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手を繋いで二人  作者: 夜光始世
今日子
17/21

6


「伊織ちゃんご飯どうする?」

「あ……いただけるなら、ありがたいです」

「おけ。顔色良く……なった? ような気がする? 伊織ちゃん通常時が青白いから、元気になってんのかどうかよくわかんないんだよね。もう大丈夫なの?」

「はい、大丈夫だと思います。ご迷惑をおかけしました」

「そ。良かった」

 今日子は鍋の中身をおたまですくい、スープカップに入れてテーブルの上に置いた。

「ミネストローネだよ~。こっちは野菜ピラフ。食べづらいならスープだけ飲んでね」

「すみません、お気遣いいただきありがとうございます」

 伊織は両手を前に揃え、頭を下げた。湯気がたっているスープカップからは、煮込んだトマトと香草の爽やかな匂いが漂ってくる。これなら食べられそうだと、今日子の配慮に感謝する。

 体調が悪い伊織に、温かく食べやすいものを作ってくれるような優しさを持っているのに、何故人に借金を押し付けるような悪辣なこともできるのだろうか。幾度も感じた疑問がまたぶり返す。伊織には今日子の思考回路が理解できない、おそらく、考えるだけ無駄なのだが、それでも思わずにいられなかった。そんなことさえしなければ、今日子はあそこまで兵伍に憎まれずにすみ、兵伍は素敵な母親を得ることができたのに、と。

 兵伍の今日子への怒りは、期待を裏切られた反動のように見えた。きっととても信頼していた。今日子のことが好きだったのだ。それなのに今日子は、ろくでもない置き土産を残して去っていった。幼い少年の心に相当な傷が残ったであろうことは、想像に難くない。

 一方、もう一人の被害者である健伍の方は、何故かなんのわだかまりもなく今日子を溺愛している。伊織は健伍のことはよく知らないが、彼もまた理解が難しい人物のように思われた。よほど心が広いのだろうか。それとも、伊織の経験値が低いからわからないだけで、大人の恋愛というのはこういうものなのか。

 食卓につき手を合わせ、スープカップを口元に持っていく。ミネストローネの酸味に舌がきゅうっと縮む。トマトだけでなくキャベツや人参なども入っていて、コンソメをベースに野菜の旨味が感じられる絶妙な味付けだった。

 兵伍が作ってくれる食事ほどではないが、やはり今日子も料理が上手い。短時間で美味しいものを作って振舞える技量を身に着けている。今日子の本性はともかく、有能さは疑うべくもなかった。居候と言えども、伊織と違って役に立つ人間なのだ。

 私は本当に何もできなくて迷惑をかけてばかりで、とまた伊織の思考は重苦しく沈んでいく。自分ができることはたいしたことではなく、自分ができないことはそれこそがまっとうな人間の証明であるのだと思ってしまうのが、伊織の常であった。

 伊織は家で疎んじられていたわりに、無暗に仕事を言いつけられることはなかった。それは子どもに対する配慮というよりは、なるべく関わってくれるなという忌避ゆえだった。伊織が洗濯すれば服が汚れる、掃除をすれば家が汚れる、料理などとても食べられたものではない、お前は離れに籠って人目に触れないようおとなしくしていなさい。そんな育てられ方をしたものだから、人一倍気は遣うものの、相手が必要なことをやってあげるという行動に結びつかない。自分などが手を出しても嫌がられるだけだと思っているのだ。結果としておっとりしたお嬢様に見られがちだが、その心中では「何かしたい」「できない」「私は駄目な人間」の負のループが渦巻いている。

 兵伍が伊織に家事の一端を任せたのは、伊織をこの不毛な思考から抜け出させるためには賢明な判断であった。スープを飲んで人心地がついた伊織は、自分が掃除と洗濯を頼まれたことを思い出し、任された喜びでほんのり気分を高揚させながら洗濯にとりかかった。慣れぬ機械を扱うことに戸惑いはあったが、兵伍に教わった使い方を思い出しつつ、なんとか籠に入っていた洗濯ものを片付ける。

 洗濯機を回している間、部屋の掃除も進める。こちらは普段やっていることと変わりない。箒と雑巾で隅々まで綺麗にしていく。「掃除機あるよ?」と今日子に言われたが、狭い家なので手作業のみでもさして苦ではなく、畳も固く絞った雑巾で丁寧に拭いていった。

「伊織ちゃん、普通に雑巾がけとかするのね。服兵伍くんのやつにしといて良かったわ~」

 使命感に燃えて黙々と働く伊織を見ながら、今日子はおもしろげに言った。

「這いつくばってるお嬢を見下ろしてんの、意地悪な継母の気分……あは。伊織ちゃん、こっちの掃除もう終わった? ここ座ってていいよね?」

 確認を取って畳の部屋に座布団を並べ、ごろりと寝転がりスマホを弄りだす。発売されたばかりの人気メーカーの最新機種だ。真顔で画面をみつめ、目にも止まらぬ速さで指を動かし急速に文字を打ち込んでいく様はどこか機械めいており、何の気なしに目を向けた伊織をぎょっとさせた。

「うわ、あいつまだライン送ってきてる……うぜ~」

 健伍の前では絶対に出さない口調でぼやき、はぁとため息をつく。

「私さぁ、ちょっと前に面倒な男切ったんだよね」

 話しかけられているのか独り言の延長なのか判断がつかず、伊織は無言で今日子をみつめた。それに視線を合わせることもなく、今日子は淡々と続ける。

「偉そーだからなんか立場ある奴なんかなって思って何回か食事したけど、結局大口叩いてるだけで大したことなくてさ。もちろん穏やかにフェードアウトするつもりだったんだけど、そいつ意外としつこくって。ストーカー化してきたから、腕の立つ見るからに強そうな男とつきあってみたの。おかげでストーカーは段々姿を見せなくなった。でも、ちょっとお小遣い欲しいなーって思って金持ちの男とホテル入ったとこ、彼氏に見られちゃってね」

 目まぐるしく変わる今日子の交際相手の話についていけず、伊織は一時的に混乱した。つまり、どういうことなのだ? まず男Aと何度か食事した。Aがストーカーになったため、Aを近寄らせないために強そうな男Bとつきあった。しかし別の金持ちの男Cとホテルに行き、それをBに目撃された。

 頭の中で整理して状況を理解した瞬間、ぽろりと言葉が漏れる。

「う、浮気……」

「違うよぉ、そいつと会ったのその時だけだもん。単発のお小遣い稼ぎくらい普通でしょ」

 堂々と言い切られるとそうなのかと押し切られそうになるが、世間知らず気味の伊織でも、さすがにこれは一般的な感覚ではないのではないかと思った。母が聞いたら虫けらを見る目で軽蔑されそうだ。

「でも彼氏も、つーかもう元カレだけど、そいつも浮気だって言って殴ってきてさ。なんかもう全部めんどくさくなっちゃって、ぼーっと電車乗って、気づいたらこの街に来てたの。そんで健伍さんと出会ったバーで飲んでたら、再会しちゃった。運命的じゃない?」

 今日子は艶っぽく微笑むが、伊織はなんとも答えようがなく困った顔になった。確かに示し合わせたわけでもなくかつての恋人と再会したというのは感慨深い出来事だろうが、それまでの経緯が経緯なだけに、いまいちロマンチックさを感じづらい。

 今日子は伊織の反応を気にした様子もなく、甘ったるい声で歌うように言う。

「健伍さん優しーからねぇ、困ってたら絶対助けてくれるの」

 罪悪感の欠片もない言いように、伊織は眉を顰める。かつて借金を押し付けた相手に素直に甘えられる神経も、借金を押し付けてきた相手を躊躇いなく助けられる心情もわからなかった。

 これが恋愛というものなのだろうか。余人には理解しがたい男女の機微か。何もかもが間違っている気がするが、当人同士は幸せそうである。だがそれにより兵伍が苦しんでいるならやはり不健全な関係なのではないか? しかし自分が人様の関係を批難などできる立場か? 答えのみつからない問いがぐるぐると頭の中をめぐる。このまま悩み続けていたら知恵熱が出そうだ。

「ひょーごくんは女嫌いになったらしいけど、伊織ちゃんみたいなクソ真面目もいるわけで、区分けは性別じゃないんだよね。ダメ人間に男も女もない。性別なんか関係ないの。私はただ私に優しい人間を頼りたいだけ。異性愛者が多いから一応男ウケ意識してるけど、別に女に媚び売ったっていいし」

 スマホを畳に投げ出し、ぐん、と上にのびをして、今日子は笑った。

「あとねぇ、伊織ちゃんの今後のために一個教えておいてあげる。私は一人じゃ成立しないタイプのダメ人間なの。だからまぁつまり、そういうことだよ」

 意味深なことを言われ、ぱちぱちと瞬きしている伊織を放って、今日子は立ち上がった。

「そろそろ晩御飯仕込んどくね」

 そう言ってエプロンを身に着け再び台所に立った今日子に、伊織ははっとして、声をかける。

「あ、あのっ」

「ん?」

「わ、私も、料理を、その、できるようになりたいと思っていまして、お手間とは思いますが、よろしければ教えていただけないでしょうか」

「あ~……いいよぉ、今時間あるし。伊織ちゃんどのぐらいできるの? ホットケーキとかは作ったことある?」

「ないです。あの、家庭科の授業で少し」

「なるほど、マジの初心者なんだ。じゃあ最初は野菜を切るところからかな。切って茹でて調味料入れればそこそこのものはできるから。楽でめんどくなくてまぁ美味しいもの……カレー? よし、カレーにしよう! 伊織ちゃんもうお腹平気なんだよね? じゃあイケるイケる。初心者の鉄板っつったらカレーよ」

 今日子は勝手知ったる様子で食器棚の下の扉を開け、カレーのルーが入ったパックを取り出した。

「あった~。健伍さんいつもここ入れるもんね。ほら、見て。一かけで一人分なの。わかりやすいでしょ。でもどろっとしたのが好きなら大目に入れてもいいよ。健伍さんはどっちだったっけ。えーっと、確かどろっと派……でも辛いのが好きだから中辛じゃ足りないな。あとで分けてスパイス足そ。あ、伊織ちゃんはこれは気にしなくていいからね。野菜茹でて灰汁取ってルーぶち込んで溶かす、最低限これだけやればカレーってできるの。簡単でしょ?」

「はい。頑張ります」

「うん。じゃあこれ、人参。切ってみて」

 人参とまな板と包丁を渡され、伊織は包丁を構えてゆっくりと人参に刃を入れる。ぎゅっと左手で人参を抑え、慎重に切っていくが、後ろから覗き見た今日子は、うわ、と声を上げた。

「危なっかしい手つき」

「え、だ、駄目ですか? 学校ではこの持ち方がいいと教わったんですが」

 野菜を抑える左手の手先を手の内側にしまい込み、丸めた形にしている。いわゆる『猫の手』だ。

「いや形は合ってんだけど包丁の動かし方がぎこちないっていうか……。まぁ慣れないうちは仕方ないか。あとカレーの具、そんな大きさに神経質にならなくていいから。てきとーてきとー」

 切った野菜を鍋で煮込んだあと、ルーを溶かし入れ、牛乳を一たらし混ぜて、味見する。今日子は少し不満げに小首を傾げた。

「ちょっと足りないなぁ。私固形のルーあんま好きじゃないんだよね。まぁ今大事なのは健伍さんが好きかどうかだからいいんだけど。どう? 伊織ちゃん。自分で作った料理のお味は」

 今日子が差し出したスプーンを受け取り、伊織はおそるおそる口に含む。ほろりと崩れるじゃがいもとぴりっとした辛みは、稀に給食で出るカレーとよく似ていて、これこそがカレーだという味がした。

「お、おいしいです」

 顔を輝かせて今日子を見る。今日子はコンロの火を止め、サムズアップしてみせた。



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