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食事を済ませたあと、なんか家事任せていい?と問われた伊織は、控えめに「え? いいんですか?」と聞き返した。
「いいんですかって、何が」
「いえ、あの、私などが、お家のことに関わって」
萎縮した様子できょろきょろと周りを見渡す。やけに動作がこじんまりしていると思ったら、自分が関わる部分を減らそうとしてのことだったのか、と兵伍は呆れた。
「いいに決まってんだろ……。つーかもう住んでんだから今さらだって」
「住ん……で……?」
「住んでんだろ」
状況を呑み込めていない伊織に言い聞かせるように、強い口調で言う。
「一応うち、働かざる者食うべからずなんで、掃除とか料理とか分担してやってんだよ。まーできないこと無理にさせたりはしないから、できること言って」
「あの、掃除や洗濯ならなんとか……兵伍くんに満足していただけるかどうかはわからないですが……」
「そこまで神経質にチェックしたりしねぇよ。じゃあ、掃除やってくれる? 料理は駄目なんだっけ。俺するわ。二人分も三人分も手間は変わんねーしな。洗濯は……えーと、一応女だし、別々で洗いたいとかあるなら自分でやって」
「その、別々にした方がいいとは思うのですが、どちらにしろ私の手で洗うならあまり意味がないというか、結局汚れてしまいますので、そのことをご寛恕いただければ私が洗濯させていただきます」
「……ごめん、今なんつったかよくわかんなかった」
兵伍は眉間にしわを寄せて聞き返した。
「何? どういう意味?」
「え……あの、ですから、私が触れると、汚れてしまうのです」
「前提がおかしい。違う、俺はお前が女だから、男物の服と一緒に洗濯するのが嫌なら別々に洗濯しろって言ったんだ」
「あっ、そうでしたか、ご配慮ありがとうございます。それはお気になさらず……」
「わかった。俺の方も誰の手で洗濯されようが結果として服の汚れが、つまり物理的な汚れが取れればなんでもいいから、当番が来たらまとめて洗ってくれ。これでこの話は終わり!」
議論すると長引きそうな気配を感じたのでさっさと蹴りをつけ、兵伍は伊織を洗濯機置き場に案内した。
「まぁわかってたと思うけど洗面台の横にある。洗剤なんかは上の棚に入ってるから。柔軟剤は俺はあんま好きじゃないけどお前が使いたいなら使って」
狭い洗面所の中ででんと場所を取っている洗濯機をまじまじとみつめ、伊織は尋ねた。
「すみません、使い方がわからないので教えていただけますか?」
「え? うちの、ちょっと型が古いだけで普通のやつなんだけど……洗濯はしてたんだよな?」
「はい、手洗いで」
「手洗い!? この時代に!? え、全部?」
「はい」
「ま、マジか……」
兵伍は目を剥いた。家人の嫌がらせなのか古い家ならではの習慣なのか、判別がつきにくいところだ。伊織の白魚のようなほっそりした綺麗な手からは、そんな原始的な水仕事をしていたとは想像もつかなかった。
「ちょっと具体的に教えてくれ」
「洗い桶に水をためて、洗剤液をたらし、服をつけて置き、少ししたらゴム手袋をして洗います。汚れが強ければ専用の石鹸で擦ります」
「脱水は?」
「絞ります」
「脱水ぐらいは機械使えよ……」
この腕でよくそんなことやってたな、と兵伍は筋肉も脂肪も薄そうな伊織の腕を見ながら思う。見た目よりは逞しいようだ。
「うちそんなこだわりないから、普通に洗濯機でやろうな。えーっと、まずここの線まで水入れて――」
一通り伊織に使い方を説明したあと、寝室兼居間に移動し、押し入れから平べったい茶色のクッションを二つ引っ張り出す。
「座って。もう一個欲しい?」
「いえ、十分です、ありがとうございます」
へたりかけたクッションの上に、伊織は整った所作で正座する。兵伍は伊織の正面に座り込み、あぐらの体勢で手持無沙汰に自分の足を弄びながら、切り出した。
「……あのさ、話したくないならいいけど、昨日、お前んちで何があったのかもっかい教えてくれん? パニクってたからよくわかんねぇとこがあって」
「あ……」
伊織は暗い面持ちで視線を落とした。
「や、言えるとこまででいいから、また泣かせたくねぇし」
「な、泣きません、大丈夫です、お話しします。ごめんなさい」
早口で思い詰めたように言うので、兵伍は少し眉をひそめた。泣かせたくはないが、我慢させたいわけでもない。
「嫌なら嫌って言えよ? 俺は、なんか聞いとかねぇとすっきりしないから聞くけど、知られたくないこととかあるだろうし、どうしても言わなきゃいけないってわけじゃないからな」
「……い、言いたくは、ない、のですが」
畳の目に視線をやり、ぎゅっと手を膝の上で握り締めながら、絞り出すように伊織は言った。
「言わないのは、卑怯なので」
「卑怯じゃねーって。あ、もしか、ここに住むことで俺の言うこときかなきゃいけないって思ってんの? やめろよ、俺すげーヤな奴じゃん」
「いえ……兵伍くんが凄く優しいのはわかっています。見返りを求めるようなことをされるとは思っていません。ただ、私の、私がどれだけ汚れた存在か、お教えしないのは不誠実ですから」
苦悩に満ちた表情ながら、伊織は顔を上げ、決意を固めたように兵伍と目を合わせた。
「私は、不義の子なのです」
「……ふぎ」
ってなんだっけ、と兵伍は首を傾げた。どうも伊織は古めかしい言葉を使いすぎる。普段は一言二言わからなかったぐらいでは困らないので流していたが、今回ばかりは意味を推測しようがなかった。
「つまり、私とお母様はなさぬ仲と申しますか……その、血が繋がっておりません」
「あぁ、義理の母親ってこと? 養子だったのか」
なるほど、それで娘に冷たかったのか、と兵伍は納得するが、伊織は首を振った。
「いえ、戸籍上は実子です。ただ、お母様と結婚した男性、私のお父様にあたる人が、お母様の妹と密通し私が産まれたらしく、外聞が悪いので結婚している二人の子として育てることにしたと」
「あー……そりゃ複雑だな、浮気された方は」
「その後お父様と叔母様は揃って自動車事故に遭われて、私がまだ赤子の時に亡くなってしまわれたのです。ですから残されたお母様が大変なご苦労をなさって私を育ててくださったそうです」
申し訳なさそうにしている伊織に、兵伍は違和感を覚えた。まるで懺悔するような話しぶりが気に食わない。赤子だった伊織は何の責任もないはずなのだが。
「めんどくせぇ事情だけど、別にお前のせいじゃねーじゃん。つーかさ、『汚れてる』ってもしかしてそれが理由なの? 妹と浮気した夫の子どもだから? めちゃくちゃ個人的な恨みじゃんかよ!」
はー、と呆れとも安堵ともつかぬ溜息を吐く。
「旧家とか名家とかいうからてっきりなんか昔っからの言い伝えみてぇなもんがあんのかと思ったら、すげー単純な話だったな……。あほらし。とにかく、お前がなんかやったせいでそんな酷い扱い受けてたわけじゃないってわかったことは良かったんじゃねぇの。全っ然お前悪くねぇじゃん。そんなことでいじめる奴が悪い」
断言すると、伊織は慌てて否定した。
「い、いじめではないです、お母様は――」
「お母様とか言うなよ」
「あ、ごめんなさい、身内を様付けしたら失礼ですよね」
「いや、そうじゃなくて。そんな様付けするほど大層な奴かっていう。人の親悪く言いたかねーけどさぁ、お前がされてるのって八つ当たりじゃん」
気が抜けて体勢を崩す兵伍に、伊織はなおも言い募る。
「いえ、おかあさ――母は正しかったんです、私がいけないんです。だってその証拠に、私は先生を――」
「先生?」
そういえば、離れでも先生がどうとか言ってたな、と兵伍は思い出した。先生がどうしたというのだろう。
伊織は顔を強張らせ、か細い声で言った。
「私が先生を、さそ、誘って、」
「なに?」
「担任の、先生と、いかがわしいことを、して、私が、私のせいで」
「……は?」
兵伍は耳を疑った。いかがわしいこと。要は性的な関わりがあったのだろう。しかし、他者との接触を極端に嫌がる伊織がそんなことをするとは思えなかった。
「いや……待って、なんだそれ。お前から誘うってありえねぇだろ。触られんのあんなに嫌がってんのに」
「わ、わからな、でも、きっとなにか、あったんです、目つき、とか、いやらしい雰囲気、とか、きっと」
「ねぇよんなもん。もしあったとしても生徒に手ぇ出す奴が百パー悪ぃだろ」
「わ、私も、そう思ってました、最初は。先生から触れてきたから、生徒にいやらしいことする人だから、私は悪くないって、先生だって汚れた人なんだし、私に触って汚れても、自業自得なんだって、思ってたんです、でも――」
堪えきれなくなったのか、伊織は両手で顔を覆って隠してしまう。
「本当は、先生は普通の人で、私が誑かしたから堕落してしまったんだと、母が」
「だからお前の母親の言うこと信じるなっつってんだろ!」
兵伍は反射的に伊織の手首をがしりと掴み、下におろさせた。案の定、切れ長の瞳の端に、じわりと涙が滲んでいる。伊織は顔を背け、鼻をぐずつかせながら言った。
「な、泣いてません」
「いーよもう、それは。こんな話してれば泣きたくもなるだろ」
兵伍は手首を握ったまま、伊織をみつめる。
セクハラ、いやセクハラというのも生温い、虐待だ。生徒に手を出す教師、それを庇い子どもを責める親、ろくな大人がいやしない。ひたすらに自分が悪いと思い込む伊織の在りようは痛々しく、兵伍はまた自分の中に強烈な腹立ちと庇護欲が湧き起こるのを感じた。
「つーか、母親じゃ、ねーだろ。違ったんだろ? お前の親は。お前をいじめてた奴じゃねぇ」
「……ち、違うのでしょうか」
伊織は不安げに兵伍を見上げた。
「やはり、お母様と、呼んではいけないのでしょうか。わ、わたしに、そんな権利は、もう」
「権利?」
「き、厳しいけれど、優しくしてくれたこともあって、最近は、私が至らぬばかりに叱られることが増えましたが、それも私を想ってのことなのです。そう、仰っていたから、私は――」
ぐぅ、と伊織の喉の辺りで、何かを押し殺したような音が鳴る。
「……小さい、頃、道で、兎の着ぐるみに風船を貰って、とても嬉しかったのに、うっかり手を放してしまって……そうしたら、それを取ろうと母が、咄嗟に追いかけていってくれたのです。でもお着物ですし、風船はすぐに高く飛んで行ってしまったから、どうにもならなかったのですが、私は母がそうしてくれたのが嬉しかった。その思い出を支えに生きてまいりました。私のこと、ずっとお嫌いだったはずがないと、思いたかった。でも、もうきっと――」
俯いて、ぽつりと言う。
「二度と、微笑んではくださらないのでしょうね」
恨み言はなかった。諦めと悲しみだけがそっと吐き出され、為す術なく消えた。兵伍は慰めも怒りもできなかった。今、伊織を救えるのはここにはいない彼女の仮初の母親だけなのだ。自分は他人だ、と兵伍は痛感した。伊織の母親よりも自分の方が伊織に優しくしてやれる自信はあったが、代わりになることはできなかった。
それでも、伊織を守りたいと思った。彼女を取り巻く全ての理不尽から。悪意から。苦しみから。
兵伍は無言で、力なくだらりと垂れた伊織の手を握り続ける。繋がった体温から何かが伝わればいいと、そう願って。
力を失くした太陽は狭いアパートの一室に寂しげな影を落とし、ゆっくりと地平線に沈んでいく。辺りが完全に暗くなるまで、二人は身じろぎもせずその場にじっと座り込んでいた。




