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お嬢様を捨てた殿下へ――ただの侍女ですので、王城の鍵を全部お返ししますね

作者: 葉山みのり
掲載日:2026/07/30

王城の鍵を二百十一本、十年あずかっていた侍女の話です。

一話で終わります。申し送りは、差し上げようとしました。

 王太子殿下がお嬢様との婚約を解かれたのは、収穫祭の五日前だった。


 大広間には人が集まっていた。文官が十七人、女官が九人、近衛が四人。数えたのは癖である。人の数を数えると、その日に開く扉の数がおおよそ分かる。


 殿下は壇の上でよく通る声を出しておられた。心の在り処がどうとか、家同士の取り決めに縛られる時代ではないとか、そういうお話だった。伯爵ごときの娘には荷が勝ちすぎたのだ、とも仰った。お嬢様は壇の下で背筋を伸ばしたまま、それを一言も遮らずに聞いておられた。


 わたしはお嬢様の三歩うしろに立って、殿下の背後を見ていた。記録室の扉が、開いていた。半分ではない。人ひとりぶん、まるごと開いている。中で書記官が筆を走らせているのが、ここからでも見えた。


 殿下がひととおり仰り終えて、大広間が静かになった。わたしは一歩、前に出た。


「恐れながら、殿下」


「……なんだ」


「記録室の扉が、開いております」


 殿下の眉が寄った。


「今、何の話をしていると思っている」


「ご婚約解消のお話でございます」わたしは申し上げた。「ですので、記録室の扉が開いていることをお報せしております」


 殿下には通じなかったようだった。通じていれば、あの日のうちに扉は閉まっていたはずである。


「侍女ごときが、口を挟むな」


 大広間の空気が少し動いた。文官のうち三人が下を向いた。うち一人は、先週わたしから書庫の鍵を借りて、まだ返していない方だった。


 わたしは腰を折った。


「かしこまりました」


 それから、顔を上げて申し上げた。


「ただの侍女ですので、王城の鍵を全部お返ししますね」


    ◇


 鍵盤の間は、王城の北の端にある。壁一面に木の板が張ってあり、そこに鉤が打ってある。鉤は二百十一。鍵の掛かっていない鉤を見れば、どの鍵が今どなたの手に出ているかが分かる。貸出簿を開くまでもない。


 わたしは十年、この部屋にいた。正式な職名はない。名簿の上では「侍女」としか書かれていない。ただ、王城の扉に鍵を差す者は、まずこの部屋に来て、貸出簿に名を書き、わたしから鍵を受け取ることになっていた。誰に渡してよいか、いつ錠を替えるか、それを決めるのもこの部屋の仕事だった。


 わたしは鉤に、一本ずつ掛けていった。衣装庫が三本。食料庫が十一本。記録室が二本。宝物庫が一本と、その控えが一本。地下の氷室が四本。西の回廊の窓の錠が二十二本——窓に錠があることを、王城で覚えているのは今のところ二人しかいない。そこまでで四十四本。残りは廊下と階段と、名前のない小部屋の鍵である。


 二百十一本目を掛け終えて、貸出簿を閉じた。それから、机の上に紙束を置いた。二十七枚ある。三日かけて書いた。どの鍵がどの扉のものか、誰に渡してよく誰に渡してはいけないか、どの錠がいつ替えられていて、どれがまだ替えられていないか。字は綺麗ではないが、読める。


 殿下の侍従の方が、それを手に取った。


「これは」


「申し送りでございます」


 侍従の方は一枚目を見て、二枚目を見て、それから殿下のほうを見た。殿下は扉のところに立っておられる。わたしが本当に鍵を全部置いていくかを、見に来られたのだと思う。


 殿下は紙束を一瞥して、仰った。


「侍女ごときの書いたものを、王城に残すな」


 侍従の方は、二十七枚を二つに裂いた。それから、四つに裂いた。わたしは口を挟まなかった。ここで何か申し上げても、裂かれた紙は元に戻らない。それに、あの二十七枚に書いてあることは、全部わたしの頭の中にもある。ただ、頭の中にあるものは、王城には残らない。


 殿下が出ていかれたあと、部屋には近衛の方が一人残った。名を、ヴィント様という。二十八。この十年、鍵を借りて返さなかったことが一度もない、王城で唯一の方である。その方は鍵盤の前に立って、鉤を数え始めた。


「……何を、なさっているのですか」


「数えている」


「二百十一で合っております」


「あなたが言うなら合っているのだろう」ヴィント様は数えるのをやめずに仰った。「だが、あなたはもういない。いない人の言葉は、証にならない」


 その方は最後まで数えて、それから貸出簿を開いて、最後の頁に受領の印を押された。二百十一。ひとつずつ、二百十一回。わたしは、その音を聞いていた。


    ◇


 お嬢様は、荷を三つにまとめておられた。アデール様。伯爵家のご息女で、十九におなりになる。わたしがお仕えしたのは、お嬢様が九つ、わたしが十六のとき——お嬢様が婚約者として王城に上がられた日である。


「セリカ」お嬢様は仰った。「あなたは、一緒に来なくていいのよ」


「なぜでございましょう」


「わたしはもう、王太子妃にならないわ。伯爵領に帰るだけ。あなたはここで十年やってきたのだから、ここに残ればいい。あなたを雇っているのは王城で、わたしではないもの」


 お嬢様は昔から、ご自分より人の勘定を先にされる。わたしは腰を折って申し上げた。


「お嬢様のものではない鍵まで、置いていくわけには参りません」


 お嬢様がこちらを見た。


「……それ、意味が通っている?」


「通っておりません」わたしは申し上げた。「ですが、そういうことでございます」


 お嬢様はしばらく黙って、それから笑われた。あの日、笑われたのは一度だけだった。


「伯爵領に帰ったら」お嬢様は仰った。「鍵のいらない家を作るわ。閉めなくていい家。そういうものが作れるか、あなたと試してみたい」


「錠前屋が泣きます」


「泣かせておきなさい」


    ◇


 伯爵領の冬は、王都より二十日ほど早く来る。閉ざしの月に入って、王都の噂が三つ、順に届いた。


 ひとつめ。王城の砂糖が、収穫祭から二週間で尽きたそうである。食料庫の鍵は十一本あって、そのうち三本は厨房の者に渡してよく、四本は渡してはいけないものだった。二十七枚の一枚目に書いてあった。


 ふたつめ。あの日の議事録が、写されて出回っているそうである。記録室の扉は、あれから一度も閉まっていないと聞いた。写しは王都の外まで流れて、殿下が壇の上で仰ったこと——心の在り処のくだりも、「伯爵ごときの娘」も、そのあとに続いた「侍女ごときが」も、そのまま国じゅうが読んだ。


 みっつめ。夜半に、宝物庫の前に人が立っていたそうである。何も取られてはいない。ただ、その者が持っていたのは、先代の頃の鍵だった。先代の鍵は三十七本、まだ替えられていない。替え時が来ていることは、二十七枚の十九枚目に書いてあった。


 わたしは三つとも、伯爵領の台所で聞いた。鍋の前に立ったまま、少し考えた。あの二十七枚を、去る日になってから三日で書いたのは、わたしの落ち度である。十年のうちのどこかで書いておけば、裂かれる前に誰かが一度くらいは読んでいたかもしれない。わたしがいなくても回るようにしておけば、よかったのだ。


 それをしなかったのは、たぶん、少し怖かったからだと思う。思っただけで、口には出さなかった。


    ◇


 芽出しの前に、王都から包みが届いた。差出人はヴィント様だった。中には、貸出簿の最後の頁の写しが入っていた。受領の印が二百十一。ひとつも欠けていない。余白に、字が三行あった。


『二百十一本、全て受領した。

 あなたはもう、何も預かっていない。

 ゆえに、これはあなたが返すべきものではない』


 包みの底に、鍵が一本あった。わたしは、それを持ち上げた。王城の鍵ではない。頭のかたちが違う。柄に彫りがなく、王家の刻印もない。この十年に鉤へ掛けた二百十一本のうち、どれにも似ていなかった。王城のどの錠にも、これは合わない。


 では、どこの錠に合うのか。


 わたしは、それを持ったまま、しばらく立っていた。

ここまでお読みくださって、ありがとうございます。


セリカが最後の鍵をどうしたかは、書かないでおきました。

彼女は十年ぶんの手続きを覚えている人なので、たぶん、まず持ち主を確かめに行くと思います。


この「葉山みのり」名義では、一話で終わる話を書いています。


・跡継ぎを十四年仕込んでいた妻の話 『「初恋の方のお子を跡継ぎに」と仰いますので、娘と出てまいります』

 https://ncode.syosetu.com/n7238mn/

・白い布を三年ぜんぶ縫っていた妻の話 『婚姻届に旦那様の署名がありませんでしたので、この白い結婚は無効です』

 https://ncode.syosetu.com/n7246mn/

・鳴っていない鐘の刻に断罪された令嬢の話 『聖女を突き落とした刻、わたくしは宰相閣下と密室におりました』

 https://ncode.syosetu.com/n7247mn/

・庭の隅で蜂を飼っていた妻の話 『白い結婚を終えましたので、蜜蜂と辺境へ参ります』

 https://ncode.syosetu.com/n7249mn/


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