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手を繋いで二人  作者: 夜光始世
今日子
15/21

4


 兵伍が渋りながらも家を出たあと、伊織は、渡されたコインケースをお守りのように握り締め、今日子の様子を窺っていた。兵伍と今日子との会話は、傍から見ているだけでも胃が痛くなるような緊迫感があり、兵伍があれほど今日子を忌み嫌っている理由がよく理解できた。驚くほど性格が悪い。大人で、感じが良くて、か弱そうな女性だという当初の印象は間違っていたのだろうか。

 兵伍が自分のせいで学校に行けなくなるのは良くないと思い平気な振りをして送り出したものの、実のところ伊織は今日子が怖かった。品が良く儚げな女性が、兵伍を傷つけるようなことをさらりと口に出すさまを見て、驚きと違和感で硬直してしまった。

 兵伍に言われた通り、何か変なことがあったらすぐ逃げよう、と緊張しながら今日子から距離を取る。できれば出入り口の近くに行きたいが、今は今日子がぼんやりとそこを眺めているので難しかった。

「ひょーごくん、詰めが甘いな~。あれで納得しちゃうんだもんな」

 小さな声で、今日子はひとりごちた。

「女が女利用する手段なんかいっぱいあるのにね。ぴ活やらせるとか風呂に沈めるとか。まぁ私はそんなことしないけどぉ」

 伊織は動揺のあまり勢いよく身を引き、後ろの壁にぶつかって背中を痛め、体を前に折った。

「ん? どしたの、伊織ちゃん」

 振り返って不思議そうに問いかける今日子に、伊織は青ざめて言う。

「お、お風呂に、沈めるって」

「あぁ、違う違う、あれは風俗の隠語。ごめんね、怖がらせちゃったね。いたいけな女の子にそんな酷いことしないよ。ただ、ひょーごくんが思ったより純粋なまんまだから心配になっちゃっただけ」

「……は」

「子どもだからしょうがないか。伊織ちゃんさぁ、その服兵伍くんの? 趣味じゃないよね?」

「あ、は、はい、お借りしています」

「だよね、うん。似合ってないし」

 今日子は蹲る伊織の前に立ち、宣言した。

「買い物、行こう!」

「え」

「伊織ちゃんの服買いに行こっ。ついでにクレープとかも食べたいね。アイスでもいいよ」

「で、でも私、そんなお金を持っておりません」

 戸惑いながら伊織が言うと、今日子はふふんと胸を張った。

「そんなのおねえさんに任せなさい! ずっとひょーごくんの洋服借りてるわけにもいかないでしょ。これはこれで彼シャツみたいでアリだけど、そのいうのってやっぱ、普段可愛い服着ててこそだし。伊織ちゃんには清楚で妖精さんみたいな服が似合うよぉ。おねえさんと着せ替えしよ~」

 親しげに誘ってくる今日子に、伊織は、これは『変なこと』に入るのだろうか、と困ってしまった。逃げた方がいいことなのか? 今日子と共に買い物に行った方がいいのか、家でじっとしているのがいいのか、一人で今日子の目が届かないところに逃げるのがいいのか。どれを選べば一番兵伍に迷惑がかからないのだろう。

 判断がつかないでいるうちに、今日子は身支度を整え、伊織の背中を押して外に連れ出した。健伍から渡されたらしい合鍵で戸締りし、大きめの日傘をさして伊織を招き入れる。

 ラベンダーのリボン風バックツイストワンピースに白いピンヒールミュールを履いた今日子は、レース模様の白い日傘をさすと避暑地に遊びに来たお嬢さんといった風情だったが、アメカジ系の兵伍の服を着て靴はローファーである伊織が隣に並ぶと、ミスマッチも甚だしかった。

「やっぱ服大事よ。ひょーごくん買ってくれなかった?」

「え、あの、下着をいくつか。私などに過ぎた心配りをいただいて」

「うーん。控えめっていうか卑屈だね。ひょーごくんそういうのが好みなんかな。まぁ反動凄そうだもんね」

「ひょ、兵伍くんのこと悪く言ってますか……?」

 伊織が尋ねると、今日子は愉快そうににっと笑い、「いや、ただの感想」と言った。兵伍を前にした時の薄っすら嘲るような顔とは違う、素直な笑顔だった。

「あついねー……」

 道中、思わずといったように口にし、今日子はハンカチで額の汗を拭う。

「伊織ちゃんはなんか爽やかっていうか、涼しげでいいな。あんまり汗かかないんだね」

 なんと答えたらいいのかわからず、伊織は黙り込む。人付き合いに慣れていない伊織は、世間話、適当な相槌、社交辞令の見極めなどが苦手だった。

 今日子もそんな伊織を察したのか、無理に会話を振ってくることもなく、熱さに辟易とした様子を見せながら足を動かし、デパートに辿り着く。

 自動ドアをくぐった途端、今日子は生き生きと顔を輝かせた。「冷房とお洒落な陳列とまともな店員、あぁデパートって最高!」

 楽しげに感嘆の声を上げ、日傘を畳む。

「伊織ちゃん喉乾いてない? 大丈夫? じゃあねぇ、まず六階の婦人服売り場で良さそうな服探して、それからカフェで休もうね。絶対、ひと夏の魔法が見せた恋の幻影みたいな清楚系美少女にしてあげる!」

 拳を握り締め、伊織にはよくわからないことを言って張り切っている。

 今日子の印象が二転三転し、伊織は混乱していた。健伍の傍で微笑んでいた時はおっとりして頼りなげな可愛らしい人、と思っていたが、兵伍と話していた時はあけすけで露悪的で意地が悪く見えた。そして、伊織に対しては朗らかで強引な姉のように振舞っている。

 いったいどれが本当の今日子なのか。それともどれも彼女の本質ではなく、相手に合わせて演じているだけなのか。信用できないと感じながらも、伊織は次第に今日子と気負わず会話できるようになっていた。今日子の人懐っこさ、明るさ、さりげない気遣いは、相対する者をそうさせずにはいられなかった。

 いくつもの店舗が立ち並ぶ中、可憐で上品なデザインが主なラインナップの店に入った今日子は、白いシンプルなフレアワンピース、さらりとした生地のシャーリングワンピース、襟に透かし彫りのレースが入ったブラウス、アイボリーのプリーツスカートなど、何着も伊織に着せては鏡の前でくるくる回し、これは体の線に合わない、これはイメージと違う、これは着回しができて良い、などと品評して店を巡り、最終的に大きなショップバックを五つも抱えさせた。抜かりなく自分の分も買い物を済ませ、今日子の荷物は二つである。途中ドラッグストアにも寄って、化粧水やら泡立てネットやらリップクリームやら、細々としたものを大量に買い込んだ。

 伊織は服の値段を意識するような生活をしてこなかったため、試着する間いちいち値札を見はしなかったが、さすがにデパートでこの量を買えばそれなりの額になったのではないかと想像はつく。かさばる袋を落とさぬよう必死で抱えながら、恐々と尋ねた。

「あの、よろしかったのですか、こんなに沢山買っていただいて」

「いいよ~。買い物楽しかったぁ。伊織ちゃん、こーいうときはね、そんな不安そうな顔じゃなくて、にこーっとして『ありがとうございます! 今度この服でデートしてくださいね!』とか言っときゃいいのよ」

「は、はい。ありがとうございます。なんとお礼を申し上げたらいいか――」

「堅いよ! も~不器用だなぁ。可愛いっ」

 今日子は悪戯っぽく笑い、伊織の額をぴんと弾く。

「メイクもしたいけどひょーごくんが嫌がりそう。伊織ちゃん的にはどう?」

「え……わ、私の歳でお化粧は、はしたないことですから」

「はしたない」

「あの、今日子さんはとてもお綺麗に、上品にお化粧されていて素敵だと思いますが、私は淫奔な血を宿しているので、人様に迷惑をかけたくなければ妄りに色気づいたことをしないようにと言いつけられていまして」

「おぅ……淫奔ときたか。あまり聞かない言葉が次々と」

 今日子はおもしろそうに目を瞬かせた。

「ほかには? ほかにはなんか言われてる? 男と喋っちゃ駄目とか?」

 ずい、と迫られ、伊織は反射的に顔を逸らす。あまり言いたくはなかったが、言わねば誠実ではないと思い、躊躇いがちに明かす。

「ひ、人に、触れるな、と。私は、汚れているので、私に触れられると汚れが移ってしまうと」

「ほー、拗らせてんね」

 今日子は一言で片づけた。その淡泊な反応に、伊織は救われたような気持ちになる。それと同時に、自分はこの明るく屈託ない女性に嫌われたくなかったのだと気づいた。兵伍を苦しめるのは許せないが、接していくうち、今日子を悪く思うことはできなくなっていた。するりと伊織の殻を通り抜け、ごく自然に友達のように笑いかけてくる。伊織は今まで一人も友達がいなかったこともあり、優しくしてくれる人に弱かった。

「ま、とりあえずパフェ食べよーよ」

 今日子に先導されエレベーターを使って上の階に上がり、洒落た洋食屋に入る。中途半端な時間帯のせいか客はまばらで、二人は四人掛けのテーブルに案内されゆったりした空間を確保した。

「私チョコバナナパフェにしよっかな。伊織ちゃんは?」

「わ、私は、その、なんでも」

「え~そんなこと言ったらこの特選あまおうストロベリーパフェ頼んじゃうよ? 私こっちと迷ったの。シェアしない?」

「あ、え?」

 しぇあ?と伊織が言葉を飲み込めないでいるうちに、今日子は店員を呼んで、さっさとパフェを二つ頼んでしまった。注文のあとにやっと頭が追い付き、伊織は青ざめて口を覆う。

「今日子さん、私、ほかの方とお食事を分け合えるような者ではございません」

「え~? あ、さっきの話と繋がる? それ。なんか汚れてるとか」

「そうです」

「うんうん、聞かして。おもしろそぉ」

 今日子はにんまり笑って頬杖を突いた。

 伊織の家の特殊な事情と彼女の身の上を、今日子は適切な相槌と質問でどんどん引き出していく。途中共感や慰め、励ましや同情を挟んで話を続けさせたものの、最終的には大笑いしていた。

「あはは、聞けば聞くほどやべーお家だ。そりゃ家出もしちゃうわー」

「いえ、私に問題があるので、家は悪くは――」

「そぅお? ほんとにそう思ってる?」

 今日子は急に真顔になり、運ばれてきたパフェの器を爪でカチカチと叩く。細く長い金のスプーンですいと生クリームを掬い、おもむろに舐めとった。

「物事なんて自分の都合のいいように考えた方がいいんだよぉ。自分以外のものを優先するってことは自分を犠牲にするってことなの。みんな好き勝手生きてる世の中で、なんで私だけが我慢しなくちゃいけないの? そんなの不公平じゃない。君だってそうだ。汚れるっていうなら汚してやりなよ」

 生クリームをあらかた片付けたあとは、ざくり、と音を立ててグラノーラの層を突き破り、その下のケーキのスポンジを掘り出して満足そうに口に放り込む。

「汚れるから近づくなって言う奴には、うるせー勝手に汚れてろって返せばいいし、汚れてもいいから一緒にいてって人と仲良くなればいいんだよ。君の家は世界の全てじゃないし、君の母親は王様じゃないの。誰も君のやることを制限なんてできないよ。好きなもん食って好きな人と出会って好きなことやりな。これからだよ」

 桜色に彩られた爪を伸ばして、伊織の側に置かれたストロベリーパフェに美しく盛られた苺を一つつまみ、反対に自分の手元のチョコバナナパフェの器を押しやる。

「シェア。ね? 美味しいものは、沢山食べられた方が嬉しいでしょ」

 にっこり微笑む今日子に、伊織は何の返事もできず視線を落とし、気ままにスプーンを入れられて形を崩したチョコパフェをみつめた。運ばれてきたときの華やかさや美しさは失われ、ぐちゃぐちゃの茶色い塊となったそれを、今日子はもう一顧だにしなかった。

 自由を説く今日子は強く、魅惑的で、邪悪だった。惹かれるものはあったが、手本にしてはいけないようにも思われた。人を惑わし堕落させる魔女。母が唾棄しこうはなるなと言い聞かせていたのは、こういう人なのではないかという考えが頭をよぎり、いやここまで親切にしてもらっておいてそんなことを思うのは失礼だと自分を戒める。

 伊織は「いただきます」と手を合わせ、ストロベリーパフェを食べ始めた。口の中に広がる甘酸っぱい苺の味と滑らかでふわりと溶ける生クリームの食感に、心が浮き立つ。幸せの味だ。甘くて優しい。

 できることならば、兵伍くんにも食べさせてあげたいなぁ、と思った。

「……今日子さんは」

「ん?」

「兵伍くんと、その」

「あ~、ね。気まずい関係? ま、あの子の立場なら怒るよね。でもさぁ、しょうがなくない? 赤信号でも車がこなかったら渡るでしょ? お腹が空いてるときに目の前に美味しそうなご飯があったら食べちゃうでしょ? そーいうこと」

 今日子は悪びれずもせず、平然と言ってのける。そーいうこと、と言われても、伊織は赤信号では絶対に渡らない人間なので、全く理解はできなかった。

 『俺が小一の時親父に結婚しようって言っといて借金押し付けて逃げたクズ』――険しい顔で発せられた兵伍の言葉が蘇り、そうか、と静かに衝撃的な事実を受け止める。品がよく料理上手で年下の少女を可愛がる優しいおねえさんと、結婚を誓った相手に借金を押し付けて逃げる悪女は、同じ人物の中に同時に存在できるのだ。

 今日子は嘘をついて誤魔化しはしなかった。それも自分だと認めた。ただし物事への認識は大分異なっている。伊織からすると信じられないような悪行も、今日子の口ぶりではまるで誰もがしたがる自然の本能のようだ。

 兵伍が今日子を蛇蝎のごとく嫌うのは当然のことであり、今日子に近づくなという彼の警告は、今となっては一部の隙もなく正しいように思えた。

 それでも伊織は、罪のない微笑を浮かべる目の前の女を遠ざける気にはなれなかった。苦手だな、という気持ちと、好きだな、という気持ちが混在する。今日子にはそういう、どうしても突き放せないような何かがあった。

 だが、どうも自分は今日子を嫌えないらしいと気づいた伊織は、兵伍のことを思って酷く狼狽した。こんな曖昧な心持ちでいたら兵伍に申し訳ない。自分などのためにあんなにも心を砕いてくれているのに、兵伍の宿敵のような今日子に好意を感じるなど、恩知らずにもほどがある。

 それに、母がここにいたらなんと言うだろうか。きっと母なら、きっぱりと今日子の魅力を跳ね除け糾弾するに違いない。今日子を嫌えないのは、結局のところ自分も彼女のようにずるい部分があるからなのではないか。

 思い悩む伊織の眉間に刻まれたしわを見て、今日子は苦笑する。

「まぁ食べなよ。うまいもん食えば大体の悩みは忘れるから」

「……はい」

 忘れられる気はしなかったが、せっかく勧められたのだからと無心に手を動かしパフェを口に入れる。悩みに気を取られて最初に食べた時ほどの感動はない。それでも甘く柔らかい食べ物は舌に快く、気づいたらパフェの器は空になっていた。

 向かいの席の今日子は、伝票を取って立ち上がり、満足げに言う。

「美味しかったね、伊織ちゃん。またこよーね」

「あ、ご、ごちそうさまでした」

 伊織が咄嗟に下げた頭を、今日子はさらりと一撫でする。それは飛びのく間もないほど一瞬で、だが確かに撫でられた感触は残っていた。

 慌ててショップバッグを持ち、会計に向かう今日子を追う伊織の顔は、じんわり赤く染まっていた。




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