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夜遅く、朝早く、震えた母さんが帰ってきた。ガタン、ゴトンといつものように、壁やテーブルに体をぶつけながらフラフラと一目散に、母さんは箪笥の引き出しに向かい、中を引っ掻き回している。ガサガサ、ガサガサ。いつもはこれくらいで静かになる。でもその日は違った。いつまでもガサゴソ、ガサゴソ、違う引き出しもガサゴソ、ガサゴソ。それでも足りずに母さんは、引き出しを全部引っ張り出して中身をぶちまけながら、嫌な大声で独り言を言った。
「あいつ、あの野郎、畜生、出し惜しみしやがって、足元見やがって、どうすんのよ、無いじゃないのよ、ふざけんなっ!…ぁああっ!」
母さんは苦しそうだった。散らかした中身の上で体をゴロゴロさせていた。声を上げながら涙を流していた。母さんの顔は怖かったけど、母さんが死ぬんじゃないかと思う方が怖かった。母さんの近くに行き、母さんに負けないような大声で呼んだ。
母さんは俺に気が付き、手を伸ばしてきた。助けてって言った。俺はどうしたら母さんを助けられるのか分からなかったけど、ほかに何をしたらいいか分からなかったので、母さんの手を握った。ギュッと、強く、一生懸命握った。母さんの手は細くてカサカサで、冷たかった。それなのに、俺の手は、どんどん熱くなってきて、青白くボーっと光っているような気がした。そのうち本当に光りだした。その光は母さんの手の中に吸い込まれて、母さんは目をいっぱいに開いて驚いてたけど、少しすると苦しくなくなったみたいで、そのままスース―と眠ってしまった。俺が学校に行く時間になっても、静かに眠っていた。俺はお腹が空いていたけど、母さんを起こしたくなくて、そのまま学校に行った。本当は行きたくなかったけど、ほかに行く場所はなくて、母さんが心配しないように、学校に行った。
朝6時。採れたての野菜を軽トラックに積んで農園を出発する。初夏の清々しい空気に車の窓を開け放ち、俺は思わず深呼吸をした。いかな青梅街道といえど、この時間帯はスイスイ進んで爽快感が2割増しだ。目的地は東京のど真ん中である。23区で、しかも山手線内を車で移動しようなどと思うのは、よほどの暇人か無知な地方出身者か、そうせざるを得ない哀れな労働者であろう。しかし時間帯によっては、車が実に効率のよい移動手段となり得るのだ。つまり早朝。7時にもなればどこからともなく湧き出し始め、日中は大混雑だ。従って用事を済ませた後の農園への帰途は、往路の倍は時間がかかる。あまりにもひどい渋滞に、働き始めた頃は、前の車に追突して運転手を引きずり出し袋叩きにしたいという衝動を抑えるのに一苦労だった。しかしそんなことをすれば、ムショ上がりで組を抜けた俺を受け入れてくれた農園の代表に申し訳が立たない。そう心で繰り返し、何とか凌いだものだった。今では代表の好意もあり、届け先の、知人が営む料理屋で朝食を取り、軽く話などをして、ぶらぶら帰る余裕が出来た。元暴力団員というだけでも社会復帰が難しいことはよく知っている。10年服役したとあったら猶更だ。そんな俺が仕事を与えられ、任され、給料を貰い、社会保障を受けられるとは、なんと恵まれていることかと、これ以上望むべくもないはずなのに、あぁ、気が付けば俺の心はさらなる蜜を求めてあの人の元へ飛んでいる。
出会いは雷に打たれたような衝撃だった。何年も続く組同士の小競り合いで、愚かなチンピラが街中で騒ぎ立てていた頃だ。丁度、料理屋『居留守』に野菜を届けに来ていた俺は、血走った眼で向かってくる若いヤクザの姿を見付けた。刑期を終えて3年ほどの時期だった。どうやら警察に追いかけられているらしいその男を見ながら、問題を起こすのはまずい、かといって見逃したならば一般都民に危害を加えるかもしれない、という短時間の葛藤の後、腹をくくった。
「元ちゃん、無茶しちゃだめよ」
心配そうに料理屋の主、碓氷信夫が言う。ちなみにこいつはムショ時代に知り合った、体は男、心は女、の元空手家だ。俺(自己紹介が遅れた。俺は吉村元治だ)ほど上背はないが、ガチガチ且つ柔軟な筋肉は、現役を退いて10年以上経った今でも凶器に違いなく、料理屋をしながらもトレーニングは欠かしていないそうだ。かと言って、嘗て人を殺めるという罪を犯した頃の、血気盛んな浅はかさは互いに無く、考えて行動することが少しずつ身についてきている。だからこそ、向かってくるチンピラを放っておくことは出来ず、だが適度にあしらう程度の冷静さを持って、俺は奴の前に立ちはだかった。
その時だった。目の前に、女神が降臨したのだ。そう正に、空から舞い降りたかのように、実際は俺の背中を踏み越えて、チンピラの目の前に着地した女神の姿は、眩いほど輝いて、俺は足蹴にされたのも忘れて見入っていた。そして女神は美しいだけでなく、完璧なまでに強かった。隙だらけではありながら、チンピラヤクザの内側に素早く入り、みぞおちに一撃で仕留めたと思ったら、すかさず手錠(!)をかけ、チンピラを追いかけて来ていた連れの男に引き渡した。
「失礼しました。お怪我はありませんか」
やや乱れた前髪をサッと横に長し、息も乱さず女神がひれ伏す俺に声をかけた。すらりとした長身に濃紺のスーツがよく似合っていた。細身のデザインにも関わらず、ジャケットの上からも分かるほど豊かな胸元に鼻の奥が熱くなる。そして何よりその凛とした美しい顔。正直なところ、俺はその時のことをよく覚えていない。いや、よく覚えている。しかし、やはり思い出せない。つまり、女神の姿や発せられた声は鮮明に記憶している。当然だ。その後何度も反芻した。昼も夜も夜も夜も…。だが、俺がどのように返したか、情けないことに全く覚えていなかった。後で碓氷に聞いたことには、
「大丈夫、真っ赤な顔して身動き一つとれてなかったわよ」
何が大丈夫なんだ、と悪態をつきながら、碓氷に渡された名刺をひったくった。女神は樋口安子という、警視庁捜査一課の刑事だった。
それからというもの、俺は元暴力団員という事実を吹き飛ばすかのよう今まで以上に仕事に精を出し、『居留守』へ週に2回の野菜配送を義務とした。碓氷の店は地下鉄麹町駅と半蔵門駅のおよそ中間にあり、警視庁からそう遠くない。ひょっとしたら女神が近くを通るかもしれない、バッタリ出会えるかもしれない、と心躍らせていたら、何ということでしょう!女神の住まいがその辺りで、『居留守』に度々顔を出すようになったではありませんか!間違いなくこれは運命だ。赤い糸だ。改心した俺へのご褒美だ!
そして2年が過ぎ、今ではほんのたまにではあるが、女神と言葉さえ交わす間柄だ。低く、ゆっくりと、だがぶっきらぼうに話す心地よい声。愛想のない表情さえ愛おしい。思い出すだけで、軽トラの窓から吹き付ける早朝の冷たい風に当たりながらも自ずと顔が火照ってくる。ああ、あの方の隣に座って、徳利を傾けながら料理をつつきつつ、ほかの場所もつついたりして…、と想像が広がり、気分よく口笛が出てきた俺の進行方向に、真っ白な雲が呑気そうに漂っていた。途端、俺は思わず顔をしかめ、舌打ちをしていた。常に女神の隣を占拠しているあの忌々しい白い男が薄ら笑っている顔を思い出し、久しぶりに腸煮えくり返り、怒りで我を忘れるところだった。いかん、落ち着け。気を鎮める為に、途中の駅前ロータリーに車を停め、自販機の野菜ジュースを食道へ流し込んだ。
6時半ともなれば、人も多くなってくる。同じスーツ姿の勤労男女と言っても、ラッシュ時に比べると時間的、精神的に余裕があるのだろう、穏やかな雰囲気が駅周辺を覆っていた。その空気に甘えてか、左裏手にある公衆トイレ脇のベンチで眠りこけている、酔いつぶれたらしい青二才の存在に気が付いた。経験上一目見て察した。やれやれ、どこかの組の下っ端らしい。組から離れて(実際は組が消滅してしまったのだ)15年以上経過したとは言え、この直感に間違いはないと確信した。そしてその男が小脇に緩く抱え、今にも落ちそうなポーチに何が入っているのかも。組員時代、俺が薬物の取引に関わることはなかったが、身近に取り扱う様子は何度も目にしたことがある。新手のドラッグが次々開発される中で、売りさばき方、持ち運び方は代り映えしないのだな、と感慨に耽ると同時に、場所も弁えずに寝入るあまりの無防備さに組員の質の低下を嘆かざるを得なかった。ふと、ポーチが力なく男の手を離れ、ぽとりと地面に落ちた。駅の正面入り口から少し離れたこの場所は、なるほど人の目につきにくい。その時、俺の頭の白熱灯がビビッとどぎつく点灯した。
(警察に届けよう!)
悪魔の囁きが俺を突き動かした。いや、結果的に犯罪を未然に防ぐのだから天使の導きである。大義名分を掲げた俺は少しのぎこちなさもなく、ごく自然な動きで寝ている男に近付き、音もなくポーチを拾い上げ、颯爽と軽トラに乗り込んだ。
朝、柔らかい安子の胸の中で目が覚めた。言いようのない温かい充足感が腹底から湧きあがる。今日は始まりからいい日だ。もっと言うと、安子が16日振りに帰って来てからの昨日は終わりまでいい日だった。つまり、安子がいればずっといい日が続くということだ。図らずも警視庁捜査一課のエースと呼ばれるようになってしまった安子は、事件が起きれば呼ばれることが多い。捜査本部に入ることもあれば、本庁待機でサポートに回る場合もある。何しろ安子は優秀だから仕事がわんさか押し寄せるってわけで、家に帰って来るのは月に数回だ。家っていうのは俺ん家のこと。安子はここより本庁に近い所に6畳一間のアパートを借りていて、普段はそこで休む。俺もよく掃除や洗濯をしに行くが、生活に必要最低限のものしかない、寝る為だけの部屋。掃除と言っても、安子はそもそも散らかさないからすぐに終わってしまうし、洗濯も、忙しいはずなのに安子はため込まないので、俺がするのはせいぜい、干してある物を取り込んで、アイロンをかけて、たたんでしまうことくらいだ。だから俺はため息をつき、あんまり役に立ててないなぁ、なんて思いながら、安子の布団に包まって安子の匂いを嗅いで、寂しさを紛らわしたりする、そんな部屋だ。だがちゃんと休みが取れた時は、安子は家に帰って来る。今日はその貴重な休みだ。昨日の俺は、夕食を作り、朝食の下ごしらえも終わらせて、安子が帰って来るのを今か今かと首を長くして待っていた。安子が警視庁を出た。桜田門で地下鉄に乗って、麹町を通過して、飯田橋に着いた。歩いて2分のところまで来た。安子の信号は逃さずキャッチしているから、俺には安子の動きが手に取るように分かる。そして、マンションのエントランスに入った安子がインターホンを鳴らすと、俺は間髪入れずにお帰りと告げ、一階の自動ドアを開けた。安子はいつものように短く、
「ああ」
と言って、エレベーターに乗り込んだ。16日振りに安子に会える嬉しさで待ちきれなかった俺が、玄関を出てエレベーター前で待っていると、安子は呆れたように
「いちいち出てくんな」
と俺をどつくのもいつものことだ。2週間以上休みなしで安子はかなり疲れていたが、食事をして、風呂に入って、夜通したっぷり抱き合ったから、もう回復しているだろう。穏やかな寝顔の安子にキスをして、朝食の準備を始めた。
忙しい時の安子はいい加減な物しか食わないせいで、十中八九腹を壊している。女には便秘症が多いそうだが、安子は逆だ。身長170センチの安子が体重50キロを切ることもある。肩も腰も折れそうなくらい華奢になっちまって、乳で体重稼いでるんじゃないかと思うほどだ。安子の乳が萎まないようにせっせと食事作りに勤しんで、休みの間に安子を肥えさせるという使命感に血が滾り、包丁を持つ俺の手に力がこもる。
今朝はきのこ雑炊に、茶碗蒸し、ほうれん草の白和え、かぼちゃの甘煮、こんなところだろう。病人食みたいだが、休みの日の朝食は、安子の腹に負担がかからないようにしている。昼も軽めにして、夜にはがっつり肉でも食わしてやろう。外へ食べに行くのもいいかもしれない。
無愛想で傍若無人なイメージを持たれている安子だが、実際にその通りなんだけど、相当気を遣ってもいる、というよりも、気が付いてしまうと言った方が適当だ。各種感覚が鋭いため、誰もが素通りするような些細な事柄にも引っかかり、あれこれ首を突っ込むことになる。半面、自分のことは御座なりで、無頓着で、悲鳴を上げる体を容赦なく引きずりまわすから、家に帰って来る安子はいつもボロボロだ。だからこの貴重な休みに、俺は安子を徹底的に甘やかす。自分に厳しく甘えるのがド下手くそな安子を、これでもかってほど甘やかす、今日はそんな大事な日なんだ。
朝食の支度が終わり、そろそろ安子を起こそうかと時計を見ると、8時になるところだった。もう少し寝かせとくか、メシ食わせてまた休ませるか、考えていると携帯端末の着信音が聞こえ、一瞬ドキリとした。警察ってやつは夜中だろうが休みだろうが、お構いなしに呼び出しかけやがる。ほかの野郎共はよくても安子はちゃんと休ませろと、何度抗議しようとしたか知れない。だがよく見ると、めったに鳴らない俺の端末だった。俺にかかってきたということは仕事先か、実家の親父か、と思っていたらそのどちらでもなく、しかしそれほど意外でもない相手だった。
「さっちゃん?おはよ。ごめんねぇ、朝早くから。この前は色々ありがとね」
物腰柔らかな野太い声に、知らずホッと息をつく。安子と俺がたまに行く料理屋『居留守』の信夫さんだった。大学時代、店の近くを通りがかった時に、信夫さんが柄の悪い連中に絡まれてたところを助けたのがきっかけで、時々食べに行くようになった。助けたと言っても、信夫さんの方が強いってのはすぐに分かったんだが、信夫さんは全然反撃しなかったから、ムカついて俺がちょっとしたことで威嚇してやったってだけのことだ。なぜやり返さなかったのかと理由を聞くと、
「本気出してつい殺しちゃったりしたら嫌じゃない?せっかく出られたんだから」
と言っていた。刑務所に約8年入っていた信夫さんは、出所して行く当てがなかったところをこの店の女将さんに拾われて、女将さん亡き後はその遺志と店を引き継いだそうだ。自分が助けられた分、少しでも誰かの助けになろうという信夫さんは、女将さんがそうしてきたように、トラブルを抱えた訳ありな客も分け隔てなく受け入れている。ツケだと言って、只で食事を出すことも珍しくない。その結果、暴力団関係やら何やらに絡まれることが少なからずあるのだ。俺は、ガキの頃を思い出していた。9歳の誕生日を迎える直前で母親が死に、引っ越し先では悪ガキ共に目をつけられ、親父は仕事が忙しく、何もかもが面倒で全てを投げ出しそうになっていた頃だ。そんなある日、5、6人の上級生に囲まれていたのを助けてくれたのが安子だった。小6の安子はそいつらの誰よりも男前でかっこよかった。睨んだだけで皆逃げ出すほど強かった。親父は仕事で帰りが遅く、夕食をコンビニ袋にぶら下げていた俺の手を引いて、初めて会ったのに安子の家でメシを食わされた。今思い出してもくすぐったく、体がじんわり熱くなる、嬉しい記憶。俺はほとんど衝動的に、信夫さんが店をやりやすいように、防犯カメラを付けたり、緊急通報装置を付けたりして、店に鉄壁のセキュリティシステムを構築した。見かけ倒しのゴロツキは勿論、本物の暴力団や殺し屋、更には暴走トラックからも店を守るシステムだ。さすがにミサイルの類は防げないが、発射前に大元のネットワークに侵入して不具合を起こせばいいだけだから問題ない。当時学生だったとは言え、昔も今も自惚れではなく俺は日本最強、ひょっとしたら世界最強のハッ…、もといSEだから、そのくらい朝飯前だった。先日、その設備を最新にしてきたので、そのことについての電話か、と思いきや、
「安子ちゃんに連絡出来るかしら。元ちゃんが用事があるって言ってるのよ」
と、意外な答えが返ってきた。は?元ってあの元か?安子をジロジロ嘗め回すように見やがるあのごついエロおやじの元か?勿論、断った。即答だ。安子にあのゴリラの何物も近付けたくない。
「そんなこと言わずにぃ。何だか重要そうなのよ」
信夫さんを困らせたい訳ではないが、断固拒否。絶対だめ。問答無用。そんなやり取りをしているところに、安子が起きて来た。大抵寝起きの安子は低血圧で顔色が悪いが、いつの間にかシャワーを浴びて、さっぱりしていて今日は顔色がいい。ほかほかした雰囲気を纏った安子にしばし目を奪われる。畜生、相変わらずいい女だぜ。が、ドスの効いた低い声がすぐさま俺を現実に引き戻した。
「貸せ」
有無を言わさぬ安子の口調に、俺は渋々端末を渡した。キモゴリラの声が安子の耳に届くと考えただけでもおぞましさに鳥肌がたつ。しかし安子は淡々と手短に用件を済ませ、さっさと通話を切り上げたかと思うと、端末を俺に投げ返した。ふん、ざまみろエロゴリラめ。内容は気になるが、聞いても教えてくれないだろうし、安子が深入りすることはなさそうだからいいだろう。大事な二人の休みを誰にも邪魔されたくない。
さあ安子、朝メシにしようぜ。