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手を繋いで二人  作者: 夜光始世
菊子
21/21

2


 垣原の蛮行を男子生徒と野間が目撃したあの日、野間から呼ばれて女性の保険医が駆け付けたときには、もう伊織は社会科準備室からいなくなっていた。職員室に残っていた教師の間で話し合い、空坊家に電話で報告すると、電話口の向こうの菊子は絶句していたが、気丈にもパニックを起こすこともなく、「わかりました。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」と言って電話を切った。

 それから三日、一度もまともに話し合いができていない。電話しても、家を訪ねても、「大変申し訳ありませんが体調を崩しておりますのでまた後日」と断られてしまう。ただ、その度に「娘の件ですが、どうか事件のようなことにはしないでくださいませ」と念を押されていた。当然のように警察に届けるものだと思っていた高遠は驚いたが、校長は「せっかく空坊さんがそう言ってくださるのだから」と保身に走り、教頭は「今の時期に警察の事情聴取やら生徒からの聞き取りやら教育委員会からの呼び出しやらに対応するのは正直キツいです」と複雑な顔で言い、中年の女性教師は「空坊さんに非がなくても口さがない人たちの噂で居た堪れなくなりそうだものね、わかるわ」と理解を示した。

 直接現場を見たためか垣原への嫌悪が激しい野間と若い女性教師は「ほかに被害者がいたらどうするんですか!」と抗議したが、「まぁまぁまずは空坊さんのご意向通りに」と押し切られ、その『空坊さんのご意向』を今日こそは詳しく聞き出さねばということで高遠が派遣されたのである。

 昨日謝りに訪れた教頭が追い返されたばかりだったから、今日も無理かと半ば諦めていたが、幸か不幸かこうして玄関まで通されてしまった。 脱いだ靴を慎重に揃え、高遠はおそるおそる女中を窺い見る。女中はまた軽く頭を下げ、導くように廊下に進んだ。高遠がそれについていくと、障子の前で足を止め、「奥様、お通しします」と声をかけてから障子を開ける。

 広めの和室の真ん中に座卓が置かれ、そこに向かって三十代ぐらいの女性が座っている。やはり着物を着ていて、艶やかな黒髪はシニョンのような形にまとめられている。女性は高遠に向き直り、お手本のような優雅な動きで頭を下げた。

「わざわざ足を運んでいただきありがとうございます。先生方には大変なご心労をおかけしまして、面目次第もありません」

「あっ、いえそんな、こちらこそ本当に、うちの学校の教師がとんだことをしでかしまして、お詫びのしようもなく――」

 高遠も慌てて頭を下げ、できる限りの低姿勢を取ろうとする。

「どうぞお座りになってください」

「は、では失礼します」

 開いている座布団に座った後で、そこが床の間近くの上座であることに気づいた。謝りにきてこの位置は若干気が引けるが、ここで「上座はちょっと」と押し問答を始めるのも不毛なので、気づかなかったことにした。

 きっちりと着物を着こなし整った印象を与える菊子だったが、間近で見ると、目元と眉間に薄っすらしわのあとがあることがわかる。化粧と持ち前の気品をもってしても、憔悴は隠しきれていなかった。 

昨日(さくじつ)は、せっかく教頭先生にお越しいただいたのにおもてなしできず、申し訳ありませんでした。ここ数日体調を崩しておりまして」

「いや、いえいえ、そんな、お気になさらないでください、その、あんなことがあればショックを受けるのは当然ですから」

 高遠は、手を振って否定しながら、予想していたのとは違う菊子の態度を意外に思った。

 空坊伊織の担任ではなかった高遠は、菊子とは一度しか面識がなかったが、その時の印象は強烈なものだった。浮かべる笑みは親しみよりも緊張感を生み出し、こちらに落ち度がなくとも反射的に謝りたくなってしまう。

 ぴんと背筋を伸ばし美しい所作で振舞う菊子は、よく言えば凛として威厳があり、悪く言えば隙がなく堅苦しかった。菊子と相対していると、常に試されているような居心地の悪さと焦りを感じた。自分とそう歳は変わらないはずなのに、これが血筋の違いってやつか、と高遠は柄にもなく思ったものだった。

 なので、己にも人にも厳しそうなこの女性が娘にされたことを知ったら、いったいどれほど激昂することだろう、と恐々としていたのだ。

 きっと、「大事な娘を傷ものにするなんて、どう責任を取られるおつもりですか」と(なじ)られるに違いない。それどころか、頬を一発はられるぐらいのことになってもおかしくない。高遠が直接の加害者ではないとはいえ、学校関係者として甘んじて怒りを受け止めねばならない、という覚悟はあった。

 だが、思ったより責められていない。むしろ菊子の方がかしこまっている。

 内心首を傾げながら、高遠は一番尋ねたいことを切り出した。

「あの、伊織さん、今どんなご様子でしょうか。もし、少しでも話せるようでしたら、これからどうしたいか、問題にどう対処して欲しいか、という要望を聞ければと思っておりまして」

 途端、菊子の顔が強張った。

「あの子は臥せっておりますので話はできません」

 ぴしりと言われ、高遠は情けなく眉尻を下げる。

「そうですか……いや、わかります。無理もないです。無神経なことを言ってしまってすみません」

 クラスメイトともろくに触れ合えないような繊細な少女が、教師に乱暴されて刃物を突き付けられるなど、凄まじく苦痛だったに違いない。まだ発覚から三日しか経っていないのだ。心の傷は癒えていないだろう。

 だが、だからといってこのまま引き下がるわけにもいかなかった。現状、高遠たちにはあまりにも判断材料が足りない。生徒に聞き込みするのも限度がある。垣原の悪質さがどの程度のものなのか、伊織のほかにも被害者はいるのか、最低限そのぐらいは知らないと動こうにも動けない。おおっぴらに調べ回れるなら楽なのだが、生憎校長は「なるべく穏便に」と繰り返すばかりで、垣原に対しても自主的な自宅待機を命じて『突然の病気』ということにしてしまった。できることなら隠蔽したい、という意志をひしひしと感じる。

 高遠は慎重に言葉を選びながら、菊子に話しかけた。

「わが校の教員が伊織さんを苦しめてしまったこと、本当に申し訳なく思っています。問題の教師にはしかるべき処分をくだし、河原誼第一中学校の教師一同、全力で再発防止に取り組む所存です。しかしそれにあたって、やはり我々のみでは情報が不足しておりまして、心苦しいのですが伊織さん当人のお話を聞かないわけにはいかないんです。もちろん無理に伊織さんとお話したいとは申しません。ただ、せめてお母様が今ご存じのことを教えていただけませんか? いつから垣原が伊織さんに加害行為をしていたのか、具体的にどんなことをされたのか、どの教室を使っていたのかなど、少しでも何か聞いていたら参考になるのですが」

「そのようなこと、存じ上げません。知りたくもないです、(おぞ)ましい」

「え……?」

 ――知りたく、ない? 

 高遠は、違和感を覚えた。顔を歪めて吐き捨てるように言う菊子は、本当に嫌そうだった。もちろん、嫌な話題であることは確かだ。娘が傷つけられたときの話などしたくないだろう、傷つけた側の組織の人間が根掘り葉掘り聞いてくるのは不快だろう。だが、知りたくない、というのはどういう感情なのだ? 子どもが被害を受けたら、何をどこまでされたのか把握したいと思うのが親なのではないか?

 思えば最初から少し不思議ではあった。菊子から感じるものは、心労からくる疲れ、名家の当主としての矜持、そして今のこれ、嫌悪感。一番前面に出てきそうな悲しみや怒りがない。

 菊子の真意がわからず困惑していると、近くに人の気配がし、す、と横から湯のみ茶碗が差し出された。さきほどの女中が茶を入れてくれたようだ。煎茶の萌黄色が茶器の白磁に映え、爽やかだ。高遠は横を向き、礼を言った。

「すみません、ありがとうございます」

 女中は、菊子の前にも茶を置くと無言で頭を下げ、しずしずと退室していった。

「どうぞ、お飲みになってください」

 菊子はそう言って、まず自分が口をつけた。

「は、では失礼して、いただきます」

 高遠は茶碗を引き寄せ、ごくごくと飲む。薫り高く渋みが少ない。おそらく高級な茶葉なのだろう。ちょうど喉が渇いていたので、一層喉に快かった。

「美味しいです。やっぱりこういう、格式のある家の方だといいお店をご存じなんでしょうね」

「お気に召したならお帰りの際に差し上げます」

「えっ、いや、いいですよ、すみません、そんなつもりは。私どもは、仕事柄どなたからも何か受け取ったりしてはいけないことになっておりますので、気を遣っていただかなくて大丈夫ですよ。もしよろしければ、お店の名前なんかは教えていただけると嬉しいですが、はは」

 催促したように取られたか、と気恥ずかしくなり高遠が頭を掻くと、菊子は「まぁ、真面目なんですのね」とゆったり微笑んだ。

 少し雰囲気が和らいだかと見て、高遠はもう一つの質問をしてみる。

「ところで空坊さん、校長から、空坊さんは今回のことを事件にしないで欲しいと仰っていると聞いたんですが、間違いありませんか」

「えぇ」

「あ、そうなんですね。それは、どういったお気持ちからのお言葉なんでしょうか」

「そのままの意味です」

「えぇと、つまり、警察には届けないで欲しいということですか?」

「はい」

 あまりにもあっさりした間違えようのない返答に、高遠は僅かに眉根を寄せた。ひょっとすると何か誤解があって、行き違いが生じたのかもしれない、と思っていたのだ。

「しかしそうしますと、垣原に処分をくだすことが難しくなりますし、問題のある教師を野放しにしてしまうということになりますが」

 管理職である高遠としては、事を荒立てたくないという校長の気持ちもわかる。だが、それと同時に教師としての倫理観が、このまま何もなかったことにしていいのかと罪悪感を刺激してくるのだ。伊織が泣き寝入りすることになるのは理不尽が過ぎるし、野間や若い女性教師が言うように、ほかに被害者がいる可能性だってある。警察を入れて徹底的に調べてもらうのが正道だろう。

 上役である校長と被害者の親である菊子の意向を汲むべきか、教師としての信念を貫くべきか。迷う高遠を引き込むように、菊子は(まなじり)に力を込め、厳然とみつめた。

「高遠さん。なるべく話を広げないよう内々で処理していただきたい、というのがわたくしどもの希望です」

「内々……」

「そうです。わたくしどもを少しでも気の毒とお思いになるのでしたら、どうぞあまり大事になさらないでくださいませ。空坊家の娘が、嫁入り前にふしだらなことをしたと知られるわけにはまいりません」

「そ……そんな、空坊さん、ふしだらなんて誰も思いませんよ、娘さんは被害者なんですから。もちろんこちらとしても必要以上に騒ぎ立てるつもりはありませんが、本当にそれでよろしいんですか? 公にしなければ、垣原を辞めさせることができませんよ。伊織さんが学校に登校したら、また顔を合わせることになってしまうかも」

「かまいません。関係者の皆さまに、このことを絶対に誰にも口外しないでいただけるなら、それで結構です」

 きっぱりと言い切った菊子に、高遠はそれ以上食い下がることができず、呆然と頷いた。

「そうですか……」

「先生方にはいろいろご配慮いただき、ありがたく思っております。こちらでできることがあればいたします。娘は使えませんが」

「はぁ、その、いや、こちらこそ、ご迷惑をおかけしたのに、本当に、その」

 何と言っていいかわからず、むにゃむにゃと濁してしまう。

 これが、大事な一人娘を犯された親の反応なのだろうか。高遠はカルチャーショックを受けたような気分だった。ここまで大きく歴史ある家の当主となると体面が気になるのはわかるが、それにしても菊子は冷静過ぎる。悲しみや動揺を押し隠して気丈に振る舞う、というのとは何か違うような、妙に突き放した態度だ。しかも突き放す相手は、高遠ではなく、娘なのである。

「ほかになにかご質問は」

 問いかけてくる菊子に、高遠ははっと居住まいを正した。

「あっ、そうですね、特には……いえ、一つだけ。伊織さん、今は難しいと思いますが、今後登校するつもりはあるでしょうか? もし辛くてどうしようもないということでしたら、転校という手もあります。ただ、せっかく中学三年の夏まで本校に通ったわけですから、このまま卒業するのが一番負担が少ないかな、と」

「卒業させていただけるのでしたら、このまま通わせます。登校は折を見て」

「わかりました。そういうことでしたら、わたくしどもも全力でサポートいたしますので」

「ありがとうございます。高遠さんのような誠実な方がいらっしゃって助かりました。ではくれぐれも、娘の件は外部に漏らさぬよう、お願いいたします」

「はい……」

 最後までそれか、と内心引きながらも、高遠は愛想よく笑ってみせた。思っていた展開とはだいぶ違う結果となったが、とにかくこれで、少なくとも校長に責められることはなくなった。

 用が済んだ高遠は、丁寧に暇を告げ、菊子と女中に見送られながら空坊邸を後にした。どうにも腑に落ちないような気持ちがずっと続いているが、しかし菊子と言い争ったり垣原のことを独自に通報するほどの気概もない。

 俯きがちで無口で、いつも人を避けるように生活していた儚げな少女の姿を脳裏に浮かべる。あの母親のもとで、彼女は立ち直れるのだろうか。あまり明るい未来が想像できず、高遠は天を仰いだ。空坊邸を訪問する前とは違う種類の憂鬱さが、じわりと胸の裡に広がった。



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