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手を繋いで二人  作者: 夜光始世
出会い
8/21

8


 朝起きてすぐ、隣を見る。目を閉じているが、眠っているのかはわからない。

 兵伍は少し考えたのち、伊織の掛布団を引き剥がして声をかけた。

「朝だぞ。布団がカビるから起きろ」

 するとうっすらと伊織の目は開かれていき、両手を床についてわずかに体を起こした。

「……すみません。ご迷惑ばかり」

「いいよ、別に。でもお前も寝てばっかじゃ気が滅入るだろ」

 寝ることで安らげるなら放っておいてもよかったのだが、どうもその逆のように見えて、兵伍は無理やり起こすことにしたのだった。

「寝ぐせひでーからまず洗面所行ってこい。下着入ってた袋の中に櫛もあるから。で、顔洗ったらちょっと話しよーぜ」

 話をしよう、と言ったとたん伊織は身を竦ませて俯いた。

 失敗したかもしれない。まだ平静に話ができる状態ではないのかもしれない。正解がわからず、兵伍は次の言葉を躊躇う。

 健伍はこういうことへの対応が上手かった。機嫌を損ねたり泣いたりする女に優しく優しく接して、甘やかすことを楽しんでいた。健伍が彼女にする女たちと伊織ではタイプが全く異なるが、人の機微を察しいつのまにか和ませるあの能力が自分にもあればな、と兵伍は初めて父親のたらし力を羨んだ。

「お、お借りします」

 伊織は軽く頭を下げ、逃げるように洗面所に入っていった。兵伍が布団を片し、朝食の準備に取り掛かったあたりで、おずおずと出てくる。ぐしゃぐしゃだった髪は綺麗に二本の三つ編みにまとまっていたが、前髪の端はまだ少し跳ねていた。昨日髪が濡れた状態のまま寝たのだから、無理もない。

 とりあえず食ってからな、と兵伍はフライパンに卵を割り入れながら、伊織を椅子に座るよう促した。

 長い時間食べていなかったせいで胃が受け付けないのか、それともまだ精神的なショックで食欲が湧かないのか、伊織はトーストを半分しか食べずに食事を終わらせた。

「すみません、せっかく作っていただいたのに」

 消沈した顔で言われると、冗談でも文句を言えない。これが父親相手なら「こないだお前の彼女が作った焦げた目玉焼きよりまずいのか? あぁ?」ぐらい言えるのだが。

 ひとまず皿を台所のシンクの上にどかし、兵伍は伊織に向き直った。

「一応聞くけど、帰りたいか?」

「か……」

 伊織の瞳が見る間に潤む。

「かえれ、ません……」

 くしゃりと顔を歪めたかと思ったら、ほろりと涙の粒がこぼれた。泣かせてしまった、と兵伍は内心焦る。伊織の泣き顔を見るたびにずきりと胸が痛んだ。

 ティッシュの箱を伊織の方に押しやる。伊織は数枚ティッシュを取って目元に押し当てたが、拭った先からまた泣いていた。壊れた蛇口のようにとめどなく水分が流れ出ている。

「これからどうしたい?」

 兵伍が尋ねると、伊織はしゃくりあげながら口をわななかせた。

「し、しにます」

 泣き腫らし紅潮した顔で、当たり前のように言う。

「わ、わたし、まちがってました、いきていたくないと、おもってたんです、でもちがう、いきていてはいけないのです、えらぶことなんて、できなかったのに」

「何言ってんだ」

「だ、って、まちがい、ぜんぶ、まちがってるんです、わたしが、生まれたことも」

「やめろ」

「いないほうが、いいんです」

「やめろって言ってるだろ!」

 耐えきれず怒鳴ると、伊織は怯えた顔で口を閉じたが、兵伍はやり切れない思いで床を蹴った。

「死ぬな、死ぬとか言うな、楽な方に逃げるなよ、それで全部丸く収まるなんて思ってんじゃねぇよ!」

 怒りが混じって語気が荒くなる。

「……くそ」

 兵伍はテーブルに肘をついて、頭を抱えた。はあぁ、と深いため息をつく。慰めたいのに怒鳴ってしまった。なんと言えば気持ちが伝わるだろう。どうすれば、死にたがる少女を説得できるのだろう。

 しばしの沈黙のあと、兵伍は額を覆っていた手を下ろし、伊織を真っすぐ見据えた。

「お前が死んだら俺が困る」

 強い口調で断定する。

 自分の価値を信用しない者に「あなたは素晴らしい、汚くなんかない」などと言っても聴きはしない。なので兵伍は己のエゴを前面に押し出すことにしたのだ。

「ここまで事情知った相手が死んで、俺がなんも傷つかないと思うのか? めちゃくちゃ後悔して落ち込むに決まってんだろ。お前俺を落ち込ませたいの?」

「そ、そんな、ことない、です」

「なら死ぬな。なんのために家に連れてきたと思ってんだ。もう絶対傷つけられないようにって、お前が死にたくならないようにって、そう思って……」

 急に気力が失われて、言葉が途切れる。

 テーブルの向かい側に座る少女は、涙を湛えた目でじっと兵伍をみつめていた。網膜の上で揺れる水が、蛍光灯の灯りを反射してきらきらと光る。その眼差し、震える睫毛、少し赤くなった鼻先、薄い唇、熱を持った耳、一切合切失われてはならないのだ。兵伍は衝動のまま身を乗り出し、伊織の右腕を掴んだ。

「死ぬな」

 一言告げると、伊織は困ったように眉尻を下げ、ぎこちなく頷いた。それを見届けてから、兵伍は体勢を戻し、どかりと椅子の背持たれに体を預ける。

 安堵と疲労を同時に感じながら、振り払おうとしなかっただけましになったな、と思った。






 泣き止んだはいいものの暗い影を背負ってぼんやりしている伊織をよそに、兵伍はスマホで『虐待 言葉』『子ども 虐待 制度』といくつか検索をかけてみた。

 どうやら『児童虐待の防止等に関する法律』というものがあるらしい。堅苦しい文章を上から順に読んでいくと、『児童に対する著しい暴言又は著しく拒絶的な対応』という文言が目に留まる。これだ、と思ったが、ほかの記事などを読んでみると、やはり身体的暴力を伴うものが多い。言葉で責める心理的虐待も問題視されてはいるものの、証拠がないのにどの程度子どもの訴えを信用してくれるのか、兵伍には見当がつかなかった。もし公的な機関に相談したとして、そこが伊織の親に連絡して丸め込まれてしまったら取り返しがつかない。一度大人に意見を聞きたい。

 ――親父、いや、ひーくんがいてくれたら。

 兵伍は、たまに家に訪れる父親の親友を思い浮かべた。『ひーくん』は見た目こそ職業不詳の軽薄そうな男だが、父親よりよっぽど見識があって頼りになると兵伍は思っていた。

 何か参考になるものがないかとネットサーフィンしていると、ピロリン、と着信音が鳴る。翔斗からだ。

「よーす、ひま?」

 開口一番暇か尋ねられた。後ろから「あっマリちゃん、こぼさないでって言ったでしょ!」という母親らしき人物の声と幼女の舌足らずな返事、何かがぶつかる音が聞こえる。相変わらず賑やかな家庭だ。

「そこそこ」

「遊び行ってい? ドラドラ対戦しよーぜ」

 翔斗は今流行っているゲームの名を挙げた。ドラドラ、正式名称はドラマティックドラゴンドライブ。ドラゴンを操ってレース対戦するゲームだ。作り込まれたグラフィックの美麗さとストーリーモードの重厚な展開が話題を呼び、無名の会社が発売した作品としては異例の大ヒットとなった。

 ドラドラで遊ぶには、スイムラグーンという機械が必要だ。質素倹約を心掛けている兵伍はもちろん定価四万円以上するスイラグを買うつもりはなかったのだが、同棲中の健吾の彼女が欲しがり、その後別れる際家に置いていったため、なし崩し的に兵伍が手に入れてしまった。たまにこういうおこぼれが発生することもある。

 ドラドラはオンライン対戦に対応しているものの、兵伍もガイアも家にネット回線を引いていない。なので、友達と遊びたければ同じ家に集まらなければならなかった。しかし伊織がいる今、気軽に友達を招くわけにはいかない。兵伍はとりあえず家のせいにすることにした。

「わり、うち今狭くて人呼べるような状態じゃない」

「あー、引っ越したんだっけ。なんで?」

 無邪気に聞いてくる翔斗はきっと、女にだらしない父親のせいで家計が逼迫する状況になるなんて、考えたこともないのだろう。一瞬浮かんだ逆恨みめいた感情を兵伍は素早く心の奥底に押し込め、なんでもないふうに「親父仕事変えたから」と言った。翔斗が悪いわけではない。むしろいい奴だ。普通の家庭で普通に育てられてたいした悩みもなく生きてきた、明るくて素直な友達。

「今住んでるとこのが会社近いんだって」

「そっか。じゃあ俺ん家来る? うちもせめーけどさぁ」

 妹と部屋同じとかねーよな、と口を尖らせて翔斗は言うが、見知らぬ女が頻繁に家に上がり込んでくることに比べたら大分ましである。

「いや、せっかく集まるならガイアいるときにやろうぜ。来週はあいつ予定空いてんだろ?」

「まーな。でもなんかちょっと悔しいじゃーん。あいつデートで楽しんでるのに、俺らだけなんもないのってさ。二人で特訓してトルマリンドラゴンの宝玉見せびらかしてやろうぜ」

「いや、前にガイアのダブルデートにつきあわされたことあったけど、正直あんま楽しそうには見えなかったぞ……」

 そして当然兵伍も楽しくなかった。不幸中の幸いだったのは、兵伍のお相手の女子は別に兵伍に恋していたわけではなかったということである。友達の付き添いという謎の女子しぐさに過ぎず、ガイアの彼女に「お願い、ついてきて!」と頼み込まれたので来たが、釣り合いを取るために呼ばれた兵伍と二人、遊園地の片隅で「お互い苦労するね」と労わり合いながらコーラを飲んでいた。

 肝心のガイアと彼女は観覧車の天辺でロマンチックなキスをしたらしく、夢見るような瞳でうっとりしている彼女と、やりきった顔で額の汗を拭っていたガイアの対照的な姿が印象に残っている。いつものことだが、ガイアの『おつきあい』は恋愛というよりボランティアだった。

「うーん、じゃあ今日は諦めっかぁ」

 残念そうな翔斗に、意外に思って言ってみる。

「お前ほかにも友達いっぱいいるんだからそいつらとやれば? サッカークラブのやつらとか」

「えー、やだ。兵伍とガイアとやるのが一番楽しい!」

 不意打ちで純粋な好意をぶつけられ、兵伍は動揺した。

「あ、そ、へぇ」

「そーだよ! じゃ、明日学校でな~!」

 あっけらかんと言って翔斗は通話を切った。やっぱちょっと遊びたかったな、と兵伍はゲーム機が置かれているテレビ台のほうをちらりと見やった。

 だが伊織のことをさて置いても、普段は父親と分担してやっている洗濯、掃除、買い物、消耗品の補充、家計簿をつけるなど、優先してやった方がいいことは山ほどある。特に家計簿は、今後必要になってくるであろう伊織にかかる臨時出費を考慮して予算を見直さなければならない。

 兵伍はメモ用紙に今日の予定を書きつけ、冷蔵庫にマグネットで留めた。

 どんなに心がかき乱される出来事があっても、ぼんやりしていては生活が回らない。淡々と日々のルーティンをこなして日常を続けることが、つつがなく平穏に暮らしていくためには大切なのだ。生きる気力が抜け落ちてしまったかのような伊織を横目に見つつ、兵伍は雑事を片付けていく。

 少年の日曜日は、あっという間に過ぎていった。




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