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手を繋いで二人  作者: 夜光始世
今日子
13/21

2


 柔和な笑顔。肩につかない程度のふんわりした明るい茶髪。控えめに見えるが念のいったナチュラルメイク。動くたび耳元で揺れるきらきらした華奢なイヤリング。落ち着いた雰囲気でありながら適度にあしらわれたリボンやレースが可愛らしい服。高すぎない五センチヒールのパンプス。近づくと気づくほのかな甘い薔薇の香り。それが、伊藤今日子という女を構成する要素だった。

 一目で、彼女が世の愚かな男どもを弄びながら生きているということを見抜ける者は少ないだろう。よくいるお洒落な可愛い女性にしか見えない。特に遊びまわることもなく、恋人を作ったら浮気はせず、彼氏にお弁当なんかつくってあげて、二十四歳ぐらいで堅実な結婚をしそう。予想をするとしたらせいぜいそんなところだ。

 しかしかつて今日子に痛い目にあわされた兵伍は、その本性を知っている。以前は気づかなかったあざとさを今ならいくつも指摘することができる。例えば、体の線を強調するようなぴったりしたニットワンピ。人畜無害そうな、えへへ、という笑い方。頼りなげな表情。下から見上げるような体勢。時折見せる寂しげな様子。

 三日ぶりの朝帰りだというのに元気よく朝食を所望した父親に裏拳を食らわせ、兵伍は今日子を冷えた目で睨みつけた。

「親父が何日も家空けた時点で、また女に関わってめんどくせぇことになってんだろうなってのはわかってたよ。でもよりにもよってこいつかよ」

「こいつとか言うなよ兵伍、前はお母さんって懐いてたじゃないか」

「だから嫌なんだよ! どの面下げて来たんだてめぇ」

 心底嫌そうに顔を歪ませる兵伍に、今日子はしおらしく謝る。

「ひょーごくん、ごめんね……どうしてもあの時は仕方なかったの。二人に迷惑かけちゃいけないと思って」

「てめぇが逃げたせいで迷惑かけられたんだろ。親父みたいに俺も騙せると思うなよ」

「え……」

 途端に今日子は瞳を潤ませ、健伍のジャンパーのすそを掴んだ。

「騙すなんて……酷い……でも、ひょーごくんからしたらそうだよね……ごめんなさい、私やっぱりここに来ちゃいけなかった。わ、私のことは忘れて、元の仲良しな二人に戻って……っ」

 震える声で発せられる健気な言葉に、健伍は感極まったように今日子を抱きしめる。

「そんなこと言うなよ! 今日子ちゃんが困ってるのに見捨てられるわけないだろ! 兵伍だってちょっとつっぱってるけど本当は嬉しいんだよ。あいつ反抗期だから」

「んなわけねーだろこの馬鹿!」

 眉間にくっきりと皺を刻ませた兵伍がげしげし健伍のすねを蹴りながら抗議するが、当然健伍の耳に届いてはいない。いつになくきりっとした表情で、「今日子ちゃんは俺が守るよ」などと格好つけたセリフを吐き始めてしまった。今日子は涙の粒が乗った睫毛を伏せて、切なげに返す。

「いいの。健伍さんとひょーごくんの元気そうな顔が見られて良かった。私もうどうなったって……」

「今日子ちゃん!」

 腕の中から抜け出そうとする今日子を、健吾はますます力強く抱きしめた。

 兵伍はうんざりした目でその茶番劇をみつめ、諦めのため息をついた。

 こうなってしまった父親はもはや誰にも止められない。どんなに論理的に説明しても自分が騙されているとはこれっぽっちも思わないし、頼ってきた女はか弱き恋人として庇護対象になり、その認識が変わることはないのだ。

 しかしあの女は、あの女だけは本当に二度と顔も見たくないと思っていたのに。

「ひょ、兵伍くん、あの……」

 後ろからおずおずと伊織が問いかける。

「ご両親、ですか?」

「ちげーよ。いや、男の方は父親だけど、女は、俺が小一の時親父に結婚しようって言っといて借金押し付けて逃げたクズ。あん時は俺もまだ馬鹿だったから、いい人だと思ってたんだよ。今まで親父を騙してきた女の中でも断トツに性質(タチ)悪ぃ。お前、あいつの言う事絶対聞くんじゃねーぞ。いいように利用されっからな」

 警戒心を漲らせながら、伊織に言い聞かせる。伊織はいまいちぴんときていなかったが、兵伍の剣幕に押されて素直に頷いた。

 不機嫌を前面に出している兵伍の機嫌を取るように、健伍は長方形の箱を掲げて見せ、猫撫で声で言った。

「ほら、クッキー買ってきたんだ。名前は忘れたけどなんか凄い有名店らしい。お前クッキー好きだったよな?」

「好きだけどそれとこれとは――」

「朝っぱらからカリカリすんなよ、なっ。甘いもん食って落ち着こうぜ! そこのお嬢ちゃんも! つーか、どちら様なのかな? 彼女?」

 もっともな疑問を投げかけられ、伊織は、はっと居住まいを正した。

「は、はじめまして、私はそ、あの、伊織と申します」

 空坊、と言いそうになったのを寸前で止め、下の名前だけ名乗る。失礼にあたるかもしれないが、今の自分に空坊を名乗る資格はないと思ったのだ。 

「色々ありまして、兵伍くんには大変お世話になっております」

「こいつ家出中なんだよ。どうするか決まるまで家に置いていい?」

「えっ、いいけど、マジで? 兵伍がそんなことするとは思わなかった。え~? やっぱ年上好きなの? 血は争えないな!」

 健伍は興味津々といった顔つきで、兵伍と伊織を交互に見た。

「俺の初恋も年上の綺麗なおねえさんでさー! ま、俺の場合は相手が上過ぎてただの憧れで終わったけど。そっかー、兵伍にも春が来たか!」

「いや、なんか誤解してねぇか親父、俺はただ――」

「俺はずっと心配してたんだぞ? 女なんか全員嫌い、恋なんかするもんかって怖い顔して言うのを聞くたびに、あ~育て方ミスったかなぁってさ。兵伍がしっかりしてるのはありがたいけど、だからって恋愛までコストとかメリット重視で排除するのはどうなんって思ってたんだ。でもこれで一安心だな!」

「待て、親父、違う、あのな」

「伊織ちゃんいくつなの? 十四? へ~、中学生か。なんつーか、さっぱりしてんね。真面目そう。中学生らしいというか。兵伍の好みってこんなんなんだ~」

 健伍は顎に手を当て、褒めているのか貶しているのかわからない感想を述べた。そりゃ親父がつきあう女どもよりはさっぱりもしてるだろうよ、と兵伍は思った。何か月か前に健伍が連れてきた少女は、自称二十歳だったが実際には十六歳だったらしい。未成年だと知った健伍は慌てふためいていた。大人っぽいメイクと服装で誤魔化されていたのだ。さすがに淫行はできない、と恋人関係は解消したが、「でもあんなえっちな体してたら誤解しても仕方なくない? すげー好みだったわ」とぼやく父親に兵伍は呆れた目を向けたものだった。

 よく連れてくる彼女の傾向から、健伍の好みとは派手で色っぽい女なのだ、と幼少期の兵伍は思っていた。しかし今日子という例外に痛い目にあわされたあと、認識を改めた。健伍の好みはヤバい女である。見た目や雰囲気など関係ない。健伍が好きになる、即ちヤバい女なのだ。なので健吾が伊織に欠片も興味がなさそうな反応を示したことで、密かに兵伍はほっとしていた。

「あの、みんな朝食まだ食べてないよね? 私作ろうか?」

 今日子が申し出る。健伍は喜色満面で飛び上がった。

「え!? ほんと? おっしゃあ、嬉しいな、今日子ちゃんの手料理美味いんだよなぁ!」

 一方、兵伍は、ゲッと顔を引き攣らせる。

「誰がお前の飯なんか食うかよ、つーか出てけよ」

「兵伍! ツンデレもやりすぎると嫌われるぞ! 昔は今日子ちゃんのご飯最高って言ってただろ」

「ああああぁくっそ腹立つ……」

 頭を抱える兵伍に、追い打ちをかけるように健伍は告げる。

「今日子ちゃん少しの間ここで暮らすから、仲良くな」

「はぁ!?」

「いいだろ、お前だって伊織ちゃん連れてきてるし」

「うっ」

 それを言われると返す言葉もなかった。しかもどちらかと言えば、子どもである兵伍が未成年の少女を連れてくるより、親である健伍が元恋人の今日子を連れてくる行為の方が、より正当性があった。

 やりきれない気持ちを紛らわせるように近くの柱にしがみついて唸る兵伍を、伊織は心配そうな面持ちで見守った。ずっと頼りになる大人びた少年だと思っていたため、これほど振り回されて平静さを失っている兵伍の姿は新鮮だった。兵伍の力になりたいと思うも、何をすればいいかはわからず、ただ傍に立っているだけに終わる。

 渦中の今日子は、健吾に甘えるようにしなだれかかり、健吾の腕をぎゅっと抱きしめながら伏し目がちで殊勝なことを言っていた。

「ごめんなさい、健吾さん。迷惑かけて。私、ひょーごくんに嫌われちゃったね……」

「気にしないで今日子ちゃん! あいつ難しい年頃なんだよ。綺麗なおねえさんを意識しちゃって恥ずかしいんだろうな」

「うるせぇ黙れ眼科行ってこいクソ親父」

 恥ずかしさどころか怒りしか見当たらない顔で兵伍が罵倒するが、健吾は気にした様子もなく、「照れちゃって~」とにこにこ笑いながら椅子に座る。

 いつの間にか台所を使う権利を手に入れた今日子は、手際よく冷蔵庫と台所用具を把握し、ご飯、なめこと豆腐と長葱の味噌汁、紅鮭の塩焼きと大根のすりおろし、だし巻き卵、キャベツの梅おかか和えを人数分作って食卓に出した。

 健伍が真っ先に箸をつけ、「くぅっ! 今日子ちゃん天才シェフ!」と褒め称える。兵伍は嫌そうにしながらも、学校に行く時間が迫っているため渋々食事を口にする。それを見て伊織も席に着き、今日子の方を向いていただきますと手を合わせたあと、少しずつ食べ進めた。健吾が一品食べるごとにうまいうまいと絶賛するため、兵伍と伊織だけのときとは打って変わって賑やかな食卓となった。

「もう、健吾さん、褒め過ぎだよ~。普通のご飯じゃない。でもありがと。そんなに褒めてくれるなら、健伍さんのためにもっと頑張っちゃう」

「よしゃ! 今日子ちゃん可愛い!」

 嬉しそうに会話する二人は、完全に恋にのぼせた盲目なカップルである。正面でその様子を見ていた伊織は、仲が良さそうで素敵だな、と思った。兵伍は今日子を毛嫌いしているが、もしかしたら何か誤解があるのかもしれない。兵伍が言ったことが本当なら、健吾がいまだこんなにも今日子に夢中でいるだろうか? 

 ほどよく味が染みただし巻き卵を咀嚼しながら、伊織は考える。今日子は健伍の恋人で、大人で、感じが良くて、料理が上手だ。汚れた忌子で寄る辺もなく何の取り柄もない自分は、彼女と比べてあまりに劣っている。きっと兵伍もすぐそのことに気づいて、自分を拾ったことを後悔するのではないか。優しいから口には出さないだろうけど、もしそんな素振りが窺えたら、迷わず出ていこう。そう決心すると同時に、づき、と胸の奥が痛み、不安とも悲しみともつかぬ感情がもやもやと湧き出してくる。

 この家を出たら生きていけない、という切実な問題以上に、兵伍と離れたくないという執着心が自分の中で育っていることに伊織は気づいた。伊織が今まで出会った人々の中で、兵伍はあまりに稀有な存在だった。お前は悪くないと言って触れてくれ、守ろうとしてくれる、信じられないほど善良な人間。できることなら兵伍の傍にずっと居続けたい。だがこれは自分勝手で分不相応な望みだ。抑え込まなければならない。

 いち早く食べ終えた健伍は席を立ち、スーツに着替えると、「じゃ、俺会社に行ってくるな! 今日子ちゃんと離れるのは寂しいけど……」と言いながら今日子と熱烈なキスを交わして出社していった。兵伍も登校しなければならないのだが、伊織を今日子のいる部屋に残すことが躊躇われ、なかなか動けないでいた。

「兵伍くん、あの、どうかしましたか? 私何かしてしまいましたか?」

 険しい表情で固まっている兵伍に、伊織が尋ねる。兵伍はそれに「いや、お前はなんもしてない」と首を振り、今日子をねめつけた。

「お前、どういうつもりだ」

「え?」

「なんでここに来た。目的を言え」

 真っ向から敵意をぶつけてくる兵伍に、今日子は「こわーい」と肩をすくめる。だがその言葉は、健吾の隣にいたときとは違って、どこか揶揄するような響きがあった。

「ショックだなぁ。ひょーごくん、とっても懐いてくれてたのに」

「ぶち壊したのはお前だろ」

「ま、そぉね」

 今日子はあっさりと認める。

「でも優しくしたのも嘘じゃないんだよ? ちゃんと可愛いと思ってた」

「はぁ?」

「だけど結局、子どもが可愛いとか、母親になるとかって、一文にもならないじゃない? この世で確かなのってお金だけだもの」

 にっこり微笑み、今日子は嘯く。兵伍は唖然として今日子を凝視し、は、と皮肉気に口の端を歪めた。

「随分さっきと違うなぁ? お前のその態度、スマホで撮って親父に見せたらなんて言うだろうな」

「なんともないと思うよ? 健伍さん、知ってるもん。私の本性なんか、とっくに。私が擬態してるのわかってて、その擬態してる努力を可愛いって思ってるんだから、ひょーごくんが何言ったって無駄だよ」

 そんなはずない、と兵伍は言いたかったが、今までの父親の恋人への接し方を思い返すと、今日子の言い分に理があると認めざるを得なかった。

「……親父みたいなお人好しにつけ込んで悪いと思わねぇのかよ」

「別に? だって健伍さん、可愛くて健気で人に頼らなきゃ生きてけない振りしてる女に振り回されたい人じゃん。振り回してあげるのが親切ってもんでしょ?」

「勝手なこと言ってんなよ」

「ひょーごくんが子どもなだけだよ。もう七時半だけど、学校大丈夫?」

「お前と伊織置いて行けるわけねぇだろ」

「あぁ、そういう心配」

 今日子は伊織を振り返り、ふーん、と言った。

「ひょーごくんって生きてるだけで面倒ごと背負い込む性質だよね」

 その言葉に、びく、と身を竦ませる伊織を見て、兵伍は一層今日子にきつい目線を送る。

「あは。そぉんな警戒しなくても、なんもしないよぉ。だってほら、伊織ちゃんって家出中なんでしょ? お金ないよね? だからお金貰いようがない。未成年だから借金もできないし、私は女だから性的な悪戯もできない。伊織ちゃんに危害加える要素がないじゃん?」

 ひらひらと両手を広げ、今日子は笑う。そう言われてみれば、確かに今日子が伊織にできそうな悪事が思い当たらなかった。兵伍は悩んだが、時刻が七時四十五分を回った段階でタイムリミットがきた。これ以上遅れれば全速力で駆けても遅刻確定である。

「あの、兵伍くん、もし私のことで困っておられるのでしたら、大丈夫ですから、お気になさらず学校に行ってください」

 伊織に促され、迷いながら玄関に立つ。

「あいつになんかされそうになったらすぐ逃げろ。五時までには絶対帰るし、七時になったら親父も帰ってくると思う。それまでどっかで時間潰せ。わかった?」

「はい」

「今朝はいろいろあって昼飯作れなかったから、コンビニかなんかで好きなもん買ってきて食べろよ。千円渡しとく。財布ねぇよな? これ、俺が昔使ってたコインケースだから、この中に入れて。我慢しないでちゃんと使えよ。あとマジであの女信用するなよ。じゃあな」

「はい。いってらっしゃい。お気をつけて」

 なんやかやと注意事項を伝えたあと、玄関ぎりぎりまで見送る伊織を振り切るように兵伍は家を出た。心配の種は尽きないが、とにかく今は学校に行かねばならない。

 一歩外に出た途端、むわりと蒸し暑い気温に圧迫される。朝の爽やかさが残っているとはいえ、人を疲弊させる夏の太陽は相変わらず容赦なく大地を熱していた。吹き出す汗を拭う間も惜しみ、兵伍は炎天下の中、ランドセルを背負って学校へとひた走った。



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