お嬢様を捨てた殿下へ――ただの侍女ですので、王城の鍵を全部お返ししますね
王城の鍵を二百十一本、十年あずかっていた侍女の話です。
一話で終わります。申し送りは、差し上げようとしました。
王太子殿下がお嬢様との婚約を解かれたのは、収穫祭の五日前だった。
大広間には人が集まっていた。文官が十七人、女官が九人、近衛が四人。数えたのは癖である。人の数を数えると、その日に開く扉の数がおおよそ分かる。
殿下は壇の上でよく通る声を出しておられた。心の在り処がどうとか、家同士の取り決めに縛られる時代ではないとか、そういうお話だった。伯爵ごときの娘には荷が勝ちすぎたのだ、とも仰った。お嬢様は壇の下で背筋を伸ばしたまま、それを一言も遮らずに聞いておられた。
わたしはお嬢様の三歩うしろに立って、殿下の背後を見ていた。記録室の扉が、開いていた。半分ではない。人ひとりぶん、まるごと開いている。中で書記官が筆を走らせているのが、ここからでも見えた。
殿下がひととおり仰り終えて、大広間が静かになった。わたしは一歩、前に出た。
「恐れながら、殿下」
「……なんだ」
「記録室の扉が、開いております」
殿下の眉が寄った。
「今、何の話をしていると思っている」
「ご婚約解消のお話でございます」わたしは申し上げた。「ですので、記録室の扉が開いていることをお報せしております」
殿下には通じなかったようだった。通じていれば、あの日のうちに扉は閉まっていたはずである。
「侍女ごときが、口を挟むな」
大広間の空気が少し動いた。文官のうち三人が下を向いた。うち一人は、先週わたしから書庫の鍵を借りて、まだ返していない方だった。
わたしは腰を折った。
「かしこまりました」
それから、顔を上げて申し上げた。
「ただの侍女ですので、王城の鍵を全部お返ししますね」
◇
鍵盤の間は、王城の北の端にある。壁一面に木の板が張ってあり、そこに鉤が打ってある。鉤は二百十一。鍵の掛かっていない鉤を見れば、どの鍵が今どなたの手に出ているかが分かる。貸出簿を開くまでもない。
わたしは十年、この部屋にいた。正式な職名はない。名簿の上では「侍女」としか書かれていない。ただ、王城の扉に鍵を差す者は、まずこの部屋に来て、貸出簿に名を書き、わたしから鍵を受け取ることになっていた。誰に渡してよいか、いつ錠を替えるか、それを決めるのもこの部屋の仕事だった。
わたしは鉤に、一本ずつ掛けていった。衣装庫が三本。食料庫が十一本。記録室が二本。宝物庫が一本と、その控えが一本。地下の氷室が四本。西の回廊の窓の錠が二十二本——窓に錠があることを、王城で覚えているのは今のところ二人しかいない。そこまでで四十四本。残りは廊下と階段と、名前のない小部屋の鍵である。
二百十一本目を掛け終えて、貸出簿を閉じた。それから、机の上に紙束を置いた。二十七枚ある。三日かけて書いた。どの鍵がどの扉のものか、誰に渡してよく誰に渡してはいけないか、どの錠がいつ替えられていて、どれがまだ替えられていないか。字は綺麗ではないが、読める。
殿下の侍従の方が、それを手に取った。
「これは」
「申し送りでございます」
侍従の方は一枚目を見て、二枚目を見て、それから殿下のほうを見た。殿下は扉のところに立っておられる。わたしが本当に鍵を全部置いていくかを、見に来られたのだと思う。
殿下は紙束を一瞥して、仰った。
「侍女ごときの書いたものを、王城に残すな」
侍従の方は、二十七枚を二つに裂いた。それから、四つに裂いた。わたしは口を挟まなかった。ここで何か申し上げても、裂かれた紙は元に戻らない。それに、あの二十七枚に書いてあることは、全部わたしの頭の中にもある。ただ、頭の中にあるものは、王城には残らない。
殿下が出ていかれたあと、部屋には近衛の方が一人残った。名を、ヴィント様という。二十八。この十年、鍵を借りて返さなかったことが一度もない、王城で唯一の方である。その方は鍵盤の前に立って、鉤を数え始めた。
「……何を、なさっているのですか」
「数えている」
「二百十一で合っております」
「あなたが言うなら合っているのだろう」ヴィント様は数えるのをやめずに仰った。「だが、あなたはもういない。いない人の言葉は、証にならない」
その方は最後まで数えて、それから貸出簿を開いて、最後の頁に受領の印を押された。二百十一。ひとつずつ、二百十一回。わたしは、その音を聞いていた。
◇
お嬢様は、荷を三つにまとめておられた。アデール様。伯爵家のご息女で、十九におなりになる。わたしがお仕えしたのは、お嬢様が九つ、わたしが十六のとき——お嬢様が婚約者として王城に上がられた日である。
「セリカ」お嬢様は仰った。「あなたは、一緒に来なくていいのよ」
「なぜでございましょう」
「わたしはもう、王太子妃にならないわ。伯爵領に帰るだけ。あなたはここで十年やってきたのだから、ここに残ればいい。あなたを雇っているのは王城で、わたしではないもの」
お嬢様は昔から、ご自分より人の勘定を先にされる。わたしは腰を折って申し上げた。
「お嬢様のものではない鍵まで、置いていくわけには参りません」
お嬢様がこちらを見た。
「……それ、意味が通っている?」
「通っておりません」わたしは申し上げた。「ですが、そういうことでございます」
お嬢様はしばらく黙って、それから笑われた。あの日、笑われたのは一度だけだった。
「伯爵領に帰ったら」お嬢様は仰った。「鍵のいらない家を作るわ。閉めなくていい家。そういうものが作れるか、あなたと試してみたい」
「錠前屋が泣きます」
「泣かせておきなさい」
◇
伯爵領の冬は、王都より二十日ほど早く来る。閉ざしの月に入って、王都の噂が三つ、順に届いた。
ひとつめ。王城の砂糖が、収穫祭から二週間で尽きたそうである。食料庫の鍵は十一本あって、そのうち三本は厨房の者に渡してよく、四本は渡してはいけないものだった。二十七枚の一枚目に書いてあった。
ふたつめ。あの日の議事録が、写されて出回っているそうである。記録室の扉は、あれから一度も閉まっていないと聞いた。写しは王都の外まで流れて、殿下が壇の上で仰ったこと——心の在り処のくだりも、「伯爵ごときの娘」も、そのあとに続いた「侍女ごときが」も、そのまま国じゅうが読んだ。
みっつめ。夜半に、宝物庫の前に人が立っていたそうである。何も取られてはいない。ただ、その者が持っていたのは、先代の頃の鍵だった。先代の鍵は三十七本、まだ替えられていない。替え時が来ていることは、二十七枚の十九枚目に書いてあった。
わたしは三つとも、伯爵領の台所で聞いた。鍋の前に立ったまま、少し考えた。あの二十七枚を、去る日になってから三日で書いたのは、わたしの落ち度である。十年のうちのどこかで書いておけば、裂かれる前に誰かが一度くらいは読んでいたかもしれない。わたしがいなくても回るようにしておけば、よかったのだ。
それをしなかったのは、たぶん、少し怖かったからだと思う。思っただけで、口には出さなかった。
◇
芽出しの前に、王都から包みが届いた。差出人はヴィント様だった。中には、貸出簿の最後の頁の写しが入っていた。受領の印が二百十一。ひとつも欠けていない。余白に、字が三行あった。
『二百十一本、全て受領した。
あなたはもう、何も預かっていない。
ゆえに、これはあなたが返すべきものではない』
包みの底に、鍵が一本あった。わたしは、それを持ち上げた。王城の鍵ではない。頭のかたちが違う。柄に彫りがなく、王家の刻印もない。この十年に鉤へ掛けた二百十一本のうち、どれにも似ていなかった。王城のどの錠にも、これは合わない。
では、どこの錠に合うのか。
わたしは、それを持ったまま、しばらく立っていた。
ここまでお読みくださって、ありがとうございます。
セリカが最後の鍵をどうしたかは、書かないでおきました。
彼女は十年ぶんの手続きを覚えている人なので、たぶん、まず持ち主を確かめに行くと思います。
この「葉山みのり」名義では、一話で終わる話を書いています。
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