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伊織が洗濯した衣類をハンガーにつるしていると、ばたん!と勢いよく玄関のドアが開き、息せき切った兵伍が飛び込んできた。
もうそんな時間か、と時計を見ると四時二十分を指している。昨日より少し早いような気がした。急いで帰ってきたのだろう。伊織は持っていた洗濯物をいったん籠に戻し、兵伍に向き直った。
「兵伍くん、おかえりなさい」
「ただいまっ! 大丈夫か? なんか嫌なことされてないか?」
兵伍はもどかしげに靴をぬぎ、ランドセルを床に落とし、伊織に駆け寄る。
「はい、大丈夫です。……た、ただ、あの……」
真っ先に心配の言葉を口にした兵伍の真剣な眼差しに、後ろめたさがじわりと湧いた。伊織は兵伍がこれほど警戒し嫌っている今日子と、険悪な関係になるどころか、むしろ親しくなってしまったのだ。今日子と一緒に買い物に行ったことを知ったら、兵伍はどう思うだろう。裏切られたような気持ちになりはしないか。薄情な伊織に嫌気がさしてしまうのではないか。兵伍に嫌悪の目で見られることを想像しただけで、伊織は目の前が真っ暗になるような心地がした。
口ごもる伊織に、兵伍は切羽詰まった顔で問いただす。
「なんだよ!? やっぱなんかされた!? くそ、ミスった……」
「ち、違うんです、その……」
誤解させてはならないと慌てて否定し、伊織は兵伍から目線をずらした。体を縮こまらせ、恐る恐る言う。
「お洋服を、買っていただいてしまい――」
「は?」
不審げに眉間にしわを寄せる兵伍の前に、今日子がひらりと割り込んでくる。購入した服の一つを見せびらかすように広げ、「じゃじゃん!」と言った。
「どーよ? 伊織ちゃんの新規衣装だよぉ。えっちなのじゃなくてごめんねぇ?」
「エッ……は? どういうことだ? 本当にただ伊織の服買ったのか? なんで?」
戸惑いを見せる兵伍に、今日子は呆れたように言う。
「なんでって、小学生男子の服着てる中学生女子を見かねたからに決まってんでしょーが。着られればいいなんて野蛮人の発想やめなよね。ほら、ひょーごくん、私に感謝していいんだよ? こーいうの好きでしょ。夏の幻影系お嬢様コーデ」
「なに言ってんのかわかんねぇんだけど」
「うふふ、リアルでは滅多に見かけない天然清らか乙女みたいな服選んどいたから、思う存分青春しなね。麦わら帽子も買いたかったんだけど、残念ながら素朴な丸型はデパートには置いてなかったの。で、カンカン帽にしました。いや~JCとのお買い物デート、楽しかったなー」
満足そうにしている今日子になおさら不信感を煽られたのか、兵伍は今日子に背を向け、伊織の肩を掴んだ。
「伊織、マジでお前何もされてねぇか? 変な写真撮られたりとか変な奴に会わされたりとか」
伊織は、気まずげにゆっくりと体を引き、兵伍の手から抜け出しながら答える。
「な、ないです、そういうことは。今日子さんは、その、変わっ……いえ、複雑な性格の方ですが、私個人には、よくしていただいたと思います」
「そうなのか? 今日何があった?」
どうやら最悪の事態は起こっていないらしいと判断し、兵伍の雰囲気が少し和らぐ。
「デパートに行って、お洋服や日用品を買っていただいて、パフェをご馳走になって、タクシーで帰りました」
伊織が簡潔に伝えると、横から今日子がにまにまと笑いながら口を挟んだ。
「ね、楽しかったよね? そのあと伊織ちゃん料理覚えたいって言うから、一緒に夕ご飯作ったんだよ。伊織ちゃんの初手料理、独り占めできなくて残念だったね、ひょーごくん」
「うざい、触んな」
絡みつくように後ろから首に手を回してくる今日子を振り払い、兵伍はため息をついた。それは安堵でもあり、いまだ失せぬ先行きへの懸念でもあった。
俯いている伊織の顔を覗き込み、言い聞かせるように言う。
「今日なんもなかったなら良かったけど、お前、マジで信用だけはするなよ。こいつは今優しいからって未来も優しいわけじゃない。自分のことしか大事じゃない奴なんだ。関わるのも会話も必要最低限にした方がいい」
「酷いなぁ、ひょーごくんってば。私伊織ちゃんのこと、妹みたいで可愛いなって思ってるのに」
「お前俺のことなんて言ってたか覚えてるか?」
「『自分の子どもみたいに思ってる』」
「だよなぁ!? お前の言うことなんか信じられるわけねぇだろ!?」
兵伍の恨みのこもった怒声を浴び、今日子は、よよよ、と大げさにテーブルに倒れるふりをした。両手を目元にあてて泣きまねをする。
「ひょーごくんが冷たい……伊織ちゃん慰めて!」
「え……」
「相手にすんな、伊織。こいつがどういう奴がもう知ってんだろ? 心臓に毛が生えてるくせに、弱そうに見せんのだけは上手いんだよ」
「ひょーごくんったら情緒がない~」
ごろん、とテーブルの上で上体を転がして仰向けになり、今日子は文句を言う。
「ピュアな女の子に癒されたいおねえさんのこと、もっと思いやってよぉ」
兵伍は苦痛を堪えるような表情で額を抑え、今日子を無視した。その様子を間近で見た伊織も、辛くなり顔を歪める。伊織にとって兵伍は、救世主で、奇跡のような善人で、世界中の誰よりも好意を抱いている相手だった。兵伍にはできるだけ傷つかないでいてほしかった。世に蔓延る全ての苦痛と悪徳と災いから離れたところにいてほしい。その人生が、喜びと幸福に満ちたものであってほしい。
兵伍の安寧を守るためなら、今まで絶対にできなかったこともできる気がした。
控えめかつ従順であれと育てられてきた少女は、基本的に自らの意見を主張したり人に反抗したりすることはなかったが、兵伍の苦しそうな顔を見た途端、なんとかしなくちゃ、というかつてない衝動が胸の裡に湧き起こったのだ。
ゆっくり顔を上げ、ぎゅっと拳を握り締める。
「きょ、今日子さん」
一歩踏み出して震える声で呼びかける。今日子はむくりと上体を起こし、楽しげに笑った。
「なぁに」
伊織と今日子の会話が始まったことに気づいた兵伍が、伊織の服の裾を引いて止めようとする。
「おい、話すなって――」
「兵伍くんのこと、いじめないでください」
か細い声で発せられた言葉に、一瞬場の空気が固まった。
今日子は目を見開き、え~? と口を尖らせる。
「いじめてないよぉ。伊織ちゃんまでそういうこと言うの? ひょーごくんが一方的に私に冷たいんじゃん」
「で、でも、からかって、ますよね?」
「ツンデレ可愛い生意気少年とじゃれあってるだけだよぉ?」
あくまで飄々とした態度を崩さず、言質を取らせない。
兵伍はチッと舌打ちし、伊織の腕を掴んで引き寄せた。
「やめとけ、お前じゃ敵わねぇ。あと俺はそんな簡単にいじめられてやらんから、平気」
「兵伍くん、そんな、だって嫌なことされてるのに」
「いーよ。こーいうのは無視すんのが一番。……ありがとな」
納得いかなそうな伊織に、兵伍は礼を言って、少しだけ微笑みかける。普段不愛想な少年が初めて見せた笑顔を前に、伊織は真っ赤になった。
蚊帳の外に置かれた今日子はテーブルに腰掛けながら足をぶらりと揺らし、小さな声で呟く。
「はー、青春しちゃって」
ちゃかすようで、どこか投げやりでもあるその言葉は、羨望に似た響きを帯びていた。




