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今回はクーラーをつけっぱなしにしておいたため、ドアを開けてすぐ冷気に包まれた。ひんやりと冷たい風にあたり、すぅっと汗が引いていく。
ぼんやりしている伊織を風呂場に突っ込んだあと、着替えがないことに気づく。勢いで連れてきてしまったせいで、伊織が日常生活で必要とするはずの諸々が全く足りていない。シャツとズボンは兵伍の持っている緩めのものでなんかなるとしても、下着はどうしようもなかった。実は健伍の恋人が置いていった下着が何枚かあることはあるのだが、伊織にそれを使わせる気にはなれない。
仕方がないので兵伍は「ちょっと出かけるな」と声をかけ、近くのコンビニに向かった。コンビニには色々なものが揃っている。着の身着のまま家に転がり込んでくる健伍の恋人が何人かいたおかげで、兵伍はコンビニに簡素な下着が売っていることを知っていた。
パックされたパンツとキャミソールをそれぞれ数枚、生理用品、歯ブラシセット、櫛、ついでにプリンを三つ買って、家に帰る。
女性向けの商品を買うことに羞恥心などはない。小さいころから使い走りで買わされてきたので今さらだ。店員はいたって事務的に対応してくれるし、見かけたらからかってくるであろう幼稚な同級生も近くにはいない。
プリンだけ冷蔵庫にしまい、それ以外の買ってきたものを椅子に乗せて風呂場の出入り口の横に置いた。「下着買っといたから使えよー」と言うと、中からくぐもった声で「お手数おかけします」と聞こえてくる。精神状態が不安定でも言葉遣いがほとんど乱れない伊織に、兵伍は感心した。今までの経験からすると、父親の彼女にこのようなことをしたときに返ってきた最も丁寧な対応は「ありがとー、キスしてあげよっか」だった。子ども相手でもちゃんとお礼を言える性格は好感が持てたが、キスは断固拒否した。
しかしその健伍は、一体どこにいるのだろうか。残業で帰るのが遅くなることは多々あったが、二日家を空けるのは珍しい。予定外のことが起きている、即ち女絡みである。兵伍はほぼ確信に近い予感を抱いていた。
無料通話アプリで健伍の携帯に電話をかけると、十秒ほど呼び出し音が鳴ったあとに繋がった。
「兵伍ぉ、やほ~」
馴染みのあるへらへらした声が聞こえる。
「やほ。今どこにいんだよ」
「えっと、まぁ心配しないでいいよ」
「してねーよ。誰か一緒にいんのか?」
「お、さすが兵伍、鋭いな」
能天気に吐かれる言葉に、兵伍はため息をつきたくなる。
「絶対家に連れてくんなよ」
「そう冷たいこと言うなって、人類みな兄弟、助け合って支え合って俺たちは生きてるんだぞ」
「親父の助け合いは下心付きだろ。とにかく、今は本当に誰であっても無理。親父が帰ったらちゃんと説明するけど、定員オーバーなんだよ」
「はぁ? 友達でも泊めんのか? 珍しいな、お前が家に呼ぶなんて」
「あぁ、だから一人で帰れよ。いいな?」
「あ~、うん、うーん、まあぁ、えーっと、あ、勉強しっかりやれよ! じゃあな!」
ぶつりと通話が切れる。誤魔化しやがった、と兵伍は苦い顔で画面を睨んだ。話題を逸らしたい時、健伍は何故か必ず勉強を持ち出す。しかし兵伍が悪い成績を取った試しなどないので、「これ前のテスト結果」とプリントを見せられ、黙り込む羽目になる。毎回同じ流れになるのだからいい加減学習すればいいのに、健伍は子どもというのは勉強について聞かれる以上に嫌なことなどないと信じているようだった。
ふと視線を感じて顔を上げると、数歩先に髪から水を滴らせた伊織が立っていた。アメカジ系の兵伍の服を着ると雰囲気が変わって見える。伊織の方が背が高いので兵伍よりサイズが大きいはずだが、骨格が華奢なためゆるめの服であればさほど問題はなかった。
「ドライヤーあるぞ。わかんなかった?」
横をすり抜けて洗面所に入り、洗面台の棚からドライヤーを外して伊織に渡す。伊織は受け取りはしたものの、ドライヤーを漫然と見るばかりで一向に乾かし始める気配がない。
「使ったことないのか? いや……」
使う気力がないのか。兵伍に視線を戻した伊織は、じわじわとその瞳に涙を滲ませ、小さな声で言った。
「ひょうごくん」
兵伍から目を逸らさぬまま、ドライヤーを近くのテーブルの上に置く。
「わたし……」
だが、その後随分待っても、続きの言葉は発せられなかった。言いたいことが多すぎるのか、言おうとしても出てこないのか、あるいはもう何を言いたいのかすらわからなくなっているのかもしれない。
兵伍は伊織の背中に手を当てて体の向きを変えさせ、隣の部屋に押しやった。朝、伊織がたたんで隅に寄せておいた布団を乱雑に広げ、引き出しからタオルを出して枕の上に敷く。そして連れてきた伊織を布団の上に座らせた。
「一回寝て落ち着け」
少し遅れて与えられた言葉を咀嚼した伊織はゆっくりと頷き、そのまま布団に潜り込んだ。外はまだ明るいが、泣き疲れた体は休息を欲している。眠ることに否やはなかった。あっという間に寝入ってしまった伊織の様子を確かめたあと、兵伍はランドセルからノートと筆記用具を取り出し、居間のテーブルで宿題を始める。狭い部屋に勉強机を置くスペースはないし、健吾がちょっかいを出してきさえしなければテーブルで勉強することは気にならない。
ふと思いたって冷蔵庫からプリンを一つ出したが、しばらくみつめたのち、また冷蔵庫に戻した。一応、父親と一緒に食べようという意図で買ったものなのだから、もう少し帰りを待とう。今度の彼女は通帳を盗ったりせずブランドのバッグをねだって満足するぐらいの控え目さがありますように、と兵伍は信じもしない神に祈った。
夕方六時を過ぎたころ、夕食のリクエストを聞くために伊織を起こしにいくと、既に起きていてぼんやりと天井をみつめていた。いつからこうしていたのだろうか。兵伍は伊織の視界を遮るように上からのぞき込んだ。
「これから飯作るけど、なんか食いたいのある?」
伊織は横たわったままぎこちなく首をふり、「いえ」とかすれ声で言った。
「お構いなく」
「食わねぇの」
「……あまり、食欲が」
「そっか。一応作っとくから、腹減ったら食えよ」
軽い調子で告げて、居間に戻る。冷蔵庫にある野菜はねぎと玉ねぎと人参とピーマンとトマト、貯蔵庫にじゃがいも。カレーにしようと思ったが、弱っている伊織に刺激物は良くないだろうと考え直してシチューにすることにした。
父親が帰ってこないものだから野菜の消費が遅い。伊織がいることで頭数はプラスマイナスゼロになったが、今のところ食事を摂っていないのでいないも同然である。
明日になっても食わなかったらどうすっかなぁ、と兵伍は鍋に シチューのルーを溶かし入れながら考えた。無理にでも食べさせた方がいいだろうか。しかしそれで吐いてしまったら意味がない。兵伍は、伊織が苦しむ姿を見たくなかった。
連れてきてしまったことを後悔はしていないが、自分が人ひとりの面倒を見られるほどの器量がないことを兵伍は自覚していた。偉そうなことを言ったってまだ子どもだ。圧倒的に経験値が足りない。何かしてやりたい、楽になって欲しいという気持ちばかりがあって、具体的なやり方が思いつかない。
できあがったシチューを二つの皿によそい、伊織の分はラップをかけてテーブルに置いておいたが、結局その日、伊織が起き上がってくることはなかった。兵伍はなるべく静かに横に自分の布団を敷き、漠然とした不安を抱えながら眠りについた。