6
安っぽいアパートのドアを開け中に入ると、出る前につけていたクーラーの名残はとっくに消え失せ、外と同じかそれ以上の熱気がむわりと身を包む。放り投げるように靴を脱ぎ汗まみれの靴下も脱ぎ去ろうとしたところで、兵伍は床に落ちている黒いものに気づいた。
「なんだ……? メモ帳?」
近寄って拾い上げると、兵伍のさほど大きくない手にも収まるほどの小さくて薄いノートに、金字で「生徒手帳」と印字されていた。裏面には伊織の写真と氏名が載っている。三年四組、空坊伊織。どうやら学校で配布されるもののようだ。
――あいつ三年生だったのか。いやそれより、これないとまずいんじゃねぇの?
兵伍は中学校のことはよく知らないが、校則とやらがあって、小学校より厳しく指導されるらしいということは聞いていた。もしかしたらこれは常に携帯していなければならないもので、持っていないと怒られるのかもしれない。それでポケットか何かに入れていたのが落ちてしまったのだろう。
兵伍は靴を履きなおし、再び外に出た。伊織の家までの道は、確かではないがまだそこそこ覚えている。届けてやらなくてはならない。面倒事だが、不思議とそんなに嫌ではなかった。あの気の弱い伊織が果たしてちゃんと家出中のことを説明できたのか、理不尽に怒られてはいないか気になっていたのだ。気になってはいても兵伍は子どもだし、何もできることはなく口を出せる立場でもなく、何の役にも立たない励ましの言葉だけを贈り別れてしまったが、しかしもやもやと心配が胸に巣食いどうにもすっきりしない。生徒手帳を届けがてら伊織を見て、少なくとも親からの『いじめ』がエスカレートしていないか確認し、安心したかった。
いつにないおせっかいな行動に自嘲しつつ、兵伍は歩を進める。途中で道がおぼつかなくなったが、通りがかった人にお屋敷っぽい家を知っているか尋ねると、すぐに教えてくれた。
「空坊さん家かい。名家だよねぇ、あそこは。戦後のあれこれで手放すはめになっちゃったけど、昔はここら一帯はみんなあそこん家のもんだったんだよ。あくどいこともせんで、評判は良かったようだけど、お役所ってのは頭が固いから」
世間話を続けたそうな老人にお礼を言って話を切り上げ、伊織の家を目指す。言われたとおりに何度か角を曲がると見覚えのある立派な石垣と聳え立つ樹木が目に入り、ここだ、と足を速めた。
先ほどは手前で引き返した門をくぐり、伊織が入っていった戸の横についているインターホンに手を伸ばす。純和風の家とはいえ、細部に電化製品を導入しているようだ。まぁ今の時代それが当たり前か、とボタンを押す直前、兵伍ははたと動きを止めた。あいつ、離れで生活してるって言ってたような? 辺りを見渡すと、右手にそれらしき建物が見えた。小じんまりした平屋で、母屋とは繋がっていない。倉庫かとも思ったが、窓にカーテンが下がっているところを見るに、やはり居住スペースなのだろう。しかしこちらにはインターホンがついていないようだ。離れの戸口に近づき、兵伍はぎょっとして目を見張った。
「閂……」
直径三センチほどの太い鉄製の閂が、外壁と戸を繋ぐように差し込まれている。これではもし中に人がいたとしても、出るに出られない。
孤立している離れ。昼日中から閉められたカーテン。外からしか掛けられない鍵。普通なら物置代わりにでもしているのかと思うところだが――。
嫌な予感に空を仰ぎ、兵伍は小さく呻いた。いまだ衰えぬ太陽の日差しが目に痛い。目的が生徒手帳を届けることだけなら母屋から正式に訪ねるのだが、実際はそれは建前だ。兵伍は伊織の様子を見に来た。そして直感が、伊織の居場所はここだと告げている。
予想がはずれてますようにと願いながら、兵伍は閂を引き抜いた。完全に不法侵入だが、幸い、見つかったとしてもぎりぎり、子供のやることだからで済ませられる年齢だ。
この戸は施錠方法が閂しかないらしく、鍵穴などは見当たらず、取っ手に手をかけたら簡単に動いた。空き巣や強盗が怖くないのだろうか。疑問に思うが、すぐに自分で答えを見出し、兵伍は愕然とする。これは外から身を守るためではなく、中に閉じ込めるため、あるいは中に引き篭もれないようにするための家なのだ。居住者の意志を完全に無視している。うすら寒いような気持ちで後ろ手に戸を閉め、玄関に伊織が履いていた黒いローファーがあることを確認した。間違いない、ここに伊織はいる。
「……お邪魔します。忘れ物届けに来ました」
声をかけたが、応答はない。迷った末、兵伍は靴を脱ぎ、あがりかまちの上に上がる。目の前の曇りガラスの引き戸をガラリと引くと、部屋の奥で、だらりと畳の上に身を投げ出している伊織がいた。
「い、おり……? おい、どうしたお前、寝てんの、……っ」
駆け寄って覗きこんだ兵伍をぼんやりと虚ろな瞳が迎える。焦点の合わない瞳孔は、ぽかりと開いた空洞のように生気がなかった。ぞっとして、思わず肩を掴み揺さぶる。
「い、生きてるよな、なぁ?」
「…………ぁ」
抜け殻のようになった伊織の口から、僅かな声が漏れる。
とりあえず死んではいないらしいと胸を撫で下ろし、兵伍は屈みこんで畳に膝をついた。
「――何があった?」
じっと見ていると、徐々に伊織の目が開かれていき、やがて兵伍の存在を認識した。
「……ひょうごくん」
弱々しい声で囁くように言う。
「どうして、ここに」
「お前が手帳忘れてったから……あとまぁ、気になって」
起きるのを手伝おうと手を伸ばすが、伊織は怯えたように首を振り、拒絶する。
「ち、近づかないで、くださ……」
「え、またかよ。つーか悪化してね?」
玄関前で別れたときは覚悟を決めた顔をしていたのに、二時間も経たないうちに初めて会った時の死にそうな顔に戻っている。兵伍はとりあえず手を引っ込め、伊織をじっと見下ろした。
「親になんか言われた?」
途端に伊織はびくりと体を震わせた。
「……わ、わたし、わた、し……」
喘ぐように言葉をこぼし、俯く。
「お母様の、子どもではない、と言われ――」
「あ?」
兵伍の眉間にしわが寄る。
「どういう意味だ。血が繋がってないってこと? それとも精神的なことか?」
「そ、そのままです……私、お母様の、妹の子、で、その人がお父様を誘惑して、それで私が生まれて、だから、いんばいの血が、汚れた血が流れてるから、せんせいをゆうわく、して、わたしがいる、から、あくえいきょうを、せんせいがかわいそう、て――」
拙い言葉で紡がれる顛末に、兵伍は絶句した。
――いん……なんだって? 先生? 誘惑? こいつが?
一気に明らかになった刺激的な情報に混乱しつつ、か細い声を聞き取るために頭を寄せる。
「待て、よくわかんねぇ、先生ってなんだ、なんかあったのか?」
「せ、せんせ、は……わた、わたしにふれて、くれたんです、わたし、それがよくないってしってました、いやで、こわくて、で、でもうれしか、ったから――」
「触れてくれた?」
「そう、むねとか、おなか、とか、からだの、なかも……せんせ、も、きれいなひとじゃ、ないから、だから、ゆるされるかもって、おもったのに、つきとばされ、てくるしくて、だけどほんと、は、わたしが、せんせいを、きたなくしてしまっ……」
ひぐ、と息が詰まったような音を漏らして、伊織は言葉を止めた。喉を押さえて、小さな口をはくはくと開閉する。呼吸が止まっていた。兵伍は咄嗟に伊織の背中を叩き、「しっかりしろ!」と怒鳴る。それを拒むように伊織は両手を突っ張って兵伍の胸元を押し、いやいやと首を振った。
「伊織!」
焦燥感にかられ伊織の顎をつかんで上向かせると、泣き濡れた顔が露わになる。その顔を見た瞬間、兵伍の心臓に、どすんと何かが落下した。
――あ。
視界が開ける。心に巣食っていたもやもやが消え去る。隕石のようにそれは全てを吹き飛ばし、爆風を撒き散らしながら楔のように兵伍の奥深くに突き刺さった。思考も理屈も理性も慎重さも抜け落ち、馬鹿げた感情が姿を現す。よし、と兵伍は妙にすっきりした頭で思った。
――連れてこう。
伊織の手を掴みなおし、弱々しい拒絶を無視して上に引っぱり立ち上がらせる。
「家帰んぞ」
「……え?」
涙目で呆けているのをいいことに強引にぐいぐい引くと、伊織はたたらを踏みながらも二、三歩歩いたが、「ど、どこに……」と尋ねすぐに立ち止まってしまった。
兵伍は振り返り、当然のように言う。
「俺んち」
途端に伊織は青ざめ、手を振り払おうとした。
「だ、だめ、だめです……あなたはもう、かかわっちゃだめ……!」
悲痛な声をあげ、その場に蹲る。いくら細いとはいえ、伊織は兵伍より年上で背が高い。力任せに連れていくのは不可能だ。
兵伍は小さくなって固まる伊織の手を渾身の力で引き、「うるせー馬鹿、お前の気持ちなんか知るか!」と叫んだ。
「俺が嫌なんだよ! ここまで聞いてほっとけっか! いーから来い!」
強く言われれば逆らえないのが伊織だった。のろのろと顔を上げ、突飛なことを言い出した少年と目を合わせる。怒っているように見えるのに、責められている気はしなくて、強い瞳に浮かぶ光が綺麗だと思った。蔑むでもなく、下心もなく、純粋で清らかな少年にこれほど真っすぐにみつめられているという状況を受け止めきれない。どっと涙が溢れ出て、鼻の奥がつんとする。見苦しい姿を見せてはいけないと思うのに、顔を覆うこともできない。
涙と鼻水と汗でぐちゃぐちゃになった伊織の顔を、兵伍はそばにあったティッシュで拭いてやり、その流れで手を引っ張って立たせ、玄関まで連れ出した。
容赦なく降り注ぐ陽光に、繋いだ手はすぐに湿り気を帯びる。兵伍は汗で滑りそうになる手を繋ぎなおし、もう片方の手で閂をかけて、母屋の方を見る。大声で叫んでしまったから気づかれたかもしれないと思ったが、人が出てくる様子はなかった。
伊織が転ばないか気にしつつ、足早に空坊家の敷地から出ていく。誰かに威圧されていたわけでもないのに、公道に出た途端ほっと安堵の息が漏れた。
兵伍も伊織も、一言も喋らなかった。脳が茹ってしまいそうな日差しの中、顔を見合わせもせず、ただ黙々と歩き続けた。これが正しいことなのか、ほかに道があるのではないか、そんな思考は、暴力的なまでの暑さが剥き出しにさせる感情の前にあまりに無力だった。
繋いだ手から伝わる互いの高い体温と湿った感触だけが、二人の心を支えていた。