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今回は説明パートですが……すみません、本をざっくり読みながら書いたので思想的に間違った記述があるかもしれませんが大意はつかめると思います。おかしいよ‼︎と思われた方は教えてくだされば検証して直します。
近代言語学の父、ソシュール。
彼の提唱したシニフィアン、シニフィエという考え方は《審判の日》以前からでも言語学では基礎的な概念だった。「表すもの」ー「表されるもの」を意味するそれらの語の関係は、例えるならばこうだ。
目の前に犬が一匹いたとしよう。人間はその犬を指して様々言語を用いて表現しようとする。日本語ならば「犬」、英語ならば「Dog」、中国語ならば「狗」。しかしあらゆる言語に共通するのは、その音声言語の記号(=シニフィアン)はそれ自体が”イヌ”という概念(=シニフィエ)を内包しているわけではなく、それを対象化し指し示すことによってその言語を使用する者にイヌという存在をイメージさせているということだ。つまりイヌという概念を表現するのに「猫」や「鳩」などと呼んでもよかったが、我々はそれを「犬」という記号と「いぬ」という発音で表現し、理解しているというわけだ。
その後彼が考え出した言語規則=「ラング」という概念を参照し、《記録省》は全く新しい言語体系を作り出した。
紙とペンだけで情報を正確かつ詳細に記述するための、全く新しい「ラング」。日本語でも英語でもなく、それは記号に近い。シニフィエとシニフィアンを直接結びつけることができたならば、ある一匹の犬を表現するために修辞に苦労したりしないはずだ。そう彼らは考えた。犬といっても大きいのか小さいのか、白いのか黒いのか、日本犬なのか洋犬なのかでだいぶ指し示される内容は違う。従来の言語はその違いを「犬」という単語だけでは指し示しきれず、その前後に形容詞や修飾語を必要とした。しかしその過程ではあまりに個人差が出てしまう。一匹の犬を表現するのに「大きい」のか「小さい」のか、「白い」のか「グレー」なのかはそれを表現する者にとって悩ましい問題だった。文学活動などではなくあくまで防犯カメラなどの代わりとして活躍を期待される者たちとって、従来の言語体系はあまりに主観的に過ぎた。
それはシニフィアンとシニフィエが元来分離されているからだ、と考える学者たちがいた。そして彼らが作った《真実書記官》専用の記述法は、それらの区別を必要としないことを前提とされ研究が進んでいった。
ここでソシュールの影響を受けたラカンのRSIという概念が取り入れられたのである。
ラカンはその理論の中で世界を三分割した。
現実界。象徴界。想像界。
現実界はこの世の真実そのものであり、我々人間が生きる現実である。だがこの現実は人によって認識法、語り方が異なり言語で表現することは不可能だ。これは真美にとってはわかりやすい。ある一つの事件の取材をしても、事実認識は人によって違う。それを総合し、できるだけこの現実界に近づけようとするのが真美の仕事である。しかしそれは「限りなく現実界に近いもの」ではあれど、「現実界」そのものではない。真美がどんなに努力しようとも、それは世界そのものの記述ではなく「想像界」(=人間一人一人が知覚し認識しているこの世界)の集合体でしかない。客観性は増すが、いくら集積したところで不十分であることにはかわりない。最後の「象徴界」とは言語活動の場のことで、他者が存在する場所だ。真美が活躍するジャーナリズムの世界でとらえればわかりやすいかもしれない。
まとめれば、真美は「象徴界」によって「想像界の集合体」を表現し、それによって「現実界」に接近しようとする職業であるといえるだろう。しかしこれとは違い、《真実書記官》たちの記述法は独特だ。この表現からすれば、彼らは「想像界」と「現実界」を直接接合し、その認識を彼ら独自の「象徴界」の文法によって表現するのである。
たとえるなら、バーコードとバーコードリーダーの関係。特殊な言語を視覚的情報として受け取り、再生できる者たち。
それは並大抵の人間では不可能だ。現実界を認識できる存在は神を他におらず、人間をやめることでしかそれを感じることはできないはずだ。
では、《真実書記官》とはいかなる存在なのか。
真美の疑問は一層深まっていく・・・・・・。
続く……