5
酷暑の中、荷物を抱えて帰ることを嫌がった今日子は、タクシーを使った。行きとは打って変わって優雅な帰宅となる。にもかかわらず、伊織の心中は全く優雅ではなかった。腹を壊したのだ。
タクシーに乗っている間から少しずつ腹の痛みを感じ出し、家に着くころには脂汗をかいてぜいぜいと呼吸を荒げていた。
転がるようにトイレに駆け込み、十数分後、よろよろと腹を抱えながら出てきた伊織に、今日子は気の毒そうに聞いた。
「パフェ?」
「おそらく……」
「でも私たち同じもん食べたのに」
「あまりご飯を食べてこなかったので、沢山食べることに慣れていなくて」
「なるほどぉ。冷たいものだしね。無理しなくてよかったんだよ? 気づいてあげらんなくてごめんね。おねえさんがあっためてあげよっか」
腹に手を伸ばすと、う、と伊織は息を飲み、触れられないよう大きく体を捻る。今日子はすぐに手を引っ込め、「やば、セクハラで訴えられちゃう」と冗談めかして言った。
「いえ、今日子さんの、問題ではなく……」
「わかってるよー。『汚れてるから』でしょ。律儀だなぁ。ま、めんどくさいことに首突っこむ気ないから、合わせるよ」
「すみません……美味しくて、意地汚く食べてしまったからこんな醜態を」
「あは、お腹壊すぐらいなんでもないよぉ。大の大人でも酔って暴れておしっこ漏らしたりする奴いるからね。そんなんでも朝になったらなんでもないふりして普通に会社行くし、偉そうに部下に指示出したりするのよ。パフェ食べ過ぎてお腹壊すなんて可愛い可愛い」
慰めつつ今日子は牛乳を注いだカップを電子レンジに入れる。数分して温まったそれを取り出し、「飲む?」と伊織に尋ねた。
「あ、い、いただきます、ありがとうございます」
伊織は受け取って、カップを両手で持ち、ゆっくりと飲み始めた。牛乳のほの甘い味とちょうどいい温かさが、体に染み込むように広がっていく。弱った精神と痛みが残る腹が癒されるようで、気づけば、ふあぁ、と声を漏らしていた。体の力が抜け、くたりとテーブルに伏したくなる気持ちをどうにか堪える。
「そろそろお昼だけど、どうする? 食べられそ?」
「いえ……まだ……」
「そっか。まぁ適当に作っとくから、お腹すいたら食べなね。あ、その前にシャワー浴びたいな。伊織ちゃんも浴びた方がいいよ。今はクーラーかかってて涼しいからめんどくさいかもだけど、ほっとくと汗疹できるよ。シャワー出たら今日買った化粧水と乳液ちゃんと使ってね。じゃあお先~」
箪笥の引き出しを躊躇なく次々と開けてバスタオルを引っ張り出し、今日子は風呂場に行ってしまった。人の家なのにまるで遠慮というものがない。伊織は、その図々しさが恐ろしいような、羨ましいような、不思議な気持ちになった。
今日子は意外にも長風呂ではなく、十五分ほどでシャワーを済ませてTシャツと薄地のマキシスカート姿で出てきた。顔に張り付けられたパックシートの異様さにひっと息を飲んだ伊織を見て、けらけら笑う。
「びっくりした? これ知らない? だと思ったー! ごめんねー、伊織ちゃんみたいな世間知らず系お嬢様周りにいなかったから、反応が新鮮で楽しくって」
悪気はなさそうなのだが、伊織が戸惑っていることをおもしろがっている節はある。今日子の優しさと厄介さの振れ幅は、しばしば伊織を困惑させた。
「伊織ちゃんもパックしたいならあとであげる~。まぁ肌綺麗だからまだしなくても全然平気だけどね。ほら、タオル持って体洗ってきな」
促されるまま伊織もシャワーを浴びにいき、汗を落とす。温かい湯に打たれ、埃や垢を洗い流すと、ゾクゾクと全身に走る寒気と腹の痛みが少し和らいだ。心地よい温かさにしばしぼんやりしたあと、はっと我に返り、シャワーを止める。
風呂を出た伊織は、兵伍がコンビニで買ってくれた簡素な下着と、黒い短パンと灰色のチェックシャツを着た。今日購入した服の中には可愛らしい部屋着もあるのだが、洗濯をしないうちに着ないほうがいいと今日子が言うので、ひとまずまた兵伍の服を借りることにしたのだ。
兵伍の服を身に纏う瞬間は、いつもしてはいけないことをしているような罪悪感にかられる。私などが人様の服を使わせてもらって大丈夫なのだろうか、一人の少年にこんな犠牲を強いていいのか、という懸念がとめどなく溢れ出てきて、何秒か動けなくなってしまう。最終的に、服を着なければもっと迷惑をかけるからと覚悟を決めて苦渋の表情で手足を入れるのだが、着終えた後もどきどきと心臓は早鐘を打ち、しばらく不安な気持ちは消えない。
フェイスタオルを頭に巻き付けて水分を取っていると、今日子が鍋でなにやら茹でながら振り向き、「あー出たね。化粧水つけた?」と聞いてきた。
「あ、いえ、はい、つけます、ありがとうございます」
伊織はドラッグストアの袋を開け、化粧水と乳液のボトルを取り出した。洗面所に持っていき、今日子に言われたとおりに肌につけていく。すう、と風呂上がりの肌に液体が馴染んでいく感覚は新鮮で、ぺたぺたした感触になった肌に、なるほどこれが潤いになるのか、と興味深く思う。
特に今日子にとって大事なことでもあるまいに、何故積極的に伊織の肌事情やファッションを改善しようとしてくるのかはわからなかったが、逆らう理由も見当たらず、言うとおりにすると今日子の機嫌がいいので、伊織はおとなしく従っていた。




