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夕方。思いの外碓氷の店に長居してしまった。代表から配慮を貰い『居留守』に配達の週2日は半ドンだ。いつもは特にすることもないので、すぐに帰って農園で何かしら作業をしていることが多いのだが、何しろ今日は朝から女神と会話してしまったため、どうにも舞い上がる気持ちを抑えられず、碓氷に向かって感情の赴くままに語り聞かせていたら、いつの間にやら手伝わされていた。碓氷は昼食時と、夕方5時から大体終電時刻まで店を開けている。客層はお堅い土地柄、ほぼスーツ姿のサラリーマンだ。俺は昔から、奴らのことは自分の意思を放棄し会社にこき使われるロボット共め、といけ好かなかったが、碓氷の店を度々手伝ったり夜に飲みに来たりしているうちに、やや印象が変わった。ロボットなりに、悩みを抱えていることが分かったからだ。多くは人間関係と金銭の問題だ。碓氷は何が楽しいのか、そいつらの愚痴話にうんうんと頷きながら、小鉢を一つ二つサービスしている。だが俺は、共感はしない。奴らの悩みを聞いていると卓袱台を引っくり返したくなるからだ。会社や上司に文句があるなら辞めればいいのだ。したいことをすればいいのだ。俺は組に入ったことも、ムショに入ったことも何一つ後悔していない。俺が決めたことだからだ。奴らは頭が回る分、余計なことを考え過ぎて、結局何一つ実行に移さない。そんな頭なら捨ててしまえ!と、いつか碓氷にこぼしたことがある。碓氷は、俺らしいと呆れた顔をして笑っていたが、
「あの人達が、どんな小さなことでも行動を起こして、いい方向に持っていけるように、背中を押したり支えたりするのが私の役目」
なんて、田舎の母親のような顔をして呟いた。こんな筋肉マンが客からママと呼ばれていることに、ほんの少し納得がいった気がした。俺は呼ばないが。
そんなランチタイムを手伝って、賄い食だと言いながらしっかり作り込んだ昼食をご馳走になり、食後に少しだけと横になったらもう夕方だ。いかん、気が緩んでいる証拠だ。だが、女神と言葉を交わすそれだけで、天にも昇る心地で爆睡してしまったのだ。気を取り直して碓氷の店を出発した。
農園への道すがら、一人車中で女神との遣り取りを反芻していると、ある一つの、不愉快極まる事実に突き当たった。それは俺を天国から地獄へ真っ逆さまに突き堕として猶余りあることだ。今朝、碓氷はあの忌々しい工藤左千夫に連絡をして女神から連絡を貰えるように頼むと言っていた。しかし、女神は直接工藤の電話に出たのだ。朝8時頃だったと記憶している。ということは、つまり、絶対に認めたくないことであるが、二人は夜を共にしたという可能性が…、いや、早朝に女神が訪ねて行ったのかもしれない。そうに決まっている。大体、この世で最も強く美しい俺の女神が、あんなヒョロヒョロもやしっ子の工藤を恋人にするはずがない。西洋人を気取って金髪に染めたつもりだろうが、失敗してほぼ白髪の髪を女のようにダラダラと伸ばしており、俗にいうチャラ男なる言葉は奴の為にあるのだろう。工藤が俺を凌駕しているのは学歴だけだ。どうせ俺は高校中退だ。しかしそれが何だというのだ。大学を卒業して引きこもっている若造も沢山いると聞く。奴だっていつまでも定職に就かずフラフラとしているではないか。途中道を踏み外したものの、農園で堅実に労働する俺の方が人間的にレベルが高いに決まっている。きっと女神もそろそろ目が覚めるはずに違いない。今に見ていろ工藤左千夫。そのにやけ面を嫉妬で歪ませてやるわ!などと思い巡らせていたらどうにも体が熱くなり、いつもの駅前ロータリーに軽トラを停めて、野菜ジュースを飲み干した。
そういえば、女神に対処を願おうとした薬入りポーチがそのまま軽トラにあるのだった。女神からはあっさり、
「警察に届けて下さい」
と言われてしまったのを、すっかり忘れてそのままに…いや、断じて忘れていたのではない!そもそも女神以外の警察が嫌いなのだ。ムショ上がりの元組員に対する奴らの偏見で、どんなとばっちりを食うか知れないので、極力関わらないようにしているのだ。全ての警官が女神のように公明正大であったなら、どれほど世界は幸せに満ち溢れることだろう、とポーチに目をやり軽トラに乗り込むと、近くにパトカーのサイレンが聞こえた。1台、2台ではない、救急車もいるようだ。何か事件があったのだろうが、俺には関係のないことだ。くわばらくわばら。再び車を走らせて、農園へと到着したのは6時を過ぎた頃だった。明日の朝も早い。食事をして風呂に入って、夢の中で女神との逢瀬を楽しもうではないか。軽トラの荷台からコンテナを下そうとシートを開いた時だった。俺は目を疑った。瞬きをし、腕でゴシゴシと両目をこすり、いつもの農園の風景を見回して、深呼吸、再度荷台に目をやった。そこには、確かに、見知らぬ子供がぐったりと横たわっていた。
司法解剖の結果は当然のことだが少しの脚色もなくありのままを報告した。後方から紐状の物で首を絞められての窒息死、しかしぶれずに残った鮮明な紐の痕と、両手指の先に紐を握って抵抗した痕跡がないことから、被害者は犯行時全く動かなかった、つまり何らかの理由で意識を失っていたと考えられる。持病はなし、薬物反応もなし。右上腕部に爪の痕があり、そこを中心に低温火傷のような状態が広がっているがそれがどのように出来たかは不明。意識を失くした原因究明のため、引き続き検査を依頼はされたが、さっさと加害者を特定し逮捕して終わらせたいという捜査員の本心があからさまである。被害者が暴力団と関わりのあるチンピラであることが、彼らの士気を低下させているのだろう。表情はいつも通りを装っているが、空気にやる気がない。ここに来た警官に限って言えば、だが。犯人さえ逮捕すればいい、との思いから、意識不明の重体で病院に担ぎ込まれた女と、行方不明の子供に目星をつけているらしい。女からは覚醒剤反応が出た。被害者は組の末端で薬を売っていた。以前から怒鳴り合いが聞こえたと同じアパートの住人が話しているという。実に分かりやすい動機が浮かび上がってくる。子供を共犯に、女が殺害したのであれば、既に身柄は確保している。事件解決も同然だ。従って、被害者が殺害される直前に意識が無かったという事実は彼らの脳裏からは早晩締め出されるのだろう。
ぼんやりと窓の外の夜陰を眺め、くわえたタバコに火をつけようとポケットの中を探っていると、車のヘッドライトが近付いて来るのが見えた。俺は火をつけないままタバコを灰皿に置き、眼鏡をかけた。ほどなくしてノックの音と共に、無愛想な表情と、腑に落ちないという空気を全身に纏って樋口安子が入って来た。
俺は普段、死体と向き合う時以外眼鏡をかけない。両目とも0.1を切るほどの視力では眼鏡をかけなければ色彩以外何も判断出来ないが、それでも俺は眼鏡をかけない。眼鏡をかければ、見たくないものがよく見えてしまうからだ。俺は物心ついた頃から妙なものが見えた。ガキの頃は、誰でも見えるのだと思っていたが、成長するにつれ、俺だけに見えるのだと分かった。頭の周りに色のついた空気となって漂っている、その時その時の人の感情が、俺には見えた。最初はそれほど気にならなかった。子供の感情は表情とほぼ一致している。それが小学校の高学年を過ぎると、空気と顔の不一致が現れ始めた。ニコニコしながら濁った空気を纏っている人間が増えた。その濁り具合は色々だが、気持ち悪いという点では皆共通していた。よって、思春期に入った俺は強烈な人間不信に陥ってもおかしくはなかったのだが、幸いにもそうはならなかったのは、ある日、ガラスに映るにやけた顔をした俺の周りを取り巻くどす黒い空気を見たからだ。何だ俺もか、人のこと言えねぇな、と無難なところに着地したのだった。
着地はしたが、それでも―。吐き気を催すほど複雑に濁った空気を湛える顔が、やけに爽やかだったり、誠実そうであったりする。そういうものだ、それが人間だ、と納得しているつもりでも、他人の空気と表情のギャップと、自分のことを棚に上げ人を見下す自身を知るにつけ、他人にも自分にも抱く嫌悪感は、治まることなくずっと腹底で燻り続けている。何の確証もない俺だけに見える空気など当てにせず、表情を基に接しようとしても、すぐに空気の正しさを立証する言動ばかりが現れる。そんなことを繰り返し、その都度ガッカリするうちに、示し合わせたかのように俺の視力は低下した。色付いた空気は相変わらずよく見えるが、相手の表情はぼやけて見えなくなった。比例して親しく付き合う人間もいなくなったが、そうなってみてそれぐらいがちょうどいいと実感した。何の空気も纏わない死体を相手にしている時、一番心が落ち着いた。そして監察医務院に来て10年が過ぎた頃、俺は樋口安子に会ったのだ。
「どう思いますか」
挨拶もなしに樋口は開口一番こう言った。相変わらずこいつの周りは空気が澄んでいる。初めて会った時は驚いた。こんな真っさらな空気は見たことがなかった。それは負の感情を抱かないということではない。むしろ樋口はよくムカついたり苛立ったり呆れたりしているが、それを隠す気がないのだ。相手にどう見られるかをまるで気にせず、故に一度に一種類の感情しか表す必要がない。濁りのない空気と、寸分違わない表情に面して、俺はようやく眼鏡をかけることが出来る。
樋口がここに来る理由は一つだ。司法解剖の結果を聞き、その中で腑に落ちないことがあると、こいつは直接医務院に聞きに来る。ほかの連中が疑問に思わないことでも、こいつには引っかかる。そしてそれは、大抵解剖の際俺が引っかかった点と一致する。今回の事件に於いては、被害者が意識を失くした原因だ。暴行を振るっていた被害者が突然昏倒する原因が遺体からは何も見つからなかった。しかしほぼ間違いなく被害者は意識を失ったはずだ。そこが繋がらない。とは言え警察にとって、犯人逮捕の障りにはならないと思うが。こんなところで油を売ってないで、捜査に戻れと、俺は悪態をついた。
「犯人は間もなく捕まります」
ぶっきらぼうに樋口が答えた。俺は、先に来た警官との遣り取り(とそいつの放つ空気)を思い出して顔をしかめ、女を逮捕するのか、と問うた。だが、その時の樋口の顔ときたら!15も年長の俺に対して、監察医として10年以上事件に携わっている俺に対して、人を小馬鹿にした小憎たらしい表情に年甲斐もなく怒りがこみ上げた。
「水川和美に殺害は不可能だと、石塚先生でもお分かりかと思ってましたが」
そうだった。こいつは口も悪いんだった。歯に衣着せぬ物言いに、何度俺の心許無い髪の毛が天をついたことか。しかしこんな風に感情のままに振る舞えるのは、こいつといる時くらいなものだ。どんな憎まれ口も後腐れなくカラッとしている。
「あれだけ捜査員がいれば十分です。一応、現場で気付いたことは伝えてきたので、明日にでも進展があるでしょう。私が気になるのは、子供のことです」
樋口は行方が知れない子供、水川琢の写真を俺に差し出した。
「水川琢の通う小学校の関係者に話を聞きました。3か月ほど前、水川琢と関わった児童が突然倒れて病院に運ばれたということがあったそうです。今回の被害者の件と関係があるのではないかと」
何がどう関係があるのか、俺は樋口に話の続きを促した。
「倒れた児童には会えませんでしたが、その場にいた2人からは当時の様子を聞きました。クラスの男子5人で水川琢をからかっていたそうです。実際は殴る蹴るなど暴力を加えていたとのことですが、そのうち水川琢が抵抗して一人の腕を掴んだ。すると彼の手が光りその児童が倒れた、と話していました。担当した医師にも状況を聞いたところ、持病も薬物反応もなく、原因不明、現在はやや呂律がまわらない等の後遺症はありますが、日常には問題ない程度に回復したそうです」
俺は話を聞いてはいたが、樋口が何を言いたいのかさっぱり分からなかった。つまり、どういうことだ?樋口は、まだ分からないのか、という空気を発散させながら、さも当たり前のように言った。
「被害者が意識不明になった原因は水川琢にあると言っているんです」
俺は耳を疑った。手が光って握った相手を昏倒させるなど、小説や映画でもない限り有り得ない話だ。こんなことを真顔で言うとは、確かに樋口は変わっていると思っていたが、一課のエースが聞いて呆れる。俺は恐らく、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていたのだろう。にやりと意地悪く笑ってい樋口は続けた。
「そんなに珍しいことでもないでしょう。知り合いにも結構いますよ、そういうの」
珍しいという程度の問題か!結構って何だ結構って。一体何人いるってんだ!思わず声を荒げた俺に、樋口はやや考えた後、悪戯っぽく肩をすくめて、一人と答えた。お前の頭の中はどうなっているんだ!一人と結構がどうしたら同列になるんだ!…だめだ、俺は樋口といると血圧が上がって仕方がない。
「一人いるということはゼロではないということです。ゼロでなければ、二人も三人も同じですよ。それに、二人目を思い出しました」
樋口はじっと俺を見た。瞬間、沸騰した血液が一気に冷却されたような薄ら寒さに体が強張った。
「先生もかなり珍しいですよね」
ばれていた?知られていた?俺は全く予想もしていなかった事態を前に、脳内が大混乱に陥った。俺の見える物について、隠していたわけではなかったが、誰に話すこともなかった。話せるわけがない。誰も信じない、有り得ない話だと一笑に付せられる、或いは頭がおかしいと思われるのが関の山だ。俺は、なぜそう思うと、辛うじて出た声で樋口に尋ねた。
「先生が人と接する様子を見ていれば分かります。眼鏡をかけていないといっても、視線の先は相手の顔を通り越してあまりに違うところを見ている。何か見えているんだな、と思いました。そして私と会う時に眼鏡をかけることも理由の一つ。私もだいぶ、珍しい部類でしょうから。つまり、そういう人間は少なくとも三人はいるということです。そこに水川琢が加わるかどうか…」
樋口は、さも当たり前という風に言った。そして、何かあった時の協力依頼を言い残し、水川琢の捜索に戻って行った。
俺はその背中を見送った後も暫く動けなかった。樋口に見抜かれていたということ以上に、それを至極普通の、何でもない事として捉えていたことに衝撃を受け、俺を構成しているものが足元からガラガラと崩れ落ちる感覚に襲われた。人の見えない物が見える、という特異体質は俺に優越感をもたらすどころか、それによって圧倒的多数に交わることが出来ない疎外感、妬み、嫌悪や、俺は人と違う、俺はおかしいという自己否定など、いらない感情ばかりを押し付けた。化け物じみたこの能力に、手も足も出なかった。それと折り合いをつけるための格闘に疲れ果てた上の監察医務院だ。それを何だ。樋口はあっけらかんととんでもないことを言ってのけやがった。43年間ぶすぶすと燻り続けた感情が、あいつの爆弾発言でいっぺんに吹き飛んだのが分かった。火災をダイナマイトで鎮火するという矛盾したような方法が脳裏を過った。何てことだ、心はこんなに軽々としたものだったのか。樋口はじきに水川琢を探し出すだろう。そうすると、俺も厄介ごとに巻き込まれるのだろうといつもなら苦々しく思うはずが、我知らず、湧き出す高揚感に動かされ、考え得る限りの支度を整え始めた。今日は家に帰っても眠れそうにない。待機を名目に泊まってしまえ。窓から空を見上げると、殺菌作用を持っているかのような月が、闇夜に悪びれた様子もなく冴え渡っていた。俺は樋口の言う一人目なる人物を想像し、相当変わっているんだろうと苦笑しながら、灰皿のタバコに火をつけた。