エンジンを吹き飛ばされた戦車は、37ミリ対戦車砲を踏み潰してようやく停止した。内部の弾薬が誘爆したか、ふたつの丸いハッチを跳ね上げて火柱が上がる。キャタピラ音が消えて、上等兵は急に静寂がやってきたように感じたが、もちろんそれは錯覚といってよかった。鋼鉄のインファイトは、まだまだ続いていた。上等兵はソビエト製の短機関銃を構えた。昨日のソビエト兵の置き土産だ。


 ソビエト軍の攻勢がついに途切れた。しかし今日のうちにも再攻勢があるかもしれない。兵士たちは兵器の整備や、壕の拡張を急いだ。若い兵士たちが度胸試しのようにソビエト兵の死体を確かめては、使える武器弾薬を集めて回っている。最近補充されてくる若すぎる兵士たちと年を取りすぎた兵士たちは、異質の生物のように行動が違っていた。ソビエト軍も事情は似たようなもので、若く元気のいい兵士には優先的にサブマシンガンが与えられ、しばしばひとつの中隊に集められて、突撃の中核を担っていた。


 勝利の立役者になったのは、ホルニッセ自走砲だった。ケニッヒスティーガー戦車やフェルディナント自走砲と同等の長砲身88ミリ砲を、4号戦車(すこし車体を延長したタイプ)に載せたものである。4号戦車の主砲は1.5トン。長砲身88ミリ砲は3.7トン。重いので精一杯装甲板などを省略したのだが、それでも載せたことのない重量物のせいで、故障が続発した。1943年1月30日付で発効した「ホルニッセ戦車猟兵中隊編制表」は、当時の様子をごく控えめに伝えている。「中隊本部にホルニッセ1両。3個小隊に各2両。予備3両。合計10両」


 6月の時点でも初期不良が完全には解決できていなかったが、車両を動かさずに固定砲台として使えるのは、まだしもありがたい状況といえた。砲そのものも量産が始まったばかりで、砲身の継ぎ目などに構造上の弱さが残っており、損傷には気を配らねばならない。


 南方軍集団の受領した80両のホルニッセは、ついにその半分がドニエプロペトロフスクに後送されたばかりであった。残り半分が今のところハリコフをがっちりと支えている。


 ドイツ南方軍集団司令部の作戦地図には無数のピンが林立していた。ソビエト軍の前進が報告された場所だ。ソビエト軍はようやく迷いを捨て、前進に移っていた。


「今度は、ハリコフは捨てないのかね、元帥」


 ヒトラーの声には皮肉の成分がはっきり感じ取れた。この年の春、マンシュタイン指揮下の装甲軍団がヒトラーの命令を無視してハリコフを放棄し、勇んで前進したソビエト軍部隊を包囲撃滅して、南方の全面崩壊を食い止めたことがあった。


「今回はハリコフをエサに使うのです、総統」


 マンシュタインはその挑発を受け流した。


「ケンプ軍支隊のうち、第42歩兵軍団にハリコフを固めさせ、その北にいる第11歩兵軍団をハリコフの西に集めます。ハリコフの北を大きく開けて突出を誘い、第11歩兵軍団と南方に下げておいた第3装甲軍団で、罠のふたを閉じる時期を見計らいます」


 マンシュタインは、その空白地帯を示し、次いで少し西に刺さった2本の友軍ピンを示した。


「第4戦車軍の装甲軍団ふたつは、現在少しずつ計画的に撤退中です。クルスク南方を守っている歩兵軍団も若干退却しておりますが、移動が遅いので、包囲されないよう装甲軍団で保護する必要があります」


「ソビエト軍がハリコフの包囲をねらって、北側から反時計回りに迂回を試みるというのだね、元帥。だがその進出をとがめて、ケンプ軍支隊が南から包囲の輪を閉じたとして、北側にはソビエトのヴォロネジ方面軍がいるわけだろう。包囲を目指す我が部隊がその間に割り込めば、両側から集中砲火を浴びるのではないかね」


「最も工夫を要する問題です、総統」


 マンシュタインは短く答え、それ以上言おうとしなかった。ヒトラーはしばらく返答を待った後、ふふんと笑った。


「罠は成った。私はもう、大本営に帰っても良いのではないかな」


「はい、ご協力に感謝いたします、我が総統」


「では、すぐに発つ」


 ヒトラーは短く言った。マンシュタインは無言で目を見張った。すでに夕刻である。


「何、私の機長は、夜間飛行くらいお手の物だ。シシリーの防備が気がかりなのでな」


 チュニジア陥落後、次の戦場と目されるシシリー島にはイタリア軍と並んでドイツ軍が展開し、その指揮には事実上、陸軍参謀本部は口が挟めなくなっていた。ツァイスラーとヨードルの仲が悪いので、非公式な調整すらままならないのである。南方軍を統括するケッセルリンク空軍元帥が陸軍出身で、素っ頓狂な指示を出さないのが幸いではあったが。そこにヒトラーが上から指示を出しても、現場をかき回すだけだろうとわかっていたが、それを口に出すマンシュタインではなかった。


 ヒトラー専用機のスタッフは、ヒトラーの性急な命令には慣れていたから、準備はすぐに済んだ。旅支度を整えているヒトラーに、今度はマンシュタインが面会を求めてきた。


「OKHに現状を詳しく説明するために、フライブルク少佐の同乗を許していただければ、大変幸いです、我が総統」


 マンシュタインは壮年の士官を示し、フライブルクはナチス式に右手を上げて敬礼した。


 ドイツ陸軍では、士官学校を出ると少尉、さらに2年無事に勤め上げれば中尉である。優秀な士官はたいてい中尉で推薦を受けて陸軍大学校を受験する。うまく受かって卒業すると、参謀将校としてエリートコースに乗り、一生転勤を繰り返す。だから参謀将校の一番下は、20代後半で、なりたての大尉ということになる。


 フライブルクは30代半ばで少佐だから、参謀将校の中ではとりたてて出世が早くはない。OKHから南方軍集団へ事情調査のために送られた士官たちの間では、最下級であった。作戦たけなわの折、本国へ使い走りさせられる立場であった。


 ヒトラーはため息をついて、言った。


「認めよう」


 短気なツァイスラーと無愛想なヨードル、目新しい事態には理解の遅いカイテルのあいだで、さしものヒトラーも怒鳴り疲れることはあった。面倒な説明をいくらか、この男が引き受けてくれるかもしれない。ヒトラーはそう思った。


 フライブルクの個人的な感情の動きを、表情から読み取ろうとするものはいなかった。また、それがはっきり顔に出たわけでもなかった。


----


「カメラート~」


 耳慣れた単語が、耳慣れない甲高い声で聞こえてきた。娘の声だ。カウフマンが見回すと、草原の向こうから大きな古カバンを提げた、麦わら帽子のロシア娘が手を振りながら走ってくる。長い金髪が揺れている。戦場とは思えない光景だ。


 近づいてくると、娘の表情がわかってきた。見たところ、20才にはなっていない年恰好だ。笑おうとして、笑えていない。


「カ……カメラート」


 娘の語尾が不安げに小さくなった。


「ドイツ語は?」


 娘が困ったように微笑んだ。どうも「カメラートと言えば撃たれない」ことだけ知っているらしい。ドイツ語が出来るか、と尋ねられたことはわかっているが、答えるだけのボキャブラリーがないように見えた。カウフマンもマイネッケもロシア語は出来ないから、思わず顔を見合わせてしまった。


「ワタシ、ドイツ、カメラート」


 娘は訴えるように言うと、ロシア語でなにか早口にしゃべり、「カッ」と摩擦音を口にしながら、自分の首を切る真似をした。


「ドイツ軍の協力者として、村人やNKVD(内務人民委員部。秘密警察と情報部を兼ねたような組織で、のち一部が分離してKGBになる)に殺される、というのだね」


 カウフマンはできるだけゆっくりと質問を口にした。


 娘は激しく首を縦に振った。


「家族は」


「死にました」


 娘は短く答えた。


「なぜ、あなたは、殺される」


「私の家、ドイツ、占領」


 娘はかろうじて知っているドイツ語の言葉をつないで、答えた。


 カウフマンは考え込んだ。ドイツ軍が村を占領すると、民家の住人を狭い部屋に押し込めて、民家を兵士が使う。いきおい本来の住人とは会話も、取引も、友情も芽生える。補給品から誕生祝を贈ることもあるし、他のドイツ兵に盗まれた財産を盗み返してやる、などということすらある。ドイツ軍が撤退した後、その村人が村で孤立するであろうことは、想像がついた。


「どこへ行きます? お嬢さん」


 娘のこわばった顔を覗き込むように、カウフマンは静かに尋ねた。娘は黙った。考えていなかったというより、考えないようにして、自分を励まして祖国を抜け出してきたのであろう。


「ドイツへ」


 娘は吐き出すように言った。それを口にすること自体、大きな覚悟が必要だったことはカウフマンたちにも伝わってくるのだが、その言葉が何一つ問題を解決していないことを、思わずにはいられない。


 娘がじっとカウフマンを見て、何かを懸命にまくし立てた。連れて行ってくれといっているに違いない。


「名前は」


「カシターナ」


 娘は答えた。カウフマンは弱弱しい視線をマイネッケに向けた。マイネッケはじっとカウフマンを見つめたが、すぐ笑いをこらえるように視線を逸らした。結論はあなたの顔に書いてありますよ、と言いたげに。


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