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都内某所。
中谷に教えられた通りの住所に来てみると、その住まいはあまりにも粗雑極まるものだった。よくある二階建てアパートなのだが、看板は傾いているし、階段は腐食が進んでいて上を歩くとぎしりと軋む。《真実書記官》というこれ以上ない特権を持った技能者職員の住まいとは思えない。むしろ真美のような落ちぶれた二流紙記者が糊口をしのぎつつ住んでいる、と言われた方がよほど説得力がある。
真美は生唾を飲み込み、自らを奮い立たせた。一歩一歩確かめるように、その男の部屋に向かって歩みを進めていく。ドアをノックして、そのまま直立不動で待った。『高遠直也』と書かれた表札からは、まるでタイプ打ちされたように精緻な印象を受ける。
この先に、あれだけ話を聞きたかった《真実書記官》がいるのだ。もう退職したということだが、かつて《フクロウ》だという男とはいったいどのような人間なのだろうか。
いつも街で見かける彼らは、不気味な鴉のよう。闇に紛れて、人格も感情もないようにひたすら筆記し続けている。それでも夜の賢者たる梟の異名を持っているのには、もちろん理由がある。
《真実書記官》は、誰もができる仕事ではない。言語学に精通し、暗号解読の技術や、筆記、計算のノウハウも一流以上でなければならない。一人一人が知の宝庫だからこそ、梟の異名を冠されているのだ。
この職に就くことのできる選ばれた人々は、常に《記録省》が選別している。彼らは学校で義務化されたIQテストをはじめとして、ありとあらゆる機会に《真実書記官》の素質をもつ人間がいないか目を皿にして探しているのだ。そして選ばれた天才たちには職業選択の自由が認められない。ノブレス・オブリージュ。高貴な者の責務として、彼らは国に尽くすことを義務づけられるのである。
今こうしてジャーナリストとして働いている真美は、もちろんその一流の頭脳を持つ「選ばれた人間」の枠から落とされてしまったわけだ。しかし同じ「事実を伝える」という職業だ。興味がないわけがない。《778号事件》云々の前に、そういう知的好奇心が彼女の心をこれまでずっと揺さぶってきた。
ごと、と扉の向こう側で物音がした。誰かが玄関先にいる。
真美は緊張して自分の拳が真っ白に染まるまで握りしめている。
「何だ、あんたは」
扉が開かないまま、向こう側で男の低い声がした。くぐもっているが、真美のことをよく思っていないのはよくわかる。そんな声質だった。
「《オペレーション・ジャーナル社》の記者をやっている水野真美と言います。お話を伺いにきました」
震える声を必死におさえつつ、真美はそう返した。
「聞いたことのある名前だな。俺に何の用だ」
声は相変わらず警戒心を解こうとしないまま、向こう側で真美を値踏みしているようだった。
真美もここでは引き下がれぬ、とばかりにドアに手を添えつつ小声で高遠に囁く。頬には冷や汗が流れていく。
「あなたが《フクロウ》のことをよく知っている方だと聞いてきました」
高遠は一瞬の空白の後、ドアの向こうで身じろぎしたらしかった。ドアに何かの金具が当たってガン、と響いた。
「野鳥の研究なら大学の生物学の教授にでも聞いてきな」
結局そう素っ気なく高遠は顔さえ見せずに言い捨てる。彼の気配が、部屋の奥へと消えていこうとした、その時。
「中谷結衣さんの紹介です」
真美はそういって、ドアの隙間から中谷からもらった名刺を部屋の中に差し出した。高遠の気配はまだそこにちゃんと残っていた。
「結衣が……中谷が、お前を寄越したのか?」
「はい」
「……そうか」
そういって高遠は一瞬迷ったようだったが、結局ドアのチェーンを外してドアの隙間からその顔をのぞかせた。
「入りな」
高遠直也。
元《真実書記官》だという彼の顔には隈が色濃く縁取られ、無精髭がだらしなく延びていた。ただその肌の張りや目の輝きだけは確かで、冴えない風体の中でもその知性の片鱗だけは伺うことができた。
(まだ若い。わたしや中谷さんと同じくらいだ)
真美は予想していたようなエリートの中年男性というイメージを吹き飛ばされ、動揺しつつも彼の部屋の中に入っていくのだった。
続く……