10
家に帰り、真っ先に伊織がいることを確かめる。窓から差し込む光は、昼間の太陽の名残りのようなぼんやりした明るさで、もうすぐ日が沈むことを予感させたが、電灯はついていなかった。静かな部屋の中、深く俯いた少女は定位置の椅子の上に微動だにせず座っていた。兵伍が帰ってきたことに気づいたのか顔を上げ、すぐに背ける。
「なに、なんかあったのか」
「い、いえ、あの、すいません、違います、お、お帰りなさい」
声が震えていたのでもしやと思い近づいて顔を覗き込むと、やはり涙が流れた痕が見える。
「泣いてんのかよ」
「ちが、め、目にゴミが入って」
「は? 今さら泣いてることに驚いたりしないけど? なんでそこ気ぃつかってんの?」
兵伍はランドセルをテーブルに下ろし、ティッシュを数枚とって伊織の目元に押し当てた。それを受け取りながら、伊織は隣の椅子にずれて兵伍と距離を取る。
「……ひ、兵伍くんは優しいから」
俯きながら話す声は、相変わらず弱々しい。
「私が、泣いたりしたら、その、優しくしようとしてくれるでしょう。絶対、私なんかほっといたほうがいいのに、本当に優しくて、こ、こんな、嫌われるような、汚れた人間に、いろいろ、いろいろしてくれてっ……。私がずっと泣いて、泣いたり落ち込んだり、してるから、兵伍くんは、優しくするしかない、優しい人だから。でもそんなの、正しくないんです、気にしなくていいの、捨ててください、私のこと、放り出してください、優しくされたら、嬉しいから、嬉しいって思わせないで、やっ、優しくしないで……あなたに、頼りたくない……」
話すうちにまたこみ上げてきたのか、ひぐ、と喉を鳴らす。兵伍は眉間にしわを寄せ、伊織の隣に座った。言いたいことは山ほどあったが、感情に身を任せると傷つけてしまいそうで口を開けなかった。
伊織といると苦しいことばかりだ。何かしてやりたくて、何もできなくて、己の不甲斐なさに腹が立つしそう思わせる伊織にも八つ当たりしたくなる。伊織の薄く骨ばった肩も、憔悴したような表情も、少しほつれて乱れた髪も、膝元で強く握りしめられている拳も、何もかもが兵伍を堪らない気持ちにさせ、そんな自分に嫌気がさした。
冷静で合理的な判断ができない。大人で気の利いた一言が出てこない。沸き上がる衝動を抑えるため、兵伍はいったん目を瞑り、深く長い息を吐いた。熱い息と共に怒りや焦燥を散らし、クリアな自分を取り戻す。
「ばかじゃん」
呟くように言った言葉に、伊織の肩がびくりと揺れる。その肩に向かって兵伍は続ける。
「お前連れてきたらめんどくさいことになるなんて、最初からわかってんだよ。でもお前が泣いてるの見たらさ、どうしようもなくなる。お前が悪いんじゃなくて、俺の問題なんだよ。お前が泣くの、すげーキツい。めちゃくちゃ優しくしたいし、お前が楽になれるようになんでもしてやりたい。そういう自分に腹立つけど、でももうしょうがないんだ」
父親と同じような人間になりたくなくて、恋人にいいように使われているのにへらへらしている顔が嫌いで、甘ったるい笑顔と嘘泣きで父親を骨抜きにする女が憎くて、あんなものとは一生関わるものかと思っていた。恋なんかしない。女には近づかない。利用される側にはならない。
それでも、そんな決意を全部投げ捨てるほど助けたいと思ったから、伊織をここに連れてきた。
「俺はもう覚悟を決めた。お前も俺に助けられる覚悟を決めろ」
強い語調で言い切る。伊織はおずおずと目線を上げ、兵伍を伺い見た。
「……ひょうごくん」
鼻声で懸命に何かを言おうとする。
「わ、わたしは、わた、ぅう……」
その先は言葉にならず、手で顔を覆った。細い指の隙間から涙の雫がこぼれ落ちる。兵伍がじっとみつめる中、伊織はひたすら泣いていた。
やがて水分が枯れたのか、やっと手を外した伊織は落ち着きを取り戻したように見えたが、泣き疲れたらしくふらりと何度か頭を揺らした。
「……あの」
「うん」
「ごめんなさい。帰宅早々、こんな……」
「いいよ。予想してたし」
「う……な、情けないです……申し訳ない……もう泣かないようにします」
「うん。いや、泣かないならその方がいいけど、一人で泣くのは意味ねーからな」
念のために言うと、伊織は困ったように眉尻を下げた。一人で泣くつもりだったようだ。
「つかなんか暗いな。気も滅入るわ。灯りぐらいつけようぜ」
兵伍は立ち上がって照明のスイッチを押しに行く。パチ、という音とともに居間に光が満ちた。眩しそうに瞬きする伊織の目は赤く充血し、ふちも腫れている。濡れタオルでも持ってくるか、と兵伍が考えていると、伊織は気まずそうに切り出した。
「ひょ、ひょうごくん」
「なに」
「あの……いえ、いいです、すみません」
「言えよ。言わねぇほうが困る」
兵伍が促すと、伊織は一度目を伏せ、数秒の逡巡のあと、意を決したように見上げた。
「……大変図々しくて申し訳ないのですが、その、お腹が……」
「腹空いてきたの」
「はい……」
「良かった」
「え」
「作ったもん残されるより、なんか食いたいって言われる方がずっといいよ」
「あっ、ごめんなさい、朝」
残してしまった、と青くなる伊織に、「無理しろって言ってるわけじゃねーから」と補足する。
キャベツと豚肉残ってるな、回鍋肉にでもするか、と台所に立って兵伍は気づいた。すぐに温めて食べられるようにと、フライパンの上にのせたままで蓋をしていた焼きそばが減っていない。
「つかお前焼きそば食ってねぇじゃん。嫌いだった?」
兵伍が尋ねると、伊織は驚いたように目を見開く。
「えっ、作っててくださったんですか!」
「お前……人の話を聞け……」
今朝の兵伍の不安は的中した。不安定な精神、起き抜け、他人の家、などのストレスがかかる条件下にあった伊織は細々した注意を理解するどころではなく、「腹減ったらこれ食えよ」を聞き流していたらしい。
朝食のトースト半分と目玉焼き一つで五時まで過ごしたなら、空腹にもなるはずである。マジでちゃんと見てねぇとすぐ死ぬなこいつ、と兵伍は頭を抱えたくなった。
「クーラーきいてっから傷んではないと思うけど……うん、匂い変じゃない、味もよし。いけるいける。お前は顔洗って来いよ、すっきりするぞ」
「はい」
伊織はこくりと頷き、洗面台に向かった。それを横目で見つつ、兵伍はコンロの火をつけ、菜箸でじゃっと具をかき混ぜながら焼きそばを温めなおしていく。
何か食べたいと申告するだけのことをあれほど躊躇うのは、自分が余所者で迷惑をかけているという認識だからだろうか。伊織の居た堪れなさそうな顔を思い浮かべながら、兵伍は考える。兵伍が学校に通っている間、伊織がやることがあれば少しは楽になれるかもしれない。自分も役に立っていると思わせることができれば。
元々遠慮深かった伊織の性格は、一度実家に帰ってからますます卑屈になってしまった。親に何か責めるようなことを言われたのは確実だが、その内容を聞いていいものかどうか兵伍にはわからない。思い出させたらまた傷つくかもしれない。しかし早々に聞き出して第三者として否定してやったほうがいいのかもしれない。
結局自分は子どもなのだと、兵伍は何度目かの無力感に襲われた。経験値が足りない。正解が見えない。それでもなんとか自分の手が届く範囲でやっていくしかない。伊織を助けると決めた心は、もう動かしようがないのだから。




