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その日、健伍は帰らなかった。
兵伍は嫌な予感を覚えながらも、伊織のことを説明するという面倒事からひとまず逃れられたことに安堵し、自分と伊織の布団をぎりぎりまで引き離した。必要以上に親しくはしないという意思表示である。
歯ブラシや着替えなどは用意がなかったので、とりあえずお茶でうがいをさせ、服はそのままということになった。伊織は制服のまま布団に入ることをしきりに恐縮していたが、脱がれるよりその方がましだからと兵伍が説き伏せ、布団に押し込んだ。
「俺、風呂入ってくんな」
「はい。お、お先に眠らせていただきます。おやすみなさい」
伊織が横になると、兵伍は蛍光灯から下がった紐を何度か引いて灯りを消してくれた。障子が閉められて少ししてから、ざああぁと水が流れる音が聞こえてくる。
伊織は暗くなった虚空を見つめ、鈍い思考を巡らせた。
疲れているからすぐにでも寝入ってしまうと思っていたのに、何故かあと少しのところで眠れない。妙に目が冴え、人の気配を感じて無意識に体が強張る。薄い布団の中で身じろぐと、知らない家の匂いがした。暗がりに慣れた目にうっすら映る見慣れない天井。唐突に違和感が襲ってくる。自分の居場所はここではない。ここは仮の寝床に過ぎない。本当は、あの冷たく静かな離れで一人――あぁ。
もうあそこには戻れないかもしれないのだった。
突然深い絶望に引き戻され、伊織は唇を噛みしめた。あの少年は優しい。今まで出会った誰よりも優しく、眩しい。死ぬなと言ってくれた。素晴らしく美味しい料理を作ってくれた。汚い伊織を気遣ってくれた。望外の親切に、心から感謝している。それでも、少年は他人である。本来なら伊織と関わるはずのなかった、年下の子供。頼ることなどできない。伊織の面倒を見てくれるのは、厳格で公正な母しかいないのだ。
生きようとするなら、戻らなくてはならない。人に触れた罰を受けなくてはならない。しかし許してもらうことはできるのだろうか。垣原との行為はあちらが強制してきたものだが、伊織が完全に拒否していたとも言えなかった。この人は私が汚いことを気にしないのだと、嬉しく思いさえした。そういう浅ましい気持ちを、母に見抜かれたら。
――嫌だ、何も考えたくない。なにもなにもなにも。
暗い考えしか浮かんでこないことに嫌気がさし、伊織は掛け布団を引き上げ頭まで被った。兵伍の家では夜はクーラーを切る方針らしく、その状態で布団に潜るとなると、蒸し暑く息苦しい。湿気が籠ってむわりと肌に纏わりつく。急激に上がる体温に、何時間か前まで自分の体に触れていた垣原の手を思い出してしまい、あぁ本当にあの時死ねていたら、と薄れる意識の中思った。最後に突き放されるぐらいなら何も知らぬままでいたかった。いっそあの小さなナイフで、喉の真ん中を突き刺してくれたら良かったのに。
兵伍はよく大人びていると言われる。「しっかりしたお子さんですね」「将来有望だわ」「兵伍ってなんか、俺らと全然違うこと考えてんよな」「美鶴なら任せられるな」。実際同年代の少年と比べると、冷静で視野の広い考え方ができると自負している。だがそれはあくまで『同年代の少年と比べると』であって、大人そのものではない。大人のように物を知らないし大人のように自由に動けない。圧倒的に経験値が足りず、財力も人脈も影響力もなく、人の面倒どころか自分の面倒すら見れやしない。
衝動的に手を引いて連れてきてしまったが、これから伊織をどうしたものか、シャワーを浴びながら兵伍は悶々と考え続けていた。
伊織を家に帰すのが一番無難な選択肢だが、果たしてそれで丸く収まるのか。しかもよくよく考えてみると、ほかの大人に相談して解決するかどうかは怪しい。伊織がぶたれて痣ができていたり怪我をしているというならわかりやすいが、ただ「汚いから人に触るな」と言われているだけでは、証明し辛いだろう。おそらくそれなりの名家である伊織の家族が否定すれば、それ以上立ち入れず、かえって事態が悪化するかもしれない。それに伊織が家族から離れたとして、どこに行くのだ? 兵伍の家? 絶対無理だ。施設とか、公的な場所? 児童養護施設? それで幸せになれるのか? 伊織の人生に責任が取れるのか? ただの十一歳の子どもが。
「……あああぁあ! くっそ……!」
思わず壁を蹴りつけ、裸足の足を痛めて悶絶する。自棄になったようにシャンプーで頭をがしゃがしゃ洗い、兵伍は湯気で曇った鏡を睨みつけた。
気が進まないが父親に相談するべきかもしれない。伊織は健伍の好みのタイプではないが、だからと言って無碍にするようなことはないだろう。多分きっとおそらく。どうしようもない駄目人間であっても、一応社会に出て働いている大人として、建設的な意見を出してくれるはずだ。そう願いたい。
――ちくしょ、なんで俺が女のことなんかで悩まなきゃなんねーんたよ。
年中色ボケしている父親ではあるまいし、女などとは生涯深く関わらずに生きていくのだと思っていた。トラブルに巻き込まれないようなるべく近づかないできたのに、こんな展開が待ち受けているとは。
浴槽には入らずシャワーだけで入浴を済ませ、兵伍は浴室を出た。体を拭くのもそこそこにパジャマを着て、布団が敷かれている部屋の障子を開く。ぱっと見では伊織の姿が目に入らず少し焦ったが、近づいてみると、膨らんだ布団の端から細い三つ編みの先端が覗いているのが見え、ほっと胸を撫で下ろした。
「なんで布団被ってんだよ……」
暑苦しいだろうに、と思いながら上の方を捲ると、案の定下から苦悶の表情を浮かべた伊織が現れた。頬についた白い跡と、睫毛の先で揺れる水滴に、泣いたのだと知る。
兵伍は伊織の布団を胸元の辺りに戻し、額の汗を拭ってやってから、自分の布団に潜り込んだ。
眠る時さえ、ああして泣くのか。絶望に埋もれて浮かび上がれないのか。脳裏に浮かぶのは暗い顔ばかりで、そういえば一度も笑ったところを見たことがないと、兵伍は気づいた。
尖った痛みがつきつきと胸を穿つ。可哀想だ。また、強くそう思った。
兵伍は簡単に人に同情できるほど恵まれた暮らしをしていないし、おめでたいお人好しでもない。だが、人生に絶望したことはなかった。未来を信じているし希望を抱いている。伊織にはそれが見えない。覇気がなく気力も感じられない。縋るものを与えられず、暗闇で立ち尽くしているのだ。
――あぁ、余計なことなんか考えねーで全力で助けてやれたらいいのに。
本当はそうするべきだ。そうするのが正しいのだ。父親のように、計算や警戒がない無私の心で人を救おうとする善意が。下心があったとしても、基本的に兵伍の父親は善良だ。惚れた相手のためならなんでもするし、するなと言われればなにもしない。助けてあげた見返りに何かを要求するなどという下種なことはせず、それどころか損をさせられてもにこにこしている。
しかし、兵伍はどうしても現実的なことを考えてしまう。何かあった時の責任とか、伊織を助けるためにかかる費用とか、時間、気力、リスク、部外者がどこまで口を突っ込めるのか、そもそも突っ込んでいいのか。
気を回し過ぎて、頭を回転させ過ぎて、疑心なく行動できない。そんな自分に嫌気がさすが、そうならなければ生き抜いては来れなかったのだ。
天井に広がる暗闇を冴えた目で眺めながら、なんでだろう、と思う。
なんで俺はこういう人生なんだろう。
無理やり閉じた瞼は、重い疲労感を纏わせていた。