表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

 学校はやっぱり嫌な場所だ。誰も俺と話をしないし、近付きもしないくせに、ずっと遠くで俺のことを笑っている。俺に聞こえるように馬鹿にしている。俺だって分かってる。何日も風呂に入ってないし、何日も同じ服を着ているし、いつもお腹が鳴っている奴を見たら、きっと俺だって笑う。だから学校には来たくなかったけど、給食のほかに食べる物がないから仕方ない。学校に来るしかない。前に心配して声をかけてきた先生もいたけど、青白い顔のその人の方が先に病気になっていなくなった。それでも、あの日から随分ましになった。前は直接からかわれたり、叩かれたり、ランドセルを取られたり、本当に嫌だった。今はそれがないからずっとましだ。あの日、クラスの男子何人かに囲まれて、順番に蹴っ飛ばされた。暫く我慢していればそのうち飽きると思って逆らわないようしてたのに、いつまでたっても止めてくれず、全員から順番に蹴っ飛ばされて、壁に頭をぶつけられて、痛くて痛くて嫌だった。やめろよ、何で俺にばっかりこんなことするんだよって、俺を壁に押し付けている一人の手首を力いっぱい掴んだ。痛くて、悔しくて、苦しい気持ちがどんどん強くなって、もっと力をこめてその手首を握りしめた。俺の手が、そして体中が熱くなった。そしたら急にブワッと手が白く光って、掴んでいた相手の手首に吸い込まれたかと思ったら、そいつが突然ブルブルっと震え、真っ白な顔になってぶっ倒れた。口から泡が出ていた。白目をむいていた。体がビクッビクッと跳ねていた。俺はその場に座り込んで、倒れたそいつを黙って見ていた。ほかの男子達が何か言っていたような気がするけどよく聞こえなかった。どこかへ走っていったのもぼんやりとしか見えなかった。その後、先生が沢山来て、ワーワー騒ぎながら、俺にも何か聞いてきたみたいだけど、覚えていない。結局どうなったかはよく分からない。変わったことといえば、倒れたそいつが学校に来なくなり、俺は殴られることがなくなった。それだけ。相変わらず学校は嫌なところだけど、家にはいられない。

 夜、仕事で家にいない母さんは、昼間、知らない男をよく家に連れてきた。いつか、頭が痛くて学校を早引けして家に帰って来ると、知らない男が母さんの上で、嫌な声を上げて、嫌な音をたてて、嫌な臭いをさせていた。俺は階段を下りて、並んでいる郵便受けの奥で(うずくま)り、男が帰るのを待っていた。別の日、家の風呂に入っていく奴もいたみたいだ。風呂場は嫌な臭いでいっぱいで、それから俺は風呂に入りたくなくなった。それでも男が来てしばらくは、母さんは俺に色々食べさせてくれた。いつも食べ物はほとんどないのに、その時はカレーも焼きそばもハンバーグも袋に沢山入っていた。俺は最初嬉しかったけど、この食べ物を買うために母さんは嫌な男を家に連れてくるのかもしれないと思ったら、俺は気持ち悪くなった。母さんが可哀そうになった。それでも我慢して食べてたら、母さんはニコニコしていた。そしたら気持ち悪いのが治まって、凄く美味しかった。とても痩せている母さんに、半分上げようとしたら、薄っぺらな掌で俺の頭をくしゃくしゃにして、

「あたしは外で食べて来たの」

と言った。母さんは泣くのかと思うような顔をしていた。

 今の奴が来てからは、細い母さんが益々細くなってしまった。震えながら帰って来て、俺を見ても誰だか分からないような顔をして、箪笥をゴソゴソした後しばらくするといつもの母さんに戻る、そんなことがしばらく続いた。けど今朝は違った。あんな苦しそうな母さんは初めて見た。俺の手が光るのを初めて見た母さんは、どう思っただろう。化け物と思っただろうか。クラスの奴らがそう言っているのを聞いた。俺、化け物なのかな。そうだ、あの光は母さんの中に入っていった。朝は寝ていたけど、母さんは大丈夫だろうか。泡吹いたりしていないだろうか。お腹の奥がザワザワして、俺は家に向かって走り出した。

 家の近くまで来て、嫌な予感が当たっていることが分かった。違う、そうじゃなくて、予感していた嫌な事とは別の、もっとずっと嫌な事が起こっていることが分かった。今の奴が怒鳴っている声が聞こえた。母さんも大声で言い返していた。俺は外の階段を走って上がると、今の奴が、どこやった、とか、早く返せとか言っていた。玄関のドアは開いていたから、すぐに俺が家に入ると、母さんが奴に殴られて、箪笥に体をぶつけ、倒れたところだった。俺は母さんに駆け寄った。母さんの殴られた顔は真っ赤で、鼻血が出ていて、少しの間俺が呼んでも気が付かなかったけど、俺が母さんの血を拭こうとランドセルからハンカチを取り出した手を掴んで逃げろと言った。俺が構わず血を拭いていると、閉じかけていた母さんの目がパッと開いた瞬間、俺の体は宙に浮いて、反対側の壁に背中がぶつかった。息が苦しくなって、空気を吸おうとしてもいつものように吸えなくて、目の前が白っぽくなった。ようやく息が出来るようになると、今度は体中が物凄く痛くなった。ガスッガスッという音が先に聞こえ始め、それからだんだん目が見えてきた時には、今の奴が母さんに乗っかって何度も殴りつけていた。俺は、母さんが死ぬんじゃないかと怖くなって、体の痛みも感じなくなった。今の奴の腕にしがみ付いて、やめろよ、何で母さんを殴るんだって思いながら一生懸命力を入れた。今の奴が反対の手で俺の首を掴み、俺はまた息が出来なくなったけど、それでも俺は絶対離さないって決めた。体中が熱くなって、目の前が眩しくなって、力が足りなくて泣きたくなった次の瞬間、ブワッと周りが明るくなってから、ふっと電気が消えたように暗くなった。今の奴の腕だけがかすかに光っていた。突然、今の奴がビクビクッと体を震わせたかと思うと、真っ白な顔をして口から泡を吹き出して、母さんの上にバタンと倒れた。

「…た、…く、…はや、く、…逃げ…」

 母さんが、言った気がした。玄関に人の気配も。その後のことは、よく覚えていない。


 午後6時。事件について知らせた時の彼女の印象は、それほど機嫌を損ねている風でもなかった。警視庁へ異動になった当初は、怒っているのかと思うほどぶっきらぼうな口調に戸惑ったが、共に仕事をするようになって1年になる今では、それがいつもの彼女なのだということが分かってきた。具体的に言うと、彼女は機嫌を損ねたことを隠そうとしない。嬉しいとか楽しいという表情は一度も見たことないが、ムカついた顔は度々目にする。そうじゃなければ、どんなに愛想がなくて口数が少なくて、たまに言葉を発すれば毒舌なんて可愛いもんじゃない、(なた)さながらに相手を真っ二つにしようとも、機嫌は悪くないということだ。この二週間、いくつか事件が相次いで、捜査担当ではなく本庁に残っていた俺達も何かと慌ただしかった。やっとまともな休みが取れたというのに、新たに発生した事件で休日を途中で切り上げなければならなくなってしまったのだ。俺に不満はない。独身で、恋人もおらず、昼過ぎまで寝ていたからそろそろ動こうかと思っていたところだ。でも、彼女は少し心配だ。見ているといい加減な物しか食べていないし、遅くまで職場に残っているし、朝は早く出勤している。彼女より10センチは身長が低いと思われる交通部の女子が、「樋口さん私より体重軽いんですか!」と叫んでいたのを聞いたことがある。確かに、長身でスラリとして見えるというのを差し引いても、痩せ過ぎではないだろうか。だから、たまには彼女にゆっくり休んで貰いたかった。それに、男だっているだろうし、という考えが頭をかすめた途端、ハァと口から投げやりな息が出た。

 俺は彼女の個人的なことを何も知らない。俺は聞かないし、彼女は話さない。知っているのは実家が仙台だということくらいだ。しかし、実は俺と彼女は警察学校の同期である。大学出の俺は半年で卒業し、先に警察官になりはしたが、刑事になったのは彼女が先だ。在学中、有数の国立大に入る学力はあるだろうに、なぜ進学しなかったのかと彼女に尋ねたことがある。

「急いでるんで」

 彼女からは一言返ってきただけで、それ以上話は発展しなかった。その後、俺は彼女の後塵を拝しながら刑事になったが、所轄にいた頃から、彼女の名前を度々耳にした。そして今では、高卒且つ女性である彼女があれよあれよという間に警視庁へ行き、一課のエースと言われるようになって、一体どこまで出世するのかという、期待(主に女性から)と妬み(勿論男から)の的である。だが、本人は驚くほど無関心だ。なるほど急いでいるとの言の通り、彼女は昇進試験を受け早々に巡査部長になったのだが、最近分かってきたのは、なぜかは分からないが、彼女はそれ以上を求めていないということだ。周りで同僚が必死に試験勉強をする姿も、係長や主任にやんわり受験を勧められても、どこ吹く風である。

「樋口さん、彼氏いるに決まってるじゃないですかー」

と、前述の交通部女子達は断言していた。その通りだと思う。彼女は美人で、スタイルも良くて、この上なく優秀で、実は面倒見がいい。無愛想で気難しく、口が悪いというマイナスポイントすらプラスにしてしまうほど、魅力的な人物である。だから、男がいて当然だと思う。思うが、全くその気配を感じさせない彼女に、俺はほんのわずか、淡い期待を抱いているのだろう。

 群青色の空から放たれるわずかな光も反射するほどの瑞々しい若葉が茂る公園を通り、俺は現場に到着した。今にも闇に呑まれそうな古びた2階建てアパートは、1、2階各4部屋全てが入居済みである。駅から徒歩10分、池袋まで2駅という立地条件が売りなのだろう。古くても気にしないという男子学生や、日雇い労働で糊口を凌ぐ中年男性、そして今回の事件の当事者のように経済的に困窮したシングルマザーが住んでいるとのことだ。

 2階の現場では既に所轄の刑事と、本庁からの鑑識課メンバーが黙々と捜査していた。それにしても、ひどい荒れ様だ。食器棚のガラスは割れ、ダイニングテーブルの上にあっただろう調味料類は全て落下、空き缶やゴミが散乱しているなど、激しい取っ組み合いの痕が見て取れる。だが所々に飛び散ったり擦り付けられた血痕を見付け、にわかに疑問が生じた。眼下にある遺体には出血するような怪我の形跡が見当たらないのだ。

「女がいたんですが、まだ息があったんで救急で運びました。これでもかってほどボコボコでしたよ」

 遺体を調べていた鑑識の杉崎冬至が俺に気が付き、溜息交じりに呟いた。

「紐のようなもので首を絞められての窒息死と思われます。硬直し始めの状態なので、死後1時間半から2時間というところでしょう」

 そこに所轄の刑事が状況の説明を始めようとやって来たので、俺はもう少し待って貰うことにした。

「樋口さんですか?」

 杉崎の問いに俺が軽く頷くと、彼の顔がほのかに明るくなったのを、俺は見逃さなかった。女性が少ない職場だから仕方のないことなのだろうが、彼女のファンは多い。あんなに愛想がなく素っ気ない振舞をしながら、上司にも部下にも、男にも女にも、彼女を慕う者が多い。この1年、彼女の隣を歩く度に、羨望の眼差しで何度も呪い殺されてきた俺が言うのだから間違いない。まあ、俺も人のことは言えないが。半面、その可愛げの無さを疎ましく思う者も少なくない。彼女が現場に到着した時の周りの空気がその証明だ。隙あらば引きずり落してやろうと虎視眈々、粘度の高い視線が彼女を迎えた。かと言ってそれを気にする彼女でもなく、玄関を入り俺を見付けると真っすぐにこちらへ向かって来た。

「遅くなりました。状況は?」

 俺が先ほどの刑事に説明を促した時、新米と思しき彼は、乙女のように初々しく顔を赤らめて、樋口安子に見入っていた。掃き溜めに鶴が舞い降りるとこんな感じになるのかと、俺は苦笑を禁じ得なかった。それに気が付いたのか新米君は、慌てて咳払いをし説明を始めた。

「被害者は黒田宏隆29歳。無職。組に所属してはいませんが下っぱとつるんで薬を売っていたようです。この部屋の借主が水川(みながわ)和美、池袋のホステスで、黒田とは最近よく一緒にいるのを店の同僚が見ています。黒田はここにも度々来ていたようで、たまに怒鳴り声が聞こえていたとは、近所の証言です。通報したのは一番奥の部屋に住んでいる浜口一久、58歳、今日は日雇いの仕事が無く一日家にいたそうです。怒鳴り声が聞こえ怖くて部屋から出られず、静かになったところを見に来たら死んでいたそうです。水川和美は現在病院で救急処置をしています。黒田の死因は絞殺、ただ抵抗したあとはありませんね。」

 一通りの説明を聞いて、樋口と俺は気が付いた点をいくつか質問した。まず一つ、水川和美が黒田を殺したのか。

「可能性はゼロではありませんが、あの状態では難しいと思います。女に意識はありませんでしたし、あっても男の首を絞める力が残っているとは考えづらい。仮に出来たとしても、害者が無抵抗だったことを考えると…」

 被害者は水川和美の上で俯せの状態で発見された。馬乗りの状態で暴行を加えていたところ、首を絞められたのであれば、確かに水川和美には難しいだろう。では次の質問。第一発見者の浜口は、騒ぎが起きている時に警察に通報はしなかったのか。

「電話は持っていないそうです」

 なるほど。事件の本筋とは無関係ながら、こういう時に経済格差、貧困、孤独な中高年等、現実を目の当たりにして胸が痛むことがある。まあ、すぐに目の前の事件で頭が一杯になって、忘れてしまうのだが。

 所轄の刑事は質問に答えながら、明後日の方を見ている樋口の視線の先の、ランドセルに気が付いて説明を続けた。

「和美には子供が一人います。小学5年の男の子で、学校に問い合わせたら今日はいつも通り登校、下校は3時半頃だそうです」

 つまり事件当時、もしかすると真っ只中に、子供は帰って来たということだ。巻き込まれた可能性が大きい。

「名前は水川(たく)、先ほど学校から写真が送られてきました」

 既に捜索中とのことで、樋口と俺は所轄刑事の携帯端末に映された写真を見た。健康状態が悪いのか随分と色の白い痩せた子で、整えられたとは言い難い栗色の髪の毛は恐らく自分で切っているのだろう。水川親子の生活環境から目を反らすべく、苦し紛れに俺は樋口の顔を見た。樋口は、この一年で俺が見たことのない表情をしていた。驚いたような、関心が引かれるような。彼女の大きな目は、しばらくそこから離れなかった。

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ