声を食う女
夜のラジオ局のブースは、まるで底の深い水槽のようだった。
深夜の特別番組でディレクターを務める一ノ瀬麗音は、ミキサーのフェーダーに指をかけながら、ガラスの向こう側に座る女性を見つめていた。今週1週間、連日ゲストとして招かれている谷村真理子だ。
真理子の声は美しかった。滑らかで甘く、どこか浮世離れした鈴の音のような響き。だが、麗音の耳はごまかせなかった。ヘッドホン越しに聴こえる真理子の声の奥底で、わずかに混じる不快なノイズ。ぬちゃり、と濡れた肉が蠢き、骨が鳴るような微細な振動。
「真理子さん、少し喉の調子がおかしいですか?」
カフを上げて問いかけると、真理子はこちらを向いて可憐に微笑んだ。
「いいえ。とっても調子がいいわ、麗音さん。あなたの声と、すっかり馴染んできたもの」
その言葉の意味を考える間もなく、麗音は強烈な喉の痛みに襲われた。息が詰まり、激しく咳き込む。喉の奥に不自然な塊がある感覚。慌てて首筋を手で触れると、皮膚のすぐ下で爪の先ほどの小さな何かがうねうねと蠢いていた。
鏡に映った自分の首元は、まるで数本のミミズが皮膚を押し上げながら這い回っているかのように歪んでいた。
「ひっ……!」
悲鳴を上げようとしたが、喉から出たのはガサガサとした耳障りなノイズだけだった。言葉にならない。声帯が変質し、硬い乾いた異物へと変わっていく感覚に、全身の毛穴が開き、冷や汗が噴き出した。
連日出演の2日目、事態はさらに悪化した。
麗音の喉の痛みに反比例するように、真理子の声はますます艶を増していった。そして何より恐ろしいことに、マイクを通して流れる真理子の声の波形やトーンは、かつて麗音自身が持っていた声そのものに変化していたのだ。
麗音は同僚に助けを求めようとした。しかし、口を開けて発せられるのは不快な雑音だけで、周囲の人間は「耳障りだ」「うるさい」と嫌悪感を露わにし、誰一人として彼女の言葉に耳を傾けようとしなかった。声という存在の証を奪われた麗音は、徐々に世界から孤立し、その体は指先から徐々に透明な水のように透け始めていた。
声を失うことは、この世界から消滅することだった。
崩れ落ちる膝を押さえながら、麗音は最後の力を振り絞って放送ブースへと這い進んだ。そこには、一人でマイクに向かい、麗音の声で穏やかに語りかける真理子の姿があった。
ガラスを叩き、ブースへ雪崩れ込む麗音。真理子は静かに振り返り、憐れむような目で見つめてきた。
「かわいそうに、麗音さん。声のない人間は、誰も認識してくれないのよ。あなたの名前も、あなたの仕事も、これからはすべて私のもの」
真理子の口が歪に耳まで裂け、その奥から細く生々しい「肉の糸」が何本も伸びて、麗音の喉へと突き刺さった。麗音は声を上げられないまま、喉の奥から自らの魂を吸い上げられていく恐怖に震えた。やがて彼女の体は形を失い、床の上に冷たい水の輪を残して完全に消滅した。
真理子は満足げに喉を鳴らし、麗音の椅子に腰掛けた。
「ふふ、ごちそうさま。完璧な声……完璧な一ノ瀬麗音の完成ね」
真理子は麗音の声を響かせ、ミキサーのフェーダーを上げた。今日から自分が「一ノ瀬麗音」として生きていくのだ。
その時、スタジオの重いドアが静かに開いた。
入ってきたのは、番組の新人アシスタントの少女だった。少女は真理子を一瞥すると、悲しそうな、そしてどこか冷ややかな目で微笑んだ。
「お疲れ様です、麗音さん。……とっても良い声になりましたね」
次の瞬間、少女が真理子の耳元で小さくハミングを奏でた。
その瞬間、真理子の喉が激しく痙攣した。奪い取ったはずの麗音の声が勝手に裏返り、喉の奥で「あの不快な蠢く塊」が逆流して膨れ上がっていく。真理子は自分の首を掻きむしった。爪が皮膚を裂き、赤黒い血が飛び散る。
「な、なに……これ……喉が、裂ける……!」
苦しむ真理子を見下ろしながら、少女は真理子自身の「あの甘く美しい声」で優しく呟いた。
「驚いた? 寄生されたのは、あなたのほうよ。その『声蟲』はね、他人の声を奪った気になった瞬間、宿主の喉を内側から食い破って孵化するの。私がずっと探していた、最高の温床になってくれてありがとう」
少女の喉元が不気味にうねり、真理子がかつて持っていた本来の声が、完璧な美しさで奏でられていた。
真理子は血とノイズを吐き出しながら、絶望のなかで崩れ落ちた。静まり返ったスタジオに響くのは、新たに羽化した無数の異形の鼓動と、少女の美しい歌声だけだった。




