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何処からか小鳥の囀りが聞こえる。目蓋の裏が明るい。居心地の悪さを感じぱちりと目を開けると、ピンクの小花が散った花柄の布が視界に飛び込んできた。伊織は寝ぼけ眼でそれを見つめ、自分が横向きの体勢で布団の端を握り締めていることに気づく。
――花柄の布団? こんなもの使ってな――あぁ、そうか。
次々と蘇ってくる記憶を反芻し、今の自分の状況を認識した。昨日は昼休みに垣原に呼ばれて社会科準備室に行き、いつものように押し倒され、それをほかの生徒に見られて垣原が動揺し、突き飛ばされた伊織が垣原のしたことを告げ、呼ばれた野間に垣原が連れて行かれ、伊織は茫然自失の状態で教室を出て家路につき、車道に飛び出す寸前に見知らぬ少年に摑まえられて家に連れてこられたのだった。
改めて思い返すと酷く無分別な行動ばかりしている。どうなってもいいと思っていたとはいえ、これはあまりにあまりなのではないか。何してるの私、と伊織は朝からどんより沈み込んだ。
知り合いでもない少年にご飯を作ってもらって泊まらせてもらって、大層迷惑をかけてしまった。合わせる顔がない。どうしよう。早く出て行かなくちゃ。
起き上がると同時に、台所から「飯できたぞー」と声が上げる。伊織は慌てて布団を畳んで隅に積み、居間に出た。
トーストと目玉焼きとベーコンが乗ったプレートを持ってきた兵伍が、「はよ」と言う。
「お、おはようございます」
顔を伏せたまま、挨拶を返した。
「あ、あの、大変お世話に、なってしまって、私もう出て――」
「とりあえず食えよ。話はそれからだ」
有無を言わせぬ兵伍の言葉に逆らう事も出来ず、示された椅子に座って手を合わせ、朝食を食べ始める。湯気と共に燻製特有の香ばしい匂いが漂う。手の込んだ料理ではなさそうなのに、やはり素晴らしく美味しい、と伊織は感嘆した。王様だってこれほどのものは食べられないに違いない。
兵伍は半熟卵に胡椒をかけ、ぷつりと黄身を割りながら無造作に尋ねる。
「どうしたい、これから」
「……帰ります」
伊織は静かに答えた。
どう考えても道はそれしかなかった。一晩たって、落ち着いた気持ちで考えてみれば、死んでいなくなるというのも安易に過ぎる気がした。厳しくもきちんと育ててくれた母に対して申し訳ない。それに、死んでしまったらそれきりなのである。嫌な思い出も嬉しい思い出も、伊織の存在ごと全て消えてなくなってしまう。垣原に突き飛ばされた時はそれでもいいと思えたが、引き留めてくれる人間を振り切って死ねるほど、伊織は自我のしっかりした人間ではなかった。優しさを与えられれば未練が残る。美味しい食事を摂って、薄い布団を借りて、家か恋しくなって、欲が出てしまった。
「母には叱られてしまうと思いますけど、それは仕方ないことですから、自分の罪を認めて、きちんと罰を受けてまいります」
「罪? なんか悪いことしたの、あんた」
「言いつけを破って、はしたないことをしてしまいました。私のような者が人様に触れるなどあってはなりませんでした」
兵伍は顔をしかめた。
「人に触るなってやつか。何が悪いのか俺には全然わかんねーけど」
「……ありがとうございます、慰めてくれて。でも大丈夫です」
「……」
噛み合わない会話をすり合わせる努力を放棄し、兵伍は食べる作業に戻った。
あまり安らげそうもない家に戻すのは気が引けるが、本人が帰ると言っているし、兵伍に何ができるわけでもないので、結局こうなるしかなかったのだろう。少なくとも今すぐ死にたい気持ちではなくなったようなので良かった、と思うことにする。
食べ終わって歯を磨いてから、兵伍は家の鍵がついたチェーンを掴み、首にかけた。
「俺今日学校ないし、送ってく」
「え?」
「また途中で車の前飛び出したりしたら嫌だからな」
「だ、大丈夫です、ちゃんと気をつけます」
「どーだか。行くぞ」
「あ、」
手早くクーラーの電源を切って玄関のドアを開けた兵伍に、伊織は戸惑いながら後に続く。しかし道を知っているのは伊織しかいないので、外に出てからは必然的に伊織が前に立つことになった。
今日も今日とて蝉の鳴き声は絶好調に響き渡り、辺りを騒音で埋め尽くしている。容赦なく照りつける太陽光と相俟って、鬱陶しい気分を増幅させた。兵伍は額の上に手をかざし、襲い来る眩しさに目を細める。
少し前を歩く伊織は、兵伍より十センチほど背が高いわりに歩幅があまり大きくないので、どちらかが合わせるということもなく、同じ歩調で歩いて行く。
あまりの暑さに口を開くことすら億劫だ。道の端にはためく『かき氷あります』の文字にふと視線が吸い寄せられ、家帰ったらかき氷機引っぱりだすか、とぼんやり考えながら兵伍は黙々と足を動かす。
このとんでもない熱気には辟易するが、夏は嫌いではなかった。何もかもが生き生きとして美しい。輝く若葉、咲き乱れる花、照らされ続けたアスファルトはぎらりと黒光りし熱を発している。止まない蝉の音、滑空するカラス、一片の隙もなく済み渡る青空。この世に悲しいことなど何もないかのような明るく健全な光景。
こめかみから流れてくる汗を乱暴に拭い、兵伍は隣を歩く伊織を横目で見た。折れそうに細く白いうなじにはやはり汗がつたっているのに、妙に涼やかだ。
兵伍は不思議な感銘を受けた。昨日は言動に気を取られていたせいであまり気にする余裕がなかったが、改めて見ると、少女はまったく自らを汚いと称すには不似合いな容姿をしていた。夏の日差しに晒されて光を纏う立ち姿は、映画の一シーンのように非現実的な清冽さがあり、派手ではないが品よく整った顔立ちは、素直に綺麗だと思わせる。皺がついたオフホワイトのセーラー服、そこから伸びる線の細い肢体、日に焼けていない肌は周囲の景色から浮かび上がるように白く、薄く滲む汗がかえって清らかさを際立たせていた。
だが日陰に入った途端、伊織の俯きがちな暗い表情を幾分か華やがせていた光の効果は消え失せ、元の陰気そうな野暮ったい優等生へと戻ってしまう。本人が自らの魅力を認識していないことは明白だった。兵伍は、今まで目にしてきた強かであざとい美女たちを思い浮かべ、あいつらの図太さの百分の一でもこいつにあったらなぁ、と思った。そうすればこんなに気を揉むこともなかったのに。
アスファルトの上でこんがり焼かれているような気持ちになりながら二人はひたすら歩き続け、兵伍が水筒を持ってこなかったのを後悔し始めた頃、伊織はようやく大きな日本家屋の前で立ち止まった。
「……ここか」
明らかに周囲の家と様子の違う屋敷を見上げ、兵伍は呟く。
家を囲む石造りの塀が長く続き、その後ろにはよく剪定された庭木が聳える。大きな門戸は開け放たれていたが、その奥に見える家屋からは古く由緒ある家の風格が滲み出ており、簡単に立ち入れないような威圧感があった。予想はしていたものの、実際に目の前にすると、思っていたより気圧される。
「でかいな、お前んち」
振り返って言うと、伊織は小さく頷いた。顔色が悪い。いくら気温が高いとはいえ、尋常じゃない量の汗をかいている。よく見ると指先が小刻みに震えていた。
「お、い、大丈夫か」
思わず尋ねると、伊織はぎゅっと目を瞑った。
「へ、へいきです、だいじょうぶです、行きます」
意を決したように一歩踏み出す。如実に伝わってくる緊張につられて兵伍は拳を握った。年下の少年に見守られながら伊織は少しずつ歩を進め、どうにか門を潜りぬける。
ほぅ、と息をつく様に、やはり無理をしているのではないかと心配になり、兵伍は伊織に近づく。
かといってなんと声をかけたらいいのかは思いつかず、考えなしに発せられた言葉は頼りなげな響きを帯びた。
「ひ、ひとりで、いけんの」
おまけに内容もおかしかった。自宅の玄関まで来ておいて「一人で行けんの」はない。変なことを口走ってしまったと後悔し気まずげに顔を顰めた兵伍だったが、伊織は気づかずに古めかしい扉を凝視しながら、「い、いきます、いけます」と同じ言葉を繰り返す。
そのまま覚束ない足取りで進もうとするので、兵伍は咄嗟に伊織の服の端を掴んだ。
「なぁ、お前――伊織」
「……はい」
熱に浮かされたような顔で伊織が振り向く。
「俺の名前、言ってなかったよな。美鶴兵伍っていうんだ」
「……ひょうごくん」
「おー。また大変なったら遊びに来いよ。遊べるようなもんねーけど」
「いいん、ですか」
「……いーよ」
強張った表情を見せる伊織の瞳の奥で、縋るような、怖がるような色が揺らめく。
助けが欲しいくせに人を拒絶するその在り様に、兵伍の胸はまたきゅっと痛んだ。助けたい。なんとかしてやりたい。こいつをちゃんと笑わせてやりたい。自然に浮かんでくる欲求をやり過ごし、一歩引く。じゃり、と足元で砂が擦れる音がやけにはっきりと聞こえた。
からからに乾いた口を開く。粘つく不快感を堪え、ぽつりと言った。
「頑張れよ」
きっと、ほかにもっと、言うべきことはあったのだろうけど。その言葉を聞いた伊織はぎこちなく微かに微笑み、ゆっくりと頭を下げた。
「――お世話になりました。本当にありがとうございました」
そうして少女は兵伍に背を向け、先ほどよりはしっかりした足取りで重厚な扉の向こうへと消えていく。
この先には自分は立ち入れないのだと、少し悔しいようなほっとしたような気持ちになりながら、兵伍も踵を返し来た道を戻る。
これから家に帰って、シャワーを浴びて、宿題をして、洗濯をして、昨日帰って来なかった父親に連絡して昼食を作って適当なテレビ番組でも流し見て、いつも通りの日常を送る。そうしてこの一連の出来事もいずれ風化してしまうだろうと、この時はまだ、そう思っていたのだ。
「頑張れよ」
不愛想でお人好しな少年は、真っ黒い瞳孔でひたと伊織を見据え、かすれた声で言った。その一言だけで、不思議と勇気が湧いてくる。少年にしてもらったことと、言ってもらったことを心にとめておけば、これから何があってもまた頑張っていけるような気がした。
伊織は深々と頭を下げ、心からの感謝の言葉を伝える。
「――お世話になりました。本当にありがとうございました」
こんな短い文章では言い表せない、泣きそうな想いを込めて。
これ以上少年と顔を合わせていたらその優しさに甘えてまた足がすくんでしまうかもしれない。そう思って、伊織は振り切るように少年から離れ、古めかしい日本家屋に向き直る。
玄関前に取り付けられた呼び鈴を鳴らすと、少しして戸の向こうから「はい、どちらさまですか」と中年の女性の応答があった。
「……伊織です」
名を告げるやいなや、「奥様っ!」という叫び声が聞こえ、しばしの間を置いて勢いよく戸が開く。割烹着を着た使用人の吉野以津子が、眦をきつくし睨むように伊織を見やった。
「奥様がお待ちです。どうぞ」
冷え切った態度に、あぁこれだ、と家に帰ったことを実感する。夏の熱気の中でも変わらぬ鋭利な氷のような視線に、前向きになっていた心がぺしゃんとひしげる。。
玄関で行儀よく靴を揃え、飴色に光る木の廊下を抜けると、いつものように居間では品のいい江戸小紋の着物を着た母が、ぴしりと背筋を伸ばした寸分の乱れもない正座姿でゆっくりと湯呑を口元に運んでいた。
「――お母様。ただいま、帰りました」
緊張で声が上擦った。母、菊子は伊織の方を見もせず、冷淡に問うた。
「それは、私に言っているの?」
「は、い」
ふぅ、と菊子はため息をついた。いつになく疲れているように見えた。伊織の心臓は恐れと罪悪感できゅっと締め付けられた。ただでさえ自分の存在が母に心労をかけているのに、これ以上失望させるわけにはいかない。これからは貝のように固く自分を閉ざし、おとなしくおとなしくして過ごさなければ。
「ねぇ伊織さん、あなた、よくも平気な顔をして帰って来れたものですね? 自分がどれだけのことをしたかわかっているの?」
「……はい。申し訳ありません」
伊織は畳に膝をつき、頭を下げる。娘が学校で揉め事を起こした上に、無断外泊。規律と世間体を気にする母がどんなに辛かったことか。居た堪れなさに苛まれつつ、ひたすら謝罪の姿勢をとった。
「昨日学校から連絡があったわ。担任の先生といかがわしい関係になったんですってね、我が空坊家の名がこのような恥辱に塗れる日がこようとは……やはりあの時、私が情けをかけねば良かった」
覚悟していたとはいえ、垣原とのことを言われ、伊織は息をつめた。知られてしまった。ついにあの忌むべき関係を、母に。
垣原に感じた恐怖心は、何度か呼び出されるうちに麻痺していった。それでも「母に知られたくない」という強い気持ちだけはずっと残っていた。それが一番伊織にとっては恐ろしかった。垣原の手に伊織のあられもない姿を映した写真があることが、しばしば彼女の精神を追い詰めた。母に知られることに比べたら、好き勝手に体を使われる気持ち悪さなどたいしたことがなかった。
母が嫌がるようないかがわしい行為をしていること、その相手が教師であること、即物的な目的であるにせよ積極的に触れられ求められることで充足感を得ていること、その全てが隠し通さなくてはならぬ禁忌である。
にもかかわらず、男子生徒に目撃され垣原に放り出された時、伊織は垣原を告発した。今にして思えば、愚かなことをしたものだ。こうして母に対峙する段になって後悔が押し寄せてくる。だがあの時は、そんなことを考える余裕も失われていたのだ。深く繋がった垣原にまで放り出されて、自分が世界に一人きりになったような気持ちになってしまった。もうこの世になんの希望もありはしないと。
垣原に捨てられ、母を困らせて、このまま生きる意味などあるのか。謝るよりも死んだ方が早いのではないか。そう思いかけた伊織の脳裏に、口をへの字に曲げ咎めるようにこちらを見る少年の顔がよぎった。
「汚いってどこがだよ」
「大変なったら遊びに来い」
「……頑張れよ」
美鶴兵伍。今まで出会った誰よりも、強くて賢くて優しい子ども。
――そうだ、頑張らなくちゃ。
伊織は唇を噛みしめ、一層深く頭を下げた。死ぬのを引き留めてくれ、料理を食べさせてくれ、家に泊めてまでくれた兵伍の厚意を無駄にするわけにはいかない。母は厳しいがそれも伊織を思ってのことだ。伊織が社会につまはじきにされないよう、人様に迷惑をかけないように躾けてくれているだけなのだ。だから誠心誠意謝って、これからは貞淑に生きていけばいい。寂しくなったら兵伍のことを思い出そう。そうして少し心が温かくなれば、また頑張れるはずだ。
黙って頭を下げ続ける伊織に、しかし菊子は絆されはしなかった。
「学校から報告を受けて私がどんなに恥ずかしい思いをしたか、お前のような浅はかな娘にはわからないでしょう。それに一晩家に帰らないなんて……一体どこでなにをしていたのやら」
す、と立ち上がり、菊子は伊織に背を向ける。
「こうなるのではないかとは思っていました。それでも、私なりに厳しく躾ければ、世間様に迷惑のかからない子になるのではないかと――愚かな考えを」
一人呟くような話し方になった菊子に、見捨てられたような心地になった伊織は焦燥感を覚え、必死に謝罪を重ねた。
「は、はしたないことをしてしまい、申し訳ありませんでした。もう二度とお言いつけに背くようなことは致しません。どうかお許しを――」
「いいえ、私が目を離したらとんでもないことになるというのは、今回の件でよくわかりました。お前が本気で反省するとも思えません。しばらく離れから出てはなりませんよ」
「……では、学校は」
「行く必要などないでしょう。少なくとも中学生のうちは許しません。外聞が悪いから高校は行かせてあげますけど、この近辺というわけにはまいりませんね。全寮制の女子高ならいいかしら。いえ、ほかのお嬢さん方に申し訳ないわ。あぁ、本当に頭が痛いこと」
「お母様、私」
「母ではないわ」
菊子は斜めに振り返り、蔑むように伊織を見下した。
「お前のような卑しい者が私から産まれるわけがないでしょう。お前の親はもうこの世にはいません」
それから聞かされた話は、伊織の存在を根底から突き崩し、元々希薄だった自意識を木っ端微塵に粉砕して吹き散らした。