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「腹減ったらこれ食えよ、親父帰ってきたらこの紙見せろ、ないとは思うけどもしお前の『お母様』が来てもドア開けんじゃねーぞ。じゃあ行ってくるからな」
「はい。いってらっしゃい」
伊織は少し心細げに兵伍を見たあと、右手で自分の左腕をぎゅっと握った。今日は、黒地に写実的な鷲の絵がプリントされたTシャツと、ベージュの半ズボンを着ている。線の細い体形におそろしく似合っていない。
いきなり泣き出したりはしなくなったが、主体的な動きはほぼせず、放っておくと人形のように延々と椅子に座り続けている伊織が兵伍は心配でならなかった。買い物に出ている間の一時間程度ならともかく、半日以上放っておいてもしなにかあったら、と思うと気が気でない。もう一度注意事項を言い聞かせ、後ろ髪を引かれる思いで家を出る。
学校についてからも、用意した焼きそばの味が濃すぎたかもしれない、コンフレークの方が簡単で良かっただろうか、近くでもし火事が起こったらあいつちゃんと逃げられるかな、親父が帰ってきたらびっくりして泣かないかな、などと考えては自分で打ち消していく。
キリがない。傷ついてるだけで馬鹿じゃないんだから一人で留守番ぐらいできるだろ。できるはず。頼む、できてくれ。
念じるように願っていると、走ってきたのか息を弾ませた翔斗が目の前に現れ、勢いよく言った。
「おはよ! 宿題見して!」
「うわ。いいけどお前漢字書き取りはどうしようもねぇぞ」
「それは今から頑張る!」
「おぅ……頑張れ」
呆れながらも、算数の宿題プリントを見せてやる。翔斗は仰々しく拝みながらプリントを受け取り、兵伍の後ろの席に座って猛然と写し始めた。
翔斗はあまり落ち着きがなく授業を聞いていると眠くなってしまうタイプの少年で、勉強に苦手意識があるようだった。そのため宿題もギリギリになってから取り組むことが多い。兵伍は答えを見せてやることは構わなかったが、根本的解決にはならないのでどうにか上手くアドバイスしてやれたらなぁと思っていた。
ほとんどの生徒が登校してきた教室は、騒々しく秩序がない。翔斗のように今になって宿題をやりだす者、忘れ物に気づいて嘆く者、昨日見た番組の感想を言い合う者、好きな女子にちょっかいをだそうとして嫌がられている者、様々な光景が繰り広げられている。
「なんでそんなこと言うの!? いいよ、本人に聞くから!」
喧騒の中、一際大きな声が腹立たしげに響いた。先ほどから後方の席で固まって話し込んでいた五人ほどの女子の顔つきは妙に険悪で、どうも不穏な雰囲気が感じられたが、やはり揉めていたらしい。その中から啖呵を切った増田玖美子が飛び出し、まっすぐガイアの元に向かっていった。前の席の男子と和やかに談笑しているのを気にもせず、唐突にガイアの左腕に自分の両腕を絡める。あ、修羅場だ、と兵伍は悟った。これから起こる惨状を予想し、知らず遠い目になる。
「ガイアは私とつきあってくれるって言ったもん!」
むきになったように叫ぶ増田に、風原秋音がゆっくりと近づき、冷やかな目線を突きたてる。すらりとしたモデル体型で,黒を基調としたシンプルな服を見事に着こなしている風原は、当然のようにクラスのハイカースト女子の頂点に君臨している。切れ長の瞳が大人っぽく、既に美人と呼んで差し支えない容姿だ。背が高くシャープな顔立ちなので、中学生と言っても通じるかもしれない。
「馬鹿じゃん? ガイアはみんなにそう言うんだよ。そんなことも知らなかったの?」
格下を見下すような口調に、目に見えて増田が怯んだ。その隙を逃さず間ヶ部えみりーが自然に風原の隣に立ち、宥めるような笑顔で援護射撃する。
「そーそぉ、みんなのガイくんなんだから、我儘言っちゃ駄目だよ-」
間ヶ部はガイアの彼女ではないが、風原と一番仲がいい。おっとりしているように見えるわりに言動はクールかつシビアだ。ほかの女子達も面子を見るに、風原の取り巻きとガイアの彼女で構成されている模様。普段風原と仲が悪い木山花音までいることに兵伍は驚いた。増田はよっぽど顰蹙を買ったようだ。
発言力の強い女子達に責められて、増田は泣きそうな顔になりますますガイアの腕に縋りついた。
「知らないよ、そんなの……ねぇガイア、なんでなんも言ってくれないの? 私とつきあってるでしょ? 私のこと好きでしょ? 好きって言ってよ!」
「え? えっと」
ガイアは少し困ったように眉尻を下げて、「好きだよ」と言った。
「みんな好き。なぁクミ、そんな顔すんなよ。俺、お前が悲しそうな顔してんのヤだ。こっち向けって」
増田に掴まれた左腕はそのままに、右手を頬に添え顔を近づける。
――あ、これマズい。
しかし兵伍が止める間もなく、ガイアは目の前の少女の口にそっと唇を落とした。流れるような動作だった。
お前、お前は本当に……! 頭を抱えた兵伍をよそに、教室中が囃したてる声と悲鳴とスマホのシャッター音で湧き立つ。おい誰だスマホ持ち込んでんの。先生に言いつけんぞ。
たっぷり三秒はキスを続けたあと、ガイアは顔を離し、照れたようにはにかみながら増田の髪を漉いた。
「俺、もしかしてクミのこと不安にさせてたかな? ごめん、気づかなくて。でも俺の気持ちは本物だよ」
その言葉にうっとりする増田、苦々しげにため息をつく風原、切なげに眉を寄せる木山、憎々しげに増田を睨む何人かの女子たち、おもしろがって馬鹿騒ぎする外野。
兵伍は痛み始めたこめかみを押さえながら、もう片方の手で、すっげー!あいつすっげー!ドラマかよ!と興奮している後ろの席の翔斗をべしりと叩いた。
あんなことをしてるからプレイボーイ扱いされるのだ。少女漫画のヒーローみたいな行動を取るわりに、実際のガイアは恐ろしく色気のない思考の持ち主だと兵伍は知っていた。お前なんでそんな簡単につきあうんだよ、と兵伍が呆れ顔で尋ねた時、ガイアはそれはそれは麗しい笑顔でこう言ったものだった。
「だってつきあったらみんな喜んでくれるから」
これである。高橋ガイアは、傍から見ていて心配になるほど奉仕精神に溢れた少年なのだ。好きだと言ったら喜ばれるから言うし、キスしたら喜ばれるからキスする。幸い今のところそれ以上はないらしいが、時間の問題だと兵伍は思っている。
健伍と違うのは、健伍は惚れた女に対してだけ激甘になるが、ガイアは誰にでも優しいというところだ。例え相手が男子だろうと重そうな荷物を持つのを手伝うし、逆上がりの練習につきあってやったりする。はずせない用事があって困っている者がいれば掃除当番を代わってやるし、夏の暑い盛りに水筒を忘れてきた者には自分の水を分けてやる。一歩間違えばパシリにされそうなほどのお人好しだが、絶大な女子人気を無視してそんなことをできる者はいなかった。
なにより、みんなガイアのことが好きなのだ。優しくて素直で顔が良くてちょっとおバカな少年は、だから、小学五年生にして複数の彼女とつきあうという暴挙を許されていた。
キスと甘い言葉という必殺技で増田をなだめたガイアは、そのまま流れるような動作で増田の手を取り席までエスコートした。
「クミと離れるの寂しいな。でもそのぶん一緒にいられるときの楽しさが大きくなるから、我慢な」
およそ普通の小学五年生が口にしないであろう気障な殺し文句をくらい、増田は真っ赤になって頷くことしかできなくなっている。
兵伍はげんなりしながら、自分の席に帰りしな近くを通ったガイアを手招いた。
「ガイア」
「あ、ひょーご!」
ぱぁ、と花が咲いたような満面の笑顔を向けられる。兵伍がガイアと初めて同じ組になったのは小学二年生の時だった。そのころ既に年に似合わぬ苦労を重ね大人びていた兵伍は、世慣れぬ美少年の行動の数々が危なっかしくて見ていられず、ついつい世話を焼いていたら懐かれてしまったのだ。
「ひょーご見てたー? 俺ちゃんとかっこよかった?」
「漫画かよって思った」
皮肉交じりで答えるが、ガイアは安心したようにはにかんだ。
「マジで? 良かったぁ、でもみんなの前でキスすんの、ちょっと恥ずかしかった」
「ならすんなよ」
「えー、でもクミなんか怒ってたし」
「それは風原たちに責められたからだろ。不安と嫉妬だよ」
「あー、しっとな!」
合点がいったように言うが、嫉妬の意味をわかっているのかは怪しいものだった。この天使のごとき美少年は、人の独占欲というものをいまいち理解していない。好きな人は多いほどいいし、好きな人に好かれるのは嬉しいことだと思っているのだ。それは間違いではないが、時に酷く残酷な結果を生む。
だが兵伍は他人の色恋沙汰に首を突っ込む気はないので、ガイアを巡る恋の鞘当ても放置している。ガイアが何股もかけるのは道徳的に問題があるが、恋人になる少女たちはそれを承知でつきあっているのだ。外野がとやかく言う事ではない。勝手にやっててくれ、である。
とりあえず、現状把握のために最低限のことだけは聞いておく。
「お前、今の彼女誰?」
「えっとー、カノンとアキネとナオとクミコとノゾミ」
五人だった。多少落ち着いたな、と思うあたり兵伍も完全に麻痺している。なにせ最高時は七人だった。長続きはしなかったが。
「本橋とは別れたのか?」
「こないだふられた」
「へー」
本橋は眼鏡をかけて少し前歯が出ている地味な女子である。大方陰で風原たちに「あんたじゃ釣り合わない」などと責められるのに疲れたのだろう。おとなしい性格なので兵伍は好感を持っていたのだが。
「風原たちにもなんか言っとけよ。めんどくせぇぞ、あいつらが機嫌悪くすると」
「うん、そうする~。でも今は時間ないから休み時間になってからかな」
「いや今でいいだろ。一言『みんな今日も可愛いな』とかさ」
モテ男が言いそうなことを適当に例にあげると、ガイアはうぅんと首を振った。
「いっしょくたじゃダメなんだ。アキネは強めのオラオラって感じが好きでカノンは王子様系が好きだから。ナオはお兄ちゃんっぽいのが良くて、ノゾミは可愛いのが好きで」
「お前、器用だな……」
そういうことだけは……と兵伍は呆れつつ感心する。多方面からモテるはずである。
「ガイアすげーよな! 俺はできねぇもんあんなの。女子ってよくわかんねぇしさー」
翔斗はまだ興奮冷めやらぬ様子で、ガイアに尊敬の目を向けている。
「告白ってどーやったらされんの? やっぱ優しくするとか? でも俺、一応普通に優しくしてるつもりなんだけどガイアみたいにうっとりされたことねぇな。なんでだろー。顔?」
「え~、翔斗かっこいいよ! 翔斗のこと好きな子多いと思う!」
「マジ? うそ、俺イケメン?」
ガイアに褒められて素直に喜んでいる翔斗に、兵伍は冷静な問いを投げかけた。
「翔斗、お前宿題は?」
「あっ!」
しまったという顔をして翔斗は時計を見る。八時三十分。もうすぐ教師が来てしまう。どうやら今日は宿題忘れ組に入ることになりそうだ。翔斗は、うわーんと泣きまねをし、腕を伸ばして机にへばりついた。
「ガイア~、お前やってきた?」
「やったけど半分もできなかった!」
ガイアは罪のない顔でにこーっと笑う。
「なかま~」
嬉しげにハイタッチしようと手を上げる翔斗に兵伍はため息をつき、今度三人で集まったらゲームより勉強会でもやった方がいいかもな、と思った。