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手を繋いで二人  作者: 夜光始世
今日子
19/21

8


 頼まれたことを全て終え、やることがなくなった伊織は、畳の部屋の隅に行って気配を消してしまった。

 宿題に取り掛かろうとしていた兵伍は、そんな伊織に気づき、そういえばこいつ何が趣味なんだろう、と思う。

「なぁ、テレビ見たきゃ見ていいからな。ゲームもあるし、俺のスマホ貸してもいいし」

「はい、お気遣いありがとうございます」

 伊織は軽く頭を下げるものの、動く素振りは見せない。兵伍はいったん教科書を閉じ、伊織の前に歩いて行った。

「お前いつも何やってんの? 家で。本読んだり? うちあんま本は置いてねーんだよなぁ。ネット小説でいいならスマホで読めるけど」

「本は読みますが、それより勉強をしています」

「勉強好きなん?」

「そうですね。必要なことですし、あまり余計なことを考えなくてすむので……」

「あー。じゃあ、テレビとかゲームが嫌いってわけじゃないんだよな?」

「おそらく。よく知らないのでなんとも言えませんが、色彩が綺麗で素敵だと思います。授業でテレビ放映された映像を見せていただくことはありました」

 ずれた所感を述べる伊織は、どうやら世俗的な娯楽に触れてこなかったらしい。あの古めかしい家で育ち、かつ冷遇されていたとなると、イメージ通りではある。

 兵伍は伊織にテレビのリモコンを渡し、適当に数字を押して気に入った番組があれば見ればいい、と言った。

 不思議そうに山ほどボタンがついたリモコンを眺めていた伊織だったが、次第にザッピングに慣れ、やがてどこかの動物園の特集をしている番組を熱心に見だした。

 横目で見守っていた兵伍は、安心して宿題を再開する。今日子は健伍の帰宅に備えて洗面所で化粧直しをしているようで、今のところちょっかいをだされる心配はない。三者三様の時間を過ごし、二時間ほどたったところで、汗だくの健伍が帰ってきた。

「たっだいまー! 今日子ちゃんが待っててくれてると思うと、早く帰りたくってさぁ。ちょっぱやで仕事終わらしてきたわ!」

「え~嬉しい! 私も健伍さんに早く会いたいなって思ってたの。お仕事お疲れ様」

 今日子は甲斐甲斐しく健伍に水が入ったグラスを持っていき、代わりに鞄を受け取る。ぐっと一気に水を飲みほした健伍は、「ぷはー、生き返ったぁ!」と言うや否や今日子を抱き寄せ、シミ一つない滑らかな白い頬に唇を押し付けた。今日子は申し訳程度に恥じらう素振りをする。

「もう、健伍さんったら、ひょーごくん見てるよぉ」

「いいじゃん、欧米ではこんくらい挨拶だって」

「ここは欧米じゃねーけどな」

 律儀に突っこみはするものの、兵伍は既に父親を諫めることを諦めていた。物心ついたころから、子どもの前だろうとお構いなしに彼女といちゃつく父親を見てきたのだ。今さら何を言っても変わらないであろうことはわかっている。

 ネクタイを緩め、首をごきりと鳴らしながら、健伍は期待するように今日子を見た。

「あー、腹減っちゃった。ご飯もうできてたりする?」

「もちろん、もう作ってあるよ。健伍さん、最近お疲れでしょ? 元気出して欲しいから、夏野菜カレーにしてみました!」

「おっ、いいね! さすが今日子ちゃん、なんも言ってないのに俺の体調わかってくれるんだ」

「えへへ、だって健伍さんのことずっと見てるから。健伍さんも私のこと見ててくれてるでしょ?」

 いじらしく微笑む今日子に、健伍はでれでれとしまりなく顔を蕩けさせ、「もちろんだって! 今日子ちゃん以外目に入らないよ!」と叫んだ。

 少し離れた位置でそのやりとりを聞いていた伊織は、あれ?とひっかかりを覚える。初心者である伊織のために簡単な料理を選んでくれたはずなのだが、いつのまにか健伍のためということになっている。今日子の、恋人を喜ばせる鮮やかな手並みに、伊織は驚嘆した。誰かを傷つけるような嘘ではないので不快感もないし、人付き合いの上手な人ってこうするんだなぁ、とまじまじと見てしまう。

 今日子はハンカチで健吾の汗を拭いてやりつつ、伊織に優しい笑みを向けた。

「今回は伊織ちゃんにも手伝ってもらったの。料理できるようになりたいんだって。可愛いよね」

「へー、健気じゃん! 今日子ちゃんを師匠にできるなんて贅沢だなぁ。いろいろ教えてもらえばいいよ、な、伊織ちゃん」

 健伍も振り返って伊織に笑いかける。伊織は、「お前の作ったものなんかいらない」と言われなかったことにほっとし、感謝の意を込めてぺこりと頭を下げた。

「え、なに……? ごめんなさいされた?」

 困惑する健伍に、兵伍は「伊織は礼儀正しいんだよ」とフォローしながらテーブルに並べていた勉強道具を片付ける。念のため布巾でさっと全体を拭い、皿を置く準備をした。

「わぁ、ひょーごくんありがとぉ」

 今日子の営業スマイルを無視し、伊織を手招く。伊織は、わたわたとリモコンのボタンを何度か押したあと、ようやく電源ボタンをみつけてテレビを消し、居間に来て兵伍の隣に座った。

 それぞれの席の前に、今日子がほかほかと湯気の立つカレーを置いていく。手を洗ってきた健伍が最後に席に着いたところで、いただきますの声があがり、皆で食べ始めた。

「うまっ! いやー、さすが今日子ちゃん、盛り付けも完璧。料理教室開けるんじゃない?」

「やだ、健伍さん、おおげさ。うふふ、沢山あるからいっぱい食べてね」

「うん、おかわりしちゃう!」

 満面の笑みで、健伍はカレーを口に運ぶ。

「伊織ちゃんも一緒にやったんだよな? 野菜切ったの? 頑張ったね。料理、最初は難しいかもだけど、やってくうちに段々慣れてくよ。今日子ちゃんほどじゃないけど一応俺も料理できるから、もし知りたいことあったらどんどん聞いて」

 伊織に朗らかに話しかけ、あ、とついでのように尋ねる。

「そういえば、伊織ちゃんてどこの子なん? 家の人心配してない?」

「……あの、いえ、」

 伊織は、硬い表情で言った。

「心配は、されていないと思います」

「ん?」

 怪訝そうな健伍に、兵伍が説明する。

「朝も言ったけど、こいつ家出中でさ。親に虐待されてんの。だから、どうすればいいか考えてるとこ」

「えっ虐待!? ヤバいじゃん。こんなほそっこい女の子に、酷いことするなー」

「叩いたりとかじゃないんだけど、『お前は(けが)れてる』ってずっと言われてきたらしくて、そのせいで人に触れないし触られるとすげー動揺する。あとまぁいろいろキツいことがあって、俺が会った時道路に飛び込む寸前だった」

「うわー……そっか、苦労してんだなぁ、伊織ちゃん」

 しみじみと言い、健伍は伊織に同情の目を向けた。

「俺、知り合いに福祉関係の仕事してる奴いるから聞いてみよっか? 伊織ちゃん的にはなんか希望あるの? 親から離れたいとか、第三者に間に入ってもらって話し合いたいとか」

 選択肢を提示する健伍に兵伍は珍しく頼もしさを感じ、やっぱり大人だよな、と嬉しいような悔しいような気持ちになったが、伊織はますます表情を暗くし、俯いてしまった。

「……き、希望は、ないです」

「ない?」

「私などが何かを望むなど、おこがましいことですので……。強いて言うなら、これ以上母に恥をかかせずにすめばと、思っております。迷惑をかけぬよう名を変えて、倹しく生きていければ……」

 一言ごとに沈み込んでいくような伊織の言葉に、健伍はなんとも言えない顔になり、伊織の隣で黙々とカレーを食べ進めている息子に尋ねた。

「兵伍、どこのお嬢さん拾ってきたの?」

「すげーでかいお屋敷。名家なんだって。そのわりに馬鹿みてーな理由で娘いじめてっけど」

「そ、そうなんだ……てゆーかほんとにお嬢なんかい」

 冗談だったのに、と健伍は呟く。

「なんか大変そうだな。いや、まぁ虐待なんて大変に決まってんだけど、まずは伊織ちゃんがもうちょっと前向きに考えられるようにしないとだね」

「それはマジでそう」

 兵伍は口の中のものを飲み込み、深く頷いた。

「こいつ基本自分が悪いって思ってるから、親から酷いことされてる自覚がねーんだよ。そういうふうに思い込ませてんのは親なんだけど。ほかの人間に絶対触るな、触ったらお前の(けが)れが移るから、って言う親、どう考えても最悪だろ」

「う~ん、まぁまぁ……そうだなぁ。なんかしきたり的なものがあったとか?」

「いや、私怨。浮気相手の子だって」

「おっ、一気にわかりやすい話になったな!?」

「俺も思った。ガチガチお堅い雰囲気出してるわりにそれかよ!って」

 当人を余所に続けられる会話を聴きながら、伊織は、身の置き所がなさそうに肩を竦めた。伊織にとっては厳めしく規律正しい母は正しさの象徴で、いまだに個人的な恨みで自分に辛く当たっていたとは思えなかったのだが、親子の会話に割り込むのは気が引けたし、自分を擁護しようとしてくれているのをわざわざ否定するのも申し訳ない気がして、口をもご、と動かしただけで何も言い出すことはできなかった。

「でもさー、学校通ってたら、ほかの子に触れる機会なんていくらでもあるじゃん、体操ん時とかどうしてたの?」

 健伍の素朴な疑問に、そういえば、と兵伍も気になった。まさか教師に「うちの娘は汚れているのでほかのお子さんに触れさせないように」とは言うまい。そこまで直球の発言をして、虐待を疑われないわけがない。

 どうなのか、と目線をやると、伊織はあっさり答えた。

「あの、母が事情を説明していたようで、先生方もご配慮くださいました」

 そのまさかだった。なにやってんだ教師、と目を剥いた健伍と兵伍をよそに、今日子が「うーん?」と首を捻る。

「そんなことするかなぁ? あ、もしかして、伊織ちゃんが潔癖症だって言ったんじゃないの? 伊織ちゃんの方が触られるのを嫌がってるって」

「あぁ、そっか。その方がありそうだな。さすが今日子ちゃん、頭いいね!」

「やだぁ、当たってるかはわからないよぉ?」

 褒めちぎる健伍に、今日子ははにかみながら謙遜する。なるべくその光景が目に入らないよう顔を逸らしながら、兵伍はなるほどと思った。癪だが、今日子の説が正しいのだろう。触れると嫌がって怯える伊織は、人に自分の汚れを移してしまう事を恐れているのだが、そんな発想に至る者は少ない。普通は人から汚れを移されるのを恐れていると思われるはずだ。

 今日子の推理を受け、伊織は目を見開いた。

「私が、潔癖症……」

「ってことになってたかもな。お前ん家がお前のこと(けが)れ扱いしてんのって、ほかに知ってる人いたの?」

 兵伍が問うと、伊織は小さく首を振った。

「私が汚れた血を引いているというのは家の恥ですので、隠すように言われていました」

「あ~、そういう理屈か」

 確かに、娘が実は浮気相手の子だというのは、あまり周囲に知られたくない醜聞である。虐待を咎められないようにするための工作というよりは、とにかく伊織を孤立させ不都合な情報を隠し通そうとしていたのだろう。

 うぅむ、と健伍が腕を組んで唸る。

「汚れた血かぁ。わっかんねーなぁ。まぁさぁ、親の言うことが全部正しいなんてありえんからね、伊織ちゃん。みんな人間なんだよ。間違いもするし、勘違いもするし、感情に振り回されることもある。親御さんのこと、今は立派で大きな存在に見えるかもしれないけど、自分を卑下しすぎないでたまには逆らってみな」

 慰めるように言うと、兵伍も追随する。

「そうだぞ。親父見ればわかるだろ、こんなてきとーな奴でも親になれんだぞ」

「おい兵伍、それはないだろぉ」

 思わぬダメージを食らった健伍は情けない声を出し、今日子がくすくすと笑った。

 憎まれ口を叩いても、今日子に接する時と違い、健伍への兵伍の言葉は親しみと信頼が籠っていた。それは許されていることが前提の戯れだ。

 温かくて優しい関係。強く美しい絆。――家族。

 伊織はぼんやりと二人を眺め、いいなぁ、と思った。

 ――私もこの中に混ざれたら、どんなに……。

 そこまで考えて、急に怖くなり、慌てて気を逸らす。 

 何を願おうと、伊織の親は一人しかいない。例え本当には血が繋がっていなくとも、拒絶されていようとも、二メートル離れたところから冷たく見据えるあの母こそが、伊織の唯一のよすがだ。

 だが母に従わねばと思う気持ちが、思慕なのか、恐怖なのか、今となってはもうわからなくなっていた。



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