第五話 お花に触れたら、庭が大変なことに
魔力の練習を始めて三日が経った。
毎日夕方、ジルに見てもらいながら魔力石を光らせる練習をしている。課題は「出力の調整」だ。蛍の光くらいを目標に、少しずつ絞っていく。
成果は、あった。
初日は部屋全体が昼間のように明るくなった。二日目は窓の外が見えなくなる程度になった。三日目の昨日は、ようやく手元だけが光る程度まで落とせた。
ジルのため息の回数が、一日ごとに一回ずつ減っている。今日は二回だった。
(改善率、一日一回ペース。このまま継続すれば、四日後にはため息ゼロになる計算だ)
前世でも、障害の改善率をグラフにして管理していた。数字で見ると進捗が分かりやすい。
「よくできました、フィア様」
ジルが穏やかに言った。
「うん。でも、まだおおきいでしゅか」
「だいぶ良くなりました。あと少しです」
「わかりましゅ。あしたもれんしゅうしましゅ」
「はい。ただし」
「わかっていましゅ。ジルがいるときだけでしゅ」
ジルが少し笑った。
「フィア様は、約束をよく守ってくださいますね」
「うん。やくそくはまもるものでしゅ」
(前世でも、システムの取り決めは必ず守った。守らないと信頼関係が崩れる)
問題が起きたのは、翌朝だった。
わたしのせいではない、とはっきり言っておきたい。
少なくとも、意図的ではなかった。
朝食の後、わたしはジルに連れられて庭に出た。昨日の練習の成果を確認するためだ。庭の花を見て、どのくらい魔力が漏れているかを自分で確認する訓練だという。
(自己モニタリング能力の習得か。前世でいえば、システムの自己診断機能を実装するようなものだ)
庭に出た。朝の空気は清々しかった。鳥の声がする。白いルーナ草が、朝日を受けてきらきらしている。
「フィア様、今日は花に触れずに、ただ歩くだけにしてください」
「うん、わかりましゅ」
わたしはゆっくりと庭を歩いた。
花を見た。可愛い。白い花びら、黄色い中心。風に揺れている。
(綺麗だな)
純粋にそう思った。
その瞬間だった。
庭全体が、ぐらりと揺れたような気がした。
膝丈だった花が一瞬でわたしの背丈を超え、噴水の周りの低木はバキバキと音を立てて大樹へと成長し、庭を囲む生垣は鬱蒼とした森の壁のように天を突いた。
たった数秒で、手入れの行き届いた庭園が、未開のジャングルへと変貌した。
(……やってしまった)
(サーバーラックが物理的に巨大化してサーバールームを突き破ったレベルの、前代未聞の特大インシデントだ)
わたしは庭を見回した。さっきまでと全然違う景色になっている。白い花が頭上まで伸び、噴水は大樹に囲まれて見えなくなった。庭だった場所が、完全に森になっていた。
悪くはない。むしろ綺麗だ。
でもジルが、三歩後退した。
「フィア様……」
「ごめんなしゃい」
「いいえ、フィア様は何もしていません。ただ歩いていただけです」
「うん。でも、おおきくなりましゅた」
「……なりましたね」
ジルのため息が聞こえた。今日三回目だ。昨日より増えた。
(改善率の計算が崩れた)
前世でも、安定していたシステムが突然暴走することがあった。原因不明の過負荷、ウイルス、設定ミス。今回の場合、原因は分かっている。わたしの感情と魔力がリンクしている。
綺麗だと思った瞬間、魔力が漏れ出た。
(感情トリガーによる魔力の自動放出か。これは制御が難しい)
意識的な制御はできるようになってきた。でも無意識の感情に連動する部分は、また別の話だ。
お父様が書斎から出てきた。
魔力石が反応したのだろう。書類を持ったまま庭に飛び出してきた。そして庭を見て、止まった。
「……フィア」
「おとうさま、ごめんなしゃい」
「怪我はないか」
「ないでしゅ」
お父様はわたしの全身を素早く確認して、安堵した様子で息を吐いた。
「庭は……後でなんとかする」
「ごめんなしゃい。わざとじゃないでしゅ」
「分かっている」
お父様はわたしを抱き上げた。
「フィア、怖かったか」
「ぜんぜん。むしろ、きれいでしゅ」
お父様が少し固まった。
「……きれいか」
「うん。おはながたくさんでしゅ」
お父様はわたしの顔を見た。しばらく何も言わなかった。
それから、小さく笑った。
「……そうだな。綺麗だな」
(お父様が笑った。珍しい)
前世でも、重大インシデントの最中に、思わず笑ってしまう瞬間があった。深刻すぎて、逆におかしくなる瞬間だ。
今のお父様も、そういう笑い方だった。
それからお父様は、ふと屋敷の二階に届きそうなほど巨大化した花と、森になった庭を見渡した。
お父様の表情が、スッと抜け落ちた。
(……あ、お父様が今、一瞬だけ遠い目をした。あれは莫大な復旧コストを計算してしまったときの顔だ)
「フィア、一つ聞いていいか」
「うん」
「花が大きくなる前、何を考えていた」
「……きれいだな、とおもいましゅた」
「それだけか」
「それだけでしゅ」
お父様はまた少し考えてから、わたしをそっと下ろした。
「ジル、今日の件は記録しておいてくれ」
「かしこまりました」
「トリガーは感情だ。『綺麗だと思った』ということは、肯定的な感情で起動する」
「そのようでございますね」
「制御の練習を、感情と切り離す方向でも考える必要がある」
「はい。ただ……」ジルが少し困った顔をした。「フィア様に感情を持つなとは申せませんので」
「当然だ」
(二人が今後の方針を話し合っている。わたしの前で)
これは変化だ。今まで二人はわたしの前では何も話さなかった。でも今日は、わたしに聞こえる形で話している。
(信頼が少し進んだのか、それとも状況が変わったのか)
「お父様」
「なんだ」
「わたし、れんしゅうしましゅ。ちゃんとせいぎょできるように」
お父様がわたしを見た。
「フィア……」
「めいわくをかけてごめんなしゃい。でも、ちゃんとできるようになりましゅ」
お父様は少し間を置いてから、わたしの頭を撫でた。
「迷惑じゃない」
「でも、おはながおおきくなりましゅた」
「大きくなっただけだ。壊れたわけじゃない」
「うん」
「フィアが怪我をしていなければ、それで十分だ」
(……この人は本当に、わたしのことが心配なのだ)
庭がどうなっても、建物がどうなっても、まずわたしの怪我を確認する。それが最優先事項だ。
前世で、そんな風に誰かに心配してもらったことがあっただろうか。
あまり記憶がない。
「おとうさま」
「なんだ」
「ありがとうでしゅ」
お父様は少し目を細めた。
「フィアが礼を言うことじゃない」
「いいえ、ありがとうでしゅ」
お父様はまた小さく笑った。
その夜、ジルが部屋に来た。
「フィア様、今日のことについて、少しお話があります」
「うん」
「今日分かったことがあります。フィア様の魔力は、感情に連動して放出されることがある。これは今後の練習で改善できますが、時間がかかります」
「うん」
「ただ、今日一つ良いことも分かりました」
「なんでしゅか」
「フィア様の魔力は、肯定的な感情のときに放出されました。怒りや悲しみでは起動しなかった」
「それはよいことでしゅか」
「はい。とても良いことです」
(肯定的な感情でトリガーが起動する。悪意による暴走ではない、ということか)
「フィア様が綺麗だと思ったから、花が咲いた。それはとても素敵なことだと、わたしは思います」
ジルが穏やかに言った。
「でも、おおきくなりすぎましゅた」
「はい。それが課題です」
「れんしゅうで、なおりましゅか」
「なります。時間はかかりますが、必ず」
わたしはベッドに入りながら考えた。
感情と魔力がリンクしている。それは制御が難しい。でも、悪意では起動しない。肯定的な感情でしか発動しない。
(……悪いシステムじゃない。ただ、出力が多すぎるだけだ)
前世でも、性能が良すぎるサーバーは扱いが難しかった。普通の設定では過剰な出力が出てしまう。でも正しく調整すれば、最強のシステムになる。
わたしも、たぶんそういうことだ。
「ジル」
「はい」
「わたしは、おかしいでしゅか」
「おかしくはございません」
「でも、ふつうじゃないでしゅよね」
ジルは少し間を置いた。
「……普通ではないかもしれません。でも、それはフィア様が悪いわけではありません。フィア様は、この家に生まれてくださった大切な方です」
「うん」
「おやすみなさいませ、フィア様」
「おやすみなしゃい、ジル」
扉が閉まった。
わたしは天井を見た。
普通ではない。でも悪くはない。
感情が強ければ、花が咲く。
前世では、感情を抑えることの方が多かった。職場では感情的になってはいけない。冷静に、論理的に。
でもここでは、感情が魔法になる。
(……それは、悪くないかもしれない)
窓の外で、今日大きくなった花が月明かりに照らされていた。
思ったより、ずっと綺麗だった。




