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手を繋いで二人  作者: 夜光始世
菊子
20/21

1


 ――気が重い。

 太陽はこんなにも陽気に輝きを撒き散らしているというのに、好晴を虚しく感じるほど、高遠(たかとお)大志(たいし)の胸中は不安と憂鬱で占められていた。

 これから立ち向かわねばならない相手を見定めるため、首を伸ばし目の前の建物を見上げる。しかし全容は視界に収まりきらない。ひょっとすると文化財に指定されていてもおかしくないようなその家は、平屋建てであるにも関わらず、周囲の住宅とは一線を画す巨大さと物々しさで威厳を持って(そび)え立っていた。

「でかい、な……」

 高遠は鞄からタオルハンカチを引っ張り出し、とめどなく滴る汗を拭った。この季節、汗をかかないのは不可能だが、少しでも見苦しくない姿になっておかねばならない。

 見るからに年代物の木の表札に墨で記された名は『空坊』。

 空坊家と言えば、ここら一帯で知らぬ者はいない名士である。かつては藩の筆頭家老として辣腕を振るっていた先祖を持つ、由緒正しき武士の家系らしい。らしい、というのは、高遠がこの地出身ではないため伝聞で得た情報だからだ。

 しかし仔細は知らずとも、空坊家の厳めしく巨大な屋敷、寺社仏閣でしか見たことがないような立派な門構え、ぐるりと敷地を囲う手入れの行き届いた生垣などは、平凡な中学教諭である高遠を十分に萎縮させた。

 よし、と自分の両頬を(はた)き、気合を入れてから門を通り抜ける。玄関の前に立ち、唯一近代的な呼び鈴を鳴らすと、「はい、どちら様でしょうか」と女性の声で応答があった。

「あの、わたくし、市立河原誼第一中学校の、三年生の学年主任をやっております、高遠と申します。お嬢さん、伊織さんの件についてお話させていただきたくて伺ったのですが、今お時間よろしいでしょうか?」

「少々お待ちくださいませ」

 感情を乗せない平坦な声はそう言うとしばし無言になり、二、三分後に戻ってきた。

「奥様はお会いするとのことです。どうぞお入りになってください」

 ――し、使用人だったのか。

 女性の声で、てっきり伊織の母親かと思っていた高遠は、予想外の正体に目を白黒させた。なるほど、確かにこんな広い屋敷、人を雇わないと手入れしきらないだろうけど、と納得しながらも、庶民には馴染みのない存在に早速腰が引ける。

 内側から戸が開き、着物に割烹着を着た年配の女性が現れた。深々とお辞儀をするが、あまり愛想はない。

「わざわざご足労いただきありがとうございます」

「あ、どうも、高遠です。伊織さんは今どんな状態かお聞きしても……?」

「申し訳ありませんが、わたくしの立場で申し上げられることではございません。どうぞ履物をお脱ぎになってください、ご案内いたします」

「はぁ……」

 促され、高遠は上がり框に腰掛けた。どうにもやりづらい。拒絶されているように感じるのは、使用人特有の一歩引いた態度に高遠が慣れていないせいなのだろうか。いや、そもそもこの家を訪れた理由が理由だ。使用人の女性が、お嬢様を傷つけた学校関係者へ反感を抱いていてもおかしくない。完全にアウェーな場に来てしまったことを実感し、胃が痛くなってくる。

 玄関もやはり広々としており、高遠のアパートの優に二倍はありそうな面積だった。天井は高く、梁から下げられた提灯型の灯りが木の壁や床に映えて、温かみのある空間を演出している。だが家の中に入った途端すっと下がった温度は、適切に冷房が稼働していることを示していた。

 なんでここんち私立に通わせなかったんだろう、と改めて高遠は思った。それは、空坊伊織を担当したことのある教師が皆抱いていた疑問だった。

 片親はお受験に不利という話もあるが、父親とは死別らしいし、母親は働きに出る必要がないほど裕福だし、なにより空坊家という格式があればその辺はなんとかなるだろうに、と不思議に思う。

 金持ちの中には、子どもを逞しく育てたいとあえて市立に通わせる親もいるそうだが、空坊家に限ってそれはありえなかった。なにしろ、空坊伊織が入学するにあたって、母親である空坊菊子は「娘は人との接触に過敏なところがあり、ほかのお子さんにご迷惑をかけるとよくないので、人に近づいたり触ったりする必要のある取り組みは一切免除していただけると助かります」と言ってきたのだ。

 いや、学校というのはそういう触れ合いに慣れていく場所でもありますから、と説得しようとした教師は、静かに微笑まれて言葉を失った。落ち着いた物腰の小柄な女性であるのに、菊子は妙に逆らい難い圧を放っていた。

「どの程度の触れ合いが適切かというのは、人によって差があると思っております。極めて繊細で個人的な問題ですので、これ以上は申し上げられませんが、娘が他者と接触すると望ましくない結果を引き起こす恐れがあります。周囲のお子さんに嫌な思いをさせてしまうことは、こちらの本意ではありません。先生方にご理解いただければ心強いのですが」

 丁寧に頼むような(てい)をとっているが、その実、自分の主張が受け入れられないとは微塵も考えていないのがありありと伝わってくる話し方だった。

 公立の学校にそんな細かい対応求めるな、と言いたい担任教師を余所に、「空坊のお嬢さんがうちにいらっしゃるとはなんたる光栄」と大喜びした校長は、くれぐれも失礼のないように、と指示を出し、菊子の要求を丸呑みした。

 実際、空坊伊織は、無理に他人との触れ合いなどさせたら引きこもってしまうのではないか、と思わせるほど繊細そうな少女だった。ほかの子どもと遊ぶどころか喋ることさえあまりなく、うっかり人にぶつかろうものなら大仰なほど飛びのいて謝るので、どうしてそんなに人に触れたくないのかと尋ねると「……汚れてるから」と涙目で答える。深窓のご令嬢も行き過ぎると重度の潔癖症になるのか、と職員室で同情とともに噂された。

 幸い、面倒な配慮をしなければならないほかは空坊伊織は手のかからない生徒で、礼儀正しく成績も良く、うっかり存在を忘れることもあるほどおとなしかった。不登校になってしまった生徒や、万引き騒動を起こした生徒の方がよっぽど対処が大変だった。

 それがまさか、いや、そのような地味な女生徒だからかえって目をつけられたのか、不届きな教師の餌食となろうとは。

 教師として一番最初に事態を知った野間の、この世の終わりのような沈痛な面持ちを思い出し、高遠は項垂れた。きっと自分も今、同じような顔をしていることだろう。生徒に手を出すなどという愚行、相手が誰であろうとあるまじきことだが、よりにもよって空坊かと垣原を殴り飛ばしたくなる。知らせを聞いた校長は寝込んだ。おかげで、こうして学年主任である高遠が駆り出されているのである。


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