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手を繋いで二人  作者: 夜光始世
今日子
12/21

1


 危なっかしくふらつきながら、兵伍は小さい足を動かして家路を歩く。小さい。そう、やけに小さい。周囲のものは大きく見えるし、ランドセルは重い。

 世界は、小学一年生の体には負荷がかかりやすくできていた。首をぐっと上に伸ばして信号機を見上げる。青だ。渡れる。

 三時間目が終わった段階で、熱があるから帰りなさい、と学校を早退させられた。しかし父親は仕事で家にいないことはわかっている。鍵を持っているので家に入れはするが、熱は一人で耐えなくてはならない。

 朦朧とする頭でどうにか家まで辿り着き、おぼつかない手つきでズボンのポケットに安全ピンでとめた鍵を取り出す。がちゃりとドアを開け、中に入ると、「あれ? ひょーごくん?」と若い女の声が聞こえた。誰だ、と警戒する間もなく、人好きのする笑みを浮かべた綺麗な女性が姿を現す。

「ひょーごくん、おかえり! どうしたの? 学校早く終わった?」

 伊藤今日子。父の新しい恋人だ。情緒不安定で裏表が激しいことが多い父の恋人の中では珍しく穏やかな性格で、兵伍は好感を抱いていた。ほっと肩の力を抜き、ただいま、と言う。

「きょーこちゃん。俺、熱が――」

「熱!? 大変! 風邪ひいちゃったのかな? うがい手洗いしたらすぐに寝た方がいいよ。なんか欲しいものある? ゼリー食べたい?」

 今日子は心底心配そうに兵伍の顔を覗き込み、優しく頭を撫でた。

「よく頑張って帰ってきたね。偉いね。あとはゆっくり休んで、ちゃんと治そ?」

 その言葉をかけられた途端、兵伍は全身が柔らかいもので包まれたような心地がした。

 兵伍は父が仕事に行かなければ食べていけないことを理解していた。一人で学校の準備をすることも、授業参観に父が来ないことも辛くはなかった。ほかの大人にしっかりしてるねと褒められれば得意な気持ちになったし、可哀想にと言われればむっとした。

 だが、風邪をひいて弱っているときに、家で一人布団をかぶって寝ているのはやはり寂しいのだ。誰かに傍にいて欲しかった。甘やかして欲しかった。面倒を見て欲しかった。思う端から押し込めて無視してきた望みがむくりと顔を出して、兵伍の中で膨らんでいく。

 弱っていた兵伍は、いつも理性で抑え込んでいる欲求を叶えたくて堪らなくなり、今日子の足に身を寄せ、「は、運んでくれる?」と蚊の鳴くような声で言った。今日子は驚いたようだったが、にこりと微笑み兵伍を抱き上げた。

 ベッドまで運ばれた兵伍は、それから寝入るまで、汗を拭いてもらい、冷えピタを張ってもらい、水や林檎を持ってきてもらいと、なにくれとなく世話を焼かれた。

 体は辛かったが、甘やかされる喜びに全身が満たされていた。幸せすぎて天国にいるみたいだ、と思った。

 その日の夜、喉が渇き布団を抜け出した兵伍は、居間で寄り添ってしっとりと酒を酌み交わしている健伍と今日子に気づいた。大人の雰囲気を漂わせる二人に、自分が出て行っていいものかと躊躇っているうちに、会話は進む。

「今日子ちゃん、ほんとにありがとな、兵伍のこと看病してくれて。俺、全然知らなくってさ、あいつ、あの歳で結構気ぃ遣うから、俺が仕事だと連絡してこないんだよ。でも今日子ちゃんのおかげで助かったわ」

「ううん、このぐらいなんでもないよ。たまたまあの時間に居合わせて良かった。風邪ひいてるのに一人なんて、辛いもんね」

 今日子はしみじみと言った。

「ひょーごくん、とっても可愛いよね。私の子どもになってくれたらな。でも新しいお母さんなんて嫌だよね……」

「今日子ちゃんならいつでも大歓迎だよ。兵伍も懐いてるみたいだし」

「ほんと? 私、健伍さんとひょーごくんの仲、邪魔してない? 前のお母さんのこと覚えてるんだったら、私が健伍さんと結婚するの、複雑だと思うの」

「大丈夫、あいつ全然覚えてないよ、赤んぼの時に離れてんだから。多分もう今日子ちゃんのことほとんど母親みたいに思ってるって。でも今日子ちゃんはまだ若いのに、六歳の子供の母親にならせるなんて可哀想かな」

「えっ、全然そんなことないよ! 私ひょーごくん好きだもん。嫌がられなかったら、お母さんになりたいなぁ」

「マジで? じゃ、……今度、指輪買ってきたら、受け取ってもらえる?」

「ふふ……喜んで」  

 照れ臭そうに尋ねる健伍に、今日子は満面の笑みで答える。その様子を、兵伍は期待に胸を高鳴らせながら見ていた。

 ――今まで家に来たお父さんの彼女はみんな俺のことそんな好きじゃなかったけど、きょーこちゃんは違う。凄く優しいし、お父さんがいない時でも態度が変わったりしないし、機嫌とるだけじゃなくて、俺が悪戯したら、ダメだよ、って腰に手を当てて頬を膨らませて怒る。でもそんなふうにしてもやっぱり可愛い。香水のきっつい匂いじゃなくていつもふんわり柔らかい匂いがする。ご飯作るのうまいしお菓子も作れる。あとお父さんとラブラブ。お父さん以外の男の人と付き合わないし、お金取ったりしない。きょーこちゃんがお母さんだったらいいのに。お母さんになってくれないかな。きょーこちゃん、お父さんと結婚してくれないかな。そしたら俺も、ちゃんと、家族に――






 ばちり、と目を開けた。純粋な六歳の願いが、荒んだ十歳の心に重く圧し掛かる。兵伍はあの頃住んでいた家より安っぽくなった天井と電灯を確認し、左腕で目を覆って、深いため息をついた。

「……最悪だ」

 のろのろと起き上がり、髪をかき上げながら居間に足を運ぶと、既に起きていた伊織が目を見張った。

「どうしたんですか、兵伍くん。顔色が……」

「悪夢を見た」

「え!?」

 おろおろと心配する伊織に、兵伍は苦々しい顔のまま補足する。

「平気だ。すぐ忘れてやる。あんなん過去だ、過去」

「え……」

「昔の追体験みたいな夢だったんだ。でももう終わったことだから、顔洗って飯食えば忘れ――あ?」

 兵伍は玄関に目をやった。薄い玄関ドアの向こうから、ばたばたと足音が聞こえたのだ。がちゃがちゃと鍵を開ける音もする。ドアノブが回って、入ってきたのは父である健伍、そして先ほど夢で見たばかりの女性、伊藤今日子だった。

「おはよーっ! 兵伍、留守にしててごめんな! 元気だったか? お父さんお前に会えなくて寂しかったぞ! お土産いっぱい買ってきちゃった! ってあれ、その子誰?」

 いつものごとく陽気な父親のお気楽な言葉などまるで耳に入ってこず、後ろでにこにこと愛想よく微笑んでいる今日子に目が吸い寄せられる。四年ぶりの再会だが、当時と少しも変わらぬ美貌と人当たりの良い笑顔だ。

 まだ悪い夢を見ているのかもしれない。あんなことをしておいて、のこのこ顔を出せるわけがない。兵伍は現実逃避しかけたが、騒々しく荷物を床に置いて土産物をテーブルに並べていく健伍と、控えめにそれを手伝う今日子の姿は、確かな質感を持ってそこに存在していた。

 突然の見知らぬ人物の来訪に固まっている伊織を後ろに隠すように立ち、兵伍はげんなりと呟く。

「……予知夢かよ」

 健伍の元恋人にして兵伍の女嫌いを決定的にした元凶は、昔と同じ優しげな顔で、懐かしそうに「ひょーごくん、お久しぶり」と言った。





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