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第1章 黒と黄の流れ


 ウクライナを土の海とすれば、クルスクは浅瀬の高みにある。オスコル川、セイム川をはじめとする大小無数の河川は、あるいは蛇行し、あるいは合わさり、わずかな高低差に沿って細かい粘土の粒を運ぶ。年月を経て乾いた川底からは埃となって粘土が舞い上がり、黒く豊かなチェルノーゼムに薄く黄色い地層をかぶせる。


 1943年春、ソビエトの将帥たちはスターリンに意見を徴され、ドイツ軍の攻勢意図はクルスク突出部の除去にありと口を揃えた。かの大粛清よりはや5年。生き残った司令官たちは手ごわい敵手からそれぞれ学ぶところあり、戦略レベルにおける無能ゆえの失策は、ドイツの期待できるものではなくなっていた。


 住民を断固疎開させ、夜を待って黄色い大地を黒く掘るソビエトの陣地構築は、航空偵察によってドイツに漏れぬはずがない。しかしその全容を明かさず、罠の真の深さを覆い隠すほどには、ソビエト軍はすでに手練れとなっていた。


 ドイツの真の不幸は、この大ソビエト軍の急速な学びを感じ取れなかったところから発していた。


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 1943年5月、ミュンヘンでの会議は終わった。


 自分の控えめな反対にもかかわらず、作戦は予定通り実施されるだろう、と南方軍集団司令官・マンシュタイン元帥は考えていた。すでに時期が遅すぎるし、ドイツの選択肢が突出部の除去以外にないことは、士官学校の受験生でも言い当てるだろう。第9軍司令官・モーデル上級大将もソビエト陣営の堅さを見て取って反対し、戦車兵総監・グデーリアン上級大将は再建されつつある装甲部隊をリスクにさらすあらゆる試みに反対する構えだった。グデーリアンやモーデルと仲の悪い中央軍集団司令官・クルーゲ元帥は賛成に回っている。参謀総長・ツァイスラー大将もこの「正統的な」作戦に疑問を持っていないようだ。

意表をつくことが戦いの基本だというのに。


 すべての問題は、ヒトラーにおいて結節する。彼は勝利を欲している。チュニジアで失い、また失おうとしている巨大な人的物的資源が、余計に新たな成果へと彼をかき立て、あせらせているのだ。


 だから宿舎に総統の訪問 - 呼び出しではない - を受けたとき、マンシュタインは心から驚いた。事前の予告すらなかった。いきなりホテルのドアが開いて、数人の親衛隊員が有無を言わさず入り込んだあと、直ぐ後にヒトラーがやってきたのだ。


「元帥、このような形で急な訪問をしたことを詫びねばならんが、相応の理由があることなのだ」ヒトラーの声は、潜めても甲高い。「秘密が漏れておる」


 ヒトラーの説明は速くて一方的だったが、マンシュタインは程なく、モーデルの熱弁が無駄でなかったことを知った。ソビエトの迎撃準備が十分であることを、ヒトラーは秘密が漏れたと解釈したのだ。無理もない、とマンシュタインは思った。突出部を切り取る作戦は士官候補生なら思いつくことだが、ヒトラーは兵長だ。


「しかし作戦は実施されねばならぬ」


 ヒトラーは甲高くまくし立てたが、マンシュタインの予想に反して、その後の言葉は継がれず、ヒトラーはじっとマンシュタインを見た。


「元帥は先ほどの会議で、面白いアイデアを提示していたな」


「ああ」


 マンシュタインは思い当たった。ソビエトが最も予想していないこと、すなわち、クルスク突出部をまっすぐ真西からすりつぶす正面攻撃はどうかと、マンシュタインは会議で提案した。十分な火力の集中があればやれるかもしれない。空軍と砲兵を集中させるのだ…セバストーポリのように。


「しかし、あれはいかん。秘密が漏れてしまう。信用できる者は非常に少ない」


 ヒトラーはつぶやくように言った。再び早口になったヒトラーの言葉を聞き取っているうち、マンシュタインの表情から温和さが抜けてきた。


「南方軍集団だけでやるのだ」


 ヒトラーはマンシュタインをにらみつけた。マンシュタインの提案した攻め口は、中央軍集団の担当である。考え込むマンシュタインに、ヒトラーは畳み掛けた。


「それも、急がねばならぬ。できるか、元帥」


 マンシュタインは静かに言った。


「非常に難しいことです、総統。すべてお任せいただけますか。それが絶対的に必要です」


「わしと元帥で、ツィタデル作戦をぶち壊すのだ」


 せっかちにうなずいたヒトラーは、にたにたと笑った。


「ツィタデル(城砦)をぶち壊すこの作戦を、今からシュツルムボック(破城つち)と呼ぶことにしよう」


 ヒトラーはそれがさも重大なことのように、記録させる者を探してきょろきょろした。


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 司令部に向かう列車の中で、マンシュタインは財布の小銭を数えるように、南方軍集団戦域の作戦図を見た。ブッセ参謀長は連れてくるわけに行かなかったから、手元にある簡単なものである。


 クルスク方面を攻撃するために、マンシュタインには3本の牙と、1本の予備の牙が与えられていた。


 最も強力な牙は、第48装甲軍団である。前年にコーカサスへ行って帰ってきた第3装甲師団、前年にはクルスクの東にあるヴォロネジまで進出し、その後ドン軍集団に加えられてスターリングラード解囲に奮闘した第11装甲師団に加え、春のハリコフ奪還に奮闘したグロスドイッチュラント装甲擲弾兵師団がいる。期待のパンター戦車を集中させた第10装甲旅団もこの軍団に含まれる。


 ハリコフ戦で男を上げたハウサー大将の指揮する第2SS装甲軍団は、第1、第2、第3SS装甲擲弾兵師団を傘下に収める。いずれも急拡張された師団だが、軍団直轄部隊も含め砲・ロケットを豊富に持っており、戦車の数だけで測れない地力を持っている。武装親衛隊はとかく単調に猪突するところがあり、柔軟さを欠くが、それは元国防軍中将のハウサーが補うだろう。


 ケンプ軍支隊の第3装甲軍団は、前年に再編地のフランスから戻ってきてドン軍集団に加わった第6装甲師団・第7装甲師団、中央軍集団からぼろぼろの状態で南方に転じて防衛任務に走り回った第19装甲師団、ティーガー戦車45両を持つ第503独立重戦車大隊といった面々である。


 これらはツィタデル作戦への参加を前提として、クルスクの南に集められている戦力だが、マンシュタインにはもうひとつ、第24装甲軍団があった。第17装甲師団、第23装甲師団、第5SS"ヴィーキング"装甲擲弾兵師団を擁するこの軍団は、少し南方のイジウム周辺に予備として後置されていた。クルスクでの攻勢を秘匿するため、このあたりにある小さな屈曲部を南北から切り取るパンテル作戦に従事するという触れ込みで集められていたのだが、実際ヒトラーはツィタデル作戦が成功したら、大真面目でこの屈曲部に攻勢をかけるつもりでいた。これらの装甲師団は、保有する戦車が50~60両程度であり、他の攻勢参加師団がIII号・IV号戦車だけで90~100両を持っているのに比べて、やや状態が悪かった。


 どうしても包囲の腕が足りない。それを補うにはあれしかあるまいな、とマンシュタインは車窓を眺めながら考えていた。


----


 ハリコフ北方の、人家のない交差点で交通整理に当たっていたカウフマン憲兵軍曹は、キューベルワーゲンの助手席で、さっきから指示書とにらめっこをしていた。いくら視線を浴びても、その指示書の内容は変わるわけではない。それはわかっていたが、カウフマンにはどうしてもその内容が信じられなかった。


 昨日までと逆なのだ。最優先で東の前線に送り込んでいた装甲部隊を、今度は西向きに最優先で通せという。小隊長も指示書を渡しながらあいまいな表情をしていた。詳しい事情は知らされていないらしい。


「来ていただけますか、軍曹殿」


 マイネッケ伍長が呼ぶ声がして、カウフマンは顔を上げた。


 マイネッケと組むようになってずいぶんになる。最近速成下士官課程に送られ、伍長になって戻ってきたが、これも憲兵としては優遇というほどでもない。軍の権威を代表して話すという性質上、憲兵は下士官がふたり一組で任務につくことが多く、下士官は常に不足しているのだ。


 カウフマンが十字路に出てみると、マイネッケが空軍高射砲部隊の士官になかなか交差点を通行させてもらえないのをなじられていた。マイネッケはこういう「偉い人」との会話がどうも苦手である。これで同輩や下級兵士とはすぐ友達になって、いろいろ聞き出してくるのだから、人の得手不得手はわからない。


 もうすっかり大地の泥は乾いている。独ソのどちらが先に動くのか、といったことにはカウフマンは関心がない。どちらが動いても交通量は増える。交通量が増えれば路上の揉め事は激増する。


 行きかう兵士たちの表情が緊張している。もうすぐ爆発的に交通量が増えるな、とカウフマンは感じていた。カウフマンにとって、それが戦争であり、そこが戦場であった。


----


「また退避だって?」


 装甲列車の列車長は仮眠していた寝室から指揮車に戻ってくると、副官に声をかけた。人数としては中隊規模の装甲列車では、4人しかいない士官のひとりである副官は、自然と副将格になる。列車長が中尉で、副官が少尉などと言う装甲列車すらあるのだ。


「北向き列車がまた増えたのか」


「南向きなのです」


 列車長は軽く目を見張って、説明を促した。


「第4戦車軍が南、というより西へ向かっているようです。一部だけかもしれませんが」


 副官は声を落とした。


 クルスク突出部の南の付け根にあるベルゴロド市は、ツィタデル作戦の南側を受け持つ第4戦車軍(第48装甲軍団、第2SS装甲軍団)の前線基地である。南方軍集団司令部のザボロジェからハリコフ経由でベルゴロドまで南北に鉄道が伸びているのだが、いまベルゴロドから部隊が出てゆく理由が、わからない。


 機関班長(ドイツ国有鉄道所属で、軍人ではないが士官待遇)が入ってきたので、列車長は向き直った。ともかく今は、待避線で輸送列車をやり過ごす運行計画を打ち合わせなければならない。


 ちょうどそのころ、ソビエトとドイツの双方を震撼させるニュースがひそひそと伝達され、暗号解読や諜報を通じて全世界に伝わっている最中だったのだが、彼らには知るよしもなかった。


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 南方軍集団はクルスク突出部の南側、中央軍集団は北側を担当している。オリョールにあるドイツ中央軍集団司令部の作戦主任参謀・トレスコウ大佐は多忙だった。電話がかかってくるたびに頭を切り替えなければいけなかったが、絶えず気にかけておく事項もあった。ツィタデル作戦は北半分については中止なのだが、中止であるという事実はまだもらしてはいけなかった。当面、中央軍集団に集められた部隊や物資を勝手に使っていいのか、実務的な取り決めが山ほど必要だったが、それはひそひそと進めるしかない。


 いまかかってきている電話は、そんな多忙な中に割り込んだ、世間話だった。少なくとも、そのように聞こえた。


「あの、大佐がお探しになっていた書類ですが、いま南方軍集団司令部にあります」


 相手の口調には張りがあったどこか、この状況を面白がっているようにさえ聞こえた。


「そちらで処分できるかい」


 トレスコウにとってもまったく予期しない展開だったが、なんとか遅れずに、何気なく返答できた。なにしろ軍用電話だから、どこで誰が聞き耳を立てているかわからない。


「それは手間がかかりますが、やってみますよ。私も読んでみたいものでね」


 こんどこそ意表を突かれたトレスコウが絶句するのを面白がるように、相手は短い挨拶のあと電話を

切った。


 読んでみたい、とはどういう意味だろう。近くであれば爆発物の渡しようもあるのだが、気軽に頼んだトレスコウの言い分のほうが無茶なのだから、先方も言葉に詰まって適当なことを言っただけかもしれない。


 あれでなかなか実行力のありそうな奴だ、とトレスコウが相手の顔を思い浮かべていると、次の電話がかかってきた。やれやれ、ヒトラー暗殺は後回しにして、今は仕事だ。


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「元帥閣下は十分に部下を掌握しておられるのですか」


 ツァイスラー大将(ドイツ陸軍参謀総長)は、マンシュタインとの電話会談で、その有名な怒声を響かせた。


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 OKH(陸軍参謀本部)では、ヒトラーの裁可なしに積極的な命令が出せず、金縛り状態になっていた。その中で、マンシュタインの南方軍集団が勝手に退却を始めたというニュースがさまざまな情報源から一度に聞こえてきて、短気で知られるツァイスラー大将はマンシュタインに電話で談じ込んで、いや怒鳴り込んでいるところであった。


「個々の部隊が戦術的機動をしていることはあるでしょうが、私としては、いま申し上げたように」


 マンシュタインは空とぼけていた。主な部隊移動はテレタイプで逐一OKHに報告することになっているから、マンシュタインがその報告にある移動を知りませんでは済まないのである。済まないものをとぼけているから、余計にツァイスラーは腹を立てる。


「かようなご返答では、元帥閣下の更迭も視野に入れざるを得ない」


 ツァイスラーは決め台詞を吐いた。


「総統閣下の御裁断がそうであれば、致し方もないことです」


 マンシュタインは静かに意地悪く応じた。一瞬ツァイスラーの言葉が途絶え、電話から荒い息だけが

聞こえてきたので、マンシュタインは不快感を顔に出した。


「追って連絡する」


 ツァイスラーは返事も聞かずに電話を切った。ヒトラーの陸軍への影響力を強めるため、陸軍正統派のハルダー上級大将に代わって据えられたのがツァイスラーである。それも少将であったものを、2階級特進させるという異例ずくめの人事である。


 陸軍に影響力が弱く、ヒトラーに頼らざるを得ない人物を、ヒトラーはわざと陸軍参謀総長にしたのだった。軍歴も先輩、階級も上の軍司令官たちを操るストレスに、受話器を置きながらマンシュタインはほんの少し同情した。


「私が出たほうが、良くないのかね、将軍」


 後ろから声がした。


「いえ、それでは台無しですから。我が総統」


 マンシュタインは応じた。


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「南だけだ。南だけなのだ、同志将軍」


 参謀総長・ワシレフスキー上級大将は、ヴォロネジ方面軍司令官・バトゥーティン大将をなだめるように言った。バトゥーティンの幅広い顔から細長い目がワシレフスキーに向き合う様子からは、彼がスターリングラード包囲戦を戦い抜き、ハリコフに乗り込んでマンシュタインに逆ねじを食らったソビエト屈指の猛将であることは想像しづらかった。


「ヒトラーに変事があったとしますと、南と北でドイツ軍の動きがまったく違うことは、確かに説明できませんな、同志元帥」


 バトゥーティンの物腰は柔らかいとすら言えた。わざわざモスクワから協議に飛んできた参謀総長を前に、いきなり攻撃命令をねだるほど、バトゥーティンはせっかちではない。


 ふたりとも、まだ50才に達していない。いま東部戦線の東側は、壮年の将軍たちに委ねられていた。


 もしイギリスの解読しているドイツ陸軍上級司令部間のテレタイプ通信がソビエトにも明かされていたら、中央軍集団と北方軍集団、いや南方軍集団を除いたすべての司令部がOKW(ドイツ軍総司令部)に対して事情説明をせっついているのに、南方軍集団だけが不思議な沈黙を保っていることが、ソビエトの注意を引いたであろう。しかしいまソビエトにわかっていることは、南方軍集団、特にケンプ軍支隊がずるずると後退し、クルスク突出部の南で戦線を直線に直し、ほとんどハリコフを放棄せんばかりの動きをしていることだけだった。


「ベルゴロドでは、全方向に向けて陣地を構築中です」


 バトゥーティンは地図を指差した。


「気に入らないな」


 ワシレフスキーは何か言いかけて、黙った。その沈黙を察するように、バトゥーティンは言葉を継いだ。


「この早春に、マンシュタインはハリコフを放棄して見せました。ベルゴロドを放棄しないのは、部隊のエサをつけなければイワンは食いつかないと彼が考えているからでしょうか、同志元帥」


 そう。そのハリコフ攻防戦がバトゥーティンの喫した大敗北であったから、ワシレフスキーは言葉を濁らせたのである。


 ソビエト軍はすでに、必要ならば待つことを覚えていた。ウクライナとドンバス(ドン川下流域)は魅力的な資源の宝庫だから、放って置けばソビエトは攻勢をかけてくるだろうとマンシュタインは春先から高をくくっていたが、ソビエトの将星たちはドイツの台所事情を忖度できるまでに成長していたのである。


「北の突破砲兵軍団は、南下するのですか」


 バトゥーティンは簡潔に尋ねた。


「北の様子を見極めたい。私だけでも決めるわけに行かんのでな、同志将軍」


 ワシレフスキーの答えに、今度はバトゥーティンが言葉を選ぶため沈黙した。


 当時の1個突破砲兵軍団は、76.2ミリ野砲144門、122ミリ榴弾砲168門、152ミリ榴弾砲64門、152ミリ野砲72門、120ミリ重迫撃砲216門、203ミリ榴弾砲48門、カチューシャ・ロケット3456基(ランチャー付きトラック864台)から成る。クルスクの北側には、少なくとも4個突破砲兵軍団がとぐろを巻いている。


 ヴォロネジ方面軍はクルスク突出部の南半分を統括する。北半分を統括するのはロソコフスキー大将のソビエト中央方面軍である。その北で突出部の付け根を担当するのが、ポポフ上級大将のブリャンスク方面軍で、もしドイツ中央軍集団が消耗すればこれに襲い掛かるよう、軍直轄砲兵の大集団がブリャンスク方面軍の後方に集結していた。そしてソビエト最高司令官代理のジューコフ元帥は、開戦依頼の宿敵であり、前年冬の攻勢「火星」作戦を阻んで彼の軍人生命を危うくした中央軍集団に鉄槌を下す、このチャンスにこだわっていた。そこから砲兵を引き抜くことは、あまり冷静な人物とは思われていないジューコフの逆鱗に触れる可能性があったのである。


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 パンと水と缶詰だけの簡単な食事は、すぐに終わった。カウフマンは道から少し離れたところに停車させたキャーベルワーゲンの傍らで、マイネッケと一夜限りの壕を掘った。そこで寝ようというのではない。パルチザンと鉢合わせしたときの用心である。


 交通整理は憲兵隊の仕事だが、軍司令部に直属の憲兵である以上、その軍が担当する戦区の後方で、その軍の所属部隊をさばくのが基本である。第4戦車軍の西への移動に伴って、今日のうちに小隊本部も西に移動する手はずになっている。夕方まで交通整理を行った後、急いで追いかけろというのが指示だった。


 しかしマイネッケの勘では、ここは夜中に自動車1台でうろうろしていい地域ではなかった。パルチザンが動いている気配がある。だから原隊への帰還は夜が明けてから、とマイネッケは主張したのである。


 大隊規模の車両部隊がときどき街道を通っていくのがわかった。東部戦線では戦線を離れるとソビエト軍の爆撃は滅多になかったから、灯火管制も緩い。それだけの規模だと、襲いかかろうとするパルチザンも居ないようだった。


「原隊へ帰れますでしょうか、軍曹どの」


 マイネッケはぼやくように言った。カウフマンは無言のまま低くうなった。憲兵隊のように広範囲にばらけて仕事をする部隊では特に、本部の移動に取り残されるリスクは高かった。


「われわれは恵まれたほうさ。アイゼンポーション(缶詰を中心とする野戦保存食)も1日分あったな」


 カウフマンは口を開いた。スターリングラードに行った連中に比べれば、ずっとましだ。今日のところは。


 ドイツ軍は基本的に昼の食事がメインで、厨房近くに集まれない前線では昼の温かい食事を配るとき、いっしょに夕食と翌日の朝食を配ってしまう。だから明朝の分までのパンももらってきていた。


 俺が起きているから先に寝ろ、とカウフマンが言いかけたとき、小さいが高く鋭い音が聞こえてきて、マイネッケががばりと跳ね起きた。その動きを追って、カウフマンも壕に飛び込んで身をすくめた。一夜限りのことだから、教則通りの深い蛸壺になっていない。身を半分に折って、かろうじて地面より下に全身が埋まる。かなり遠くに着弾音が響いた。パルチザンが道を狙って撃ち込んだ迫撃砲弾のようだ。


 数発で砲声は止んだ。道路の状態を調べ、必要なら自動車の通行を止めなければならないところだが、とカウフマンは周囲に目を凝らした。炎は見えないから、ドイツ軍車両に被害はなかったようだ。だからといって、砲撃に続いてパルチザンが忍び寄ってこないと言い切る自信もなかった。


 車にはネットをかぶせてあるから、夜目には簡単にシルエットを見つけられない、と信じたいところだが、地元のパルチザンなら好都合な隠れ場所そのものを知っていて、当て勘でここを探ってくるかもしれなかった。


 外へ出る踏ん切りがつかないまま、20分も経過したろうか。また迫撃砲の飛来音がした。同じところが狙われているのが、音のする方向で感じられた。


「嫌がらせのようですね、軍曹」


 マイネッケがささやいた。砲撃で道路の往来を妨害し、ついでに近隣の兵士を寝かせないようにしようというのだ。おそらくもうパルチザンは迫撃砲を移動させにかかっているはずだ。


「寝ておけ、マイネッケ」


 カウフマンは気前よく言った。


「俺は寝られそうにない」


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 第9軍司令官のモーデル上級大将は、いま届いたばかりの指令書を前にして、考え込んでいた。


 いまの東部戦線は、逆S字型に前線が曲がっていた。ドイツ軍が切り取ろうとしているのがクルスク突出部なら、その北側に張り出した中央軍集団の戦線はオリョール突出部とでも言うべき存在である。大雑把に言って、突出部の北半分が第2戦車軍、南半分が第9軍の受け持ちだが、ソビエトが第9軍の正面に深さ10キロになろうかという陣地地帯を築く一方、第2戦車軍の戦線後方で盛んに予備が移動していることに、ドイツ軍は気付いていた。ソビエト軍無線の傍受、航空偵察、捕虜の尋問といった普通の方法でいやでも耳目に入ってくるほど、それは大規模な動きであった。


 この状況で陣地帯にドイツ軍を突っ込ませても成功の望みは薄い。攻勢を諦め、用意した装甲部隊をそのまま機動予備として使うのが一策。いっそソビエト軍の思惑をすべてはずし、さっさとオリョール突出部から撤退して、別の地域で部隊を使うのがもう一策。後者を取るならば、秋の泥濘期が来る前に急いで準備をしなければならない。概ねそのような意見を、モーデルはかねてから具申していた。


 いまモーデルの目の前にある指令書は、あれだけ熱弁をふるってもダメだった作戦中止が、あっさり実現したかのように読めた。第9軍に属するすべての装甲部隊は、第2戦車軍戦域で起こるソビエト軍の攻勢に対して投入される可能性があるので、第9軍司令部及び所属軍団司令部はそのつもりでいろ、とある。発信者はクルーゲ元帥だが、参謀本部との協議なしにこんな命令が出てくるとは思えない。


 この命令が持つ不活発なトーンが、モーデルに首を傾げさせていた。もし当初検討されたように、限定攻勢を南方でかけるのなら、中央軍集団の兵力がいくらか引き抜かれるのではないのか?


 モーデルは考え込むのをやめて、仕事に戻った。移動と補給に便利なように、装甲師団を再配置しておいたほうがいいだろう。


 なにかが起こり始めていることを知っている者は、少なかった。あとから考えると重要な決定も、それをした本人が重要性に気付いていないものが多かった。


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