婚約破棄〜こころのカビ〜
じめっとしたシャツの匂いが鼻の奥をくすぶった。梅雨だというのに窓も開けず、二、三日も部屋干をしていたせいなのだが、カビが生えたのはどうもシャツだけではない。
久しぶりに見る気がする台所に立ち、おそろいのマグカップを眺めれば、この間出ていった彼のことを思い出す。
悪いのは全部、私なのだ。
彼の仕事が忙しいことは分かっていたし、それをとやかく言うことを彼が嫌がっていることも分かっていた。それでも、多くの友人を呼ぶ結婚式はどうしても成功させたかった。
「好きにしていいよ」なんて、結婚式にあまり興味のない男の身勝手で投げやりな意見だと思っていた、けれど、いざ彼とブライダルに行ったところで、「あなたは何も分かってない」、と私が自分の意見を通すだけだった。
これなら我慢して一人でこなせば良かった。そう彼を責め立て保身してみるけれど、思い返せば、休みの日には何も言わずについて来てくれていたし、予算の面でも彼はしっかりと考えてくれていた。
求めすぎてしまったのだ。それは昔からの私の悪い癖だ。
この部屋だってスーパーから近いほうがいいとわがままを言ったのは私だ。彼の方が毎日、仕事で電車を使うというのに。自転車を使えば、少しくらい離れていても平気なはずだった。
彼はたくさん我慢してきただろう。それでも「結婚しよう」と言ってくれた彼のことをもっと考えてあげるべきだった。愛されていると過信して、わがままを言い過ぎてしまったのだ。
二人だったら十分に消費期限までには平らげられていた六枚切りの食パンも、もう三日も期限を過ぎてしまっている。留め具のプラスチックを開け、かびていないか不安になりながら嗅いでみる。
トーストすれば食べられるだろうか。そう思いながら、食パンを持つ左手に視線がいく。
あの日からずっとしていた左手の薬指の指輪はもうない。
きっと、あの指輪だけは、カビることはもうないのだ。長い月日だけが、朽ちさせてくれる唯一の愛の結晶を、私は手放してしまったのだから。