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誤字脱字は脳内補完でお願いします。

高遠の生活は質素そのものだ。朝は7時頃に起きて、昼間から夜8時ごろまで交通量調査のアルバイトをし、そこから家に帰ると一日はすぐに終わってしまう。《真実書記官》を退職してから時間が経ち、この生活にも慣れてきたが、最初は絶望の淵に立たされているような気分だった。

 高遠のそれまでの人生は順風そのものだった。小学校を卒業するまでには彼は数学、論理学、言語学の才能を示し始め両親の期待を一身に背負っていた。特別な英才教育を受けたわけでもない彼の才能をどこで聞きつけたか、《記録省》は中学生の高遠に接触し、《真実書記官》の素養を見込んで彼を特別な施設に収容した。そこからほとんど両親には会えない日々が続いた。毎日が朝から晩まで講義が続き、夜は倒れ込むように床についた。それでも彼がその日々に嫌気がささなかったのは、自分の才能が芽生えていく過程が楽しくて仕方なかったからだ。《真実書記官》の記述法を修得したときは、まるで自分が神になったような錯覚さえ覚えた。

 文字列を見るだけで、まるで映画を見るように自分の中にあらゆる情報がなだれ込んでくる。自分がその場にいるように、においや味を感じることができる。大樹の葉からこぼれ落ちる日光、荷馬車を引く馬の嘶き、蛹から孵った蝶の最初の羽ばたきさえ、その一つ一つの動きや音が手に取るようにわかった。

 施設での生活は制約が多く辛い経験もたくさんあったが、この衝撃的な体験の快楽を知ってしまった高遠少年にとってはそれらは些事にすぎなかった。実際に《真実書記官》として働き始めても、その喜びは変わらなかった。このままここで朽ちていくだろうと思っても、何ら不満はなかった。世界の真理を手にする快楽は、彼にとって最上のものだったのだ。

 ただ、それ以上の喜びを知らなかったのが彼の不幸だったといえるかもしれない。

 ある出会いが、彼の運命を大きく変えてしまう。その出会いは彼の根幹を揺るがし、崩してしまった。

 そして彼は《フクロウ》の鉄則を破ってしまった。


 ”憎むな、愛するな”。


 高遠直也はそれを破ってしまったのだ。

 

※※※


「RSI、シニフィエ、シニフィアン・・・・・・うーん」

 高遠から借りた本を勢いよく閉じる。もう何時間も同じ姿勢で本を読み続けていたから背中の筋がおかしい。

 凝りをほぐすようにして自分のデスクで大きく一つのびをして、真美は天井を見上げた。見慣れた薄汚れた《オペレーション・ジャーナル社》の天井だ。長年たばこの煙を吸わされ続けてきたそれは黄ばんで亀裂が入っている。昔は白かったはずのそれも、今では目も当てられぬほどに濁った色をしている。

 まるで今の自分のようだな、とひとりごちる。

 入社当時の真美は会社側からも期待された新人で、本人もそれに応えようと努力していた。それは今も変わらぬはずなのだが、いかんせん経営陣は真美を腫れ物扱いだ。あの記事撤回以降、左遷の話や退職の話が持ち上がったが、真美は何とか堪えてきた。

 だが、もうそれも限界。圧力に一人で耐えきるのも辛くなってきており、きたる人事異動にはおそらく記者としての職を失うことになるだろう。

 せめてそれまでにいい記事を書いておきたい、というのが真美の心からの願いである。であるのだが。

「だめだっ! さっぱりわかんない。これ、彼らの記述法の理論を理解するのには役立つけど、これだけで解読できるわけでもないし」

 そうぼやきつつ、あのメモを取りだした。ジップロックに大切に保存してあるそれは、実際に《778号事件》の裁判で証拠として提出されたものだ。とあるルートを介して手に入れたのだが、その肝心の内容がわからない。事件現場の状況とこのメモに書いてある記述を照らし合わせればおそらく綻びが見えてくるはずだと踏んだ真美の予感は、あの記事を書いた当時は失敗に終わった。メモの内容は裁判でわかりやすく口語訳されたのだがその説明は完全に被疑者が有利となるものだった。おかしいと感じた真美は原文に当たろうとこれを手に入れたわけだが、そこで行き止まってしまったのだ。

 読めない文章を元に記事を作るわけにもいかず、決定的な根拠を欠いたまま彼女は記事を書き上げ、それが《週刊OJ》に載った。聖域と化していた《記録省》を切り裂いたその記事は瞬く間に流布されるとともに、同時に真美の記者としての信用を地に墜とすきっかけにもなった。しかし真美は諦めず、今でもこのメモの読解法を探して歩いている。もちろん《記録省》や《情報審査会》に出向いて新しい情報公開を求めるのも続けてはいるが、この一年で成果が出たことはない。

「頼むよ。あんたにかかってるんだから」

 そういってメモを見つめる真美の言葉には、切実な想いが込められていた。

「おい、水野。お前に伝書」

 そうしてメモを見つめていたそのとき、編集長の長井がその巨躯を揺らしながら真美のデスクへとやってきた。額には大粒の汗。”常夏の長井”の異名で呼ばれ、そこにいるだけで気温が2℃は増すと言われているほどの彼の大きな手の中には、言葉通り小さな紙が握られていた。

「誰からです?」

「お前な、俺は人の手紙を盗み見るほど墜ちた人間じゃないぞ」

「体重も落ちませんもんね」

 さらっとひどいことを言って、彼女はそれを受け取った。一方の長井は、こめかみに血管が浮かばせてわなわな震えている。

「水野、次の人事異動は覚えておけ。人事部には俺の古くからの知り合いがいるんだ。俺がここで編集長をしている間、これ以上お前に不祥事は起こさせないぞ」

「それまでにもう一騒ぎ起こしますから安心してください」

 舌打ちをしつつ長井は離れていき、それを見届けてから真美は伝書を丁寧に開いた。

 そこには「中谷結衣」の文字がきれいな明朝体でペン字で書かれていた。

 内容は至極単純なものだった。


『会社の前に来ています。これから会えますか?』

 

続く……

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