第四話 ジルのため息が、今日も多いです
来客の翌日、屋敷の空気が少し変わった。
具体的に言うと、お父様の顔色がさらに悪くなった。朝食の席で書類を読むお父様の眉間の皺が、昨日より深い。前世でいえば「クリティカルな障害が連続して発生していて、根本原因がまだ特定できていない顔」だ。
(昨日の来客が、何か問題を持ち込んだ)
王家の紋章の馬車。お父様の悪化した顔色。この二つは関係している。
わたしは朝食のパンを食べながら、お父様を観察した。
「お父様、かおいろがわるいでしゅ」
言ってから少し後悔した。三歳児がそんなことを言うのは不自然かもしれない。
でもお父様は驚かなかった。むしろ、少し苦笑した。
「そうか。心配させてしまったな」
「うん。だいじょうぶでしゅか」
「大丈夫だ」
(「大丈夫だ」は前世でも信用できない言葉ランキング上位だった)
「……わたしのこと、でしゅか」
お父様の手が止まった。
わたしはパンをかじりながら、さりげなく続けた。
「きのう、おきゃくさまがきましゅよね。そのあと、おかおがかわりましゅた」
「フィアは、よく見ているな」
「うん」
「……心配しなくていい。父が全部なんとかする」
「うん。しんじていましゅ」
お父様がわたしを見た。少し驚いた顔だった。
(この反応は予想外だったか。でも本当のことだ。信じている)
前世で、本当に頼りになる上司は少なかった。でも一人だけいた。その人はいつも「俺がなんとかする」と言って、実際になんとかした。あのときの安心感に、今のお父様は少し似ている。
「……ありがとう、フィア」
お父様の声が少し低くなった。
「フィアがそう言ってくれると、父も頑張れる」
「うん。でも、おからだにきをつけてくだしゃい」
「……ああ、そうする」
朝食が終わった。
午前中、わたしはジルと一緒に過ごした。
ジルはわたしの世話をしながら、いつも穏やかに話しかけてくれる。今日は庭の草花の名前を教えてくれた。
「これはルーナ草といいまして、魔力を持つ植物でございます」
「まほうのはな、でしゅか」
「はい。魔力が強い場所では、より大きく育ちます」
(魔力が強い場所では大きく育つ)
わたしは昨日自分が触れた花を思い出した。あの花も、ルーナ草だったのだろうか。わたしが触れたことで、大きくなった。
「ジル、わたしがさわったら、おおきくなりましゅか」
ジルのため息が聞こえた。一回目だ。
「……フィア様は、お花が好きでいらっしゃいますね」
「うん。でも、さわったらおおきくなりましゅよね」
「まあ、そうでございますが」
「なぜでしゅか」
ジルのため息が聞こえた。二回目だ。
「……それはですね、フィア様が優しい方だからでございます」
「やさしいと、おおきくなりましゅか」
「魔力を持つ方が優しく触れると、植物が喜ぶのでございます」
(前置きを長くして、核心をずらした。アクセス制限の典型的なパターンだ)
「そうでしゅか。ほかのひともおおきくなりましゅか」
「……他の方ですと、そこまで大きくはなりません」
「なぜでしゅか」
ジルのため息が聞こえた。三回目だ。
「……フィア様は、特別な方なのでございます」
「とくべつ、でしゅか」
「はい。それ以上は、もう少し大きくなってからで」
「うん、わかりましゅ」
(今日のジルのため息カウント、三回。本日もいつも通りだ)
前世では、上司のため息の回数で案件の深刻度を測っていた。一回は軽い懸念、三回は本格的な問題、五回以上は緊急対応レベル。
ジルの場合、わたしの質問をするたびに三回前後になる。安定している。
これはもはやルーティンだ。
昼食の後、わたしは一人で部屋にいた。
ジルが少し用事で離れていた。珍しいことだ。
わたしは窓の外を見た。庭に、お父様がいた。一人で立って、空を見上げている。書類を持っていない。珍しい。
しばらく見ていると、ジルが庭に出てきた。お父様の隣に立った。
二人が話している。窓越しなので声は聞こえない。でも表情は見える。
お父様が何かを言った。ジルが深くうなずいた。
(何を話しているのか)
口の動きを読もうとしたが、距離がありすぎて分からない。前世でもそういうスキルは持っていなかった。
でも、一つだけ読み取れた気がする。
お父様が庭の花の方を見て、何か言った。その後で、わたしの部屋の窓を見た。
(わたしのことを話している)
そしてジルが、また深くうなずいた。
(何かを決めた。あるいは確認した)
前世でも、上司たちが廊下で小声で話しているのを何度か見た。大抵、そういうときは自分に関係する重大な決定がされていた。異動とか、プロジェクトの変更とか。
わたしに関係する何かを、今、決めているのかもしれない。
夕方、ジルがわたしの部屋に来た。
「フィア様、少しお話があります」
「うん」
ジルは椅子に座り、わたしと目線を合わせた。いつもより少し真剣な顔だ。
「フィア様は、魔法に興味がおありですか」
「あるでしゅ」
「魔法の練習を、少しだけしてみたいとお思いですか」
(これは罠か、それとも本当に練習させてくれるのか)
「してみたいでしゅ」
「そうですか」
ジルはしばらく考えてから言った。
「では、一つだけ、とても小さな魔法をお教えします。ただし、条件があります」
「なんでしゅか」
「わたしが見ているときだけ、やること。一人のときはやらないこと。やりたくなったら、必ずわたしを呼ぶこと。この三つを守ってください」
(条件付きのアクセス権限が付与された)
前世でも、制限付きのアクセス権が付与されることがあった。「このシステムは見ていいが、変更はするな」「このファイルは読めるが、コピーは禁止」というような。
今回は「練習していいが、必ずジルの監視下で」ということだ。
「やくそくしましゅ」
「ありがとうございます、フィア様」
ジルが小さな石を取り出した。手のひらに乗るくらいの丸い石だ。白くて、ほんのり温かそうな光を持っている。
「これは魔力石です。この石に、少しだけ魔力を送ってみてください」
「どうやりましゅか」
「石を両手で包んで、温かくなれ、と念じるだけです」
わたしは石を両手で包んだ。
温かくなれ、と思った。
石が、ぱっと光った。
強い光だった。部屋が一瞬、昼間のように明るくなった。
ジルのため息が聞こえた。今日四回目だ。
「……フィア様、もう少し、少なめにお願いできますか」
「ごめんなしゃい。どのくらいでしゅか」
「そうですね、蛍の光くらいを目指していただければ」
「うん。やってみましゅ」
もう一度、石を包んだ。今度は、ほんの少しだけ温かくなれと思った。
石が、ふわりと光った。今度は優しい光だ。蛍よりは少し強いが、許容範囲だろう。
「……よくできました」
「やった」
「ただ」とジルはため息をついた。五回目だ。「フィア様の『少し』は、まだ一般的な水準より相当大きいようでして」
「そうでしゅか」
「はい。調整が必要です」
「ちょうせい、でしゅか」
「魔力の量を、意識して減らす練習です。蛇口の水を少しずつ出すように」
(出力の調整か。前世でいえば、過剰なトラフィックを制限するQoS設定みたいなものだ)
「わかりましゅ。れんしゅうしましゅ」
「はい。ただし」ジルは真剣な顔になった。「くれぐれも、わたしが見ていないときはやらないでください。フィア様の魔力は、想定外のことが起きやすいので」
「うん、やくそくしましゅ」
(想定外のことが起きやすい、か。やはりわたしの魔力は量が多すぎるのだ)
前世でいえば、過剰な出力がシステム全体に波及して、予期しない障害を引き起こすリスクがある状態だ。だから慎重に管理する必要がある。
「ジル」
「はい」
「ありがとうでしゅ。おしえてくれて」
「いいえ。……フィア様が約束を守ってくださるなら、少しずつ教えていきます」
「うん。まもりましゅ」
ジルは立ち上がりながら、小さく言った。
「フィア様は、本当に賢いお子様でございますね」
「そうでしゅか」
「はい。……それが、少し怖くもあるのですが」
最後の言葉は独り言のようだった。
わたしは石を見た。まだほんのり光っている。
(怖い、か)
前世でも、想定外の動きをするシステムは怖かった。でも怖いから放置するより、ちゃんと向き合って調整する方がいい。
ジルも、同じことを考えているのかもしれない。
だから今日、教えてくれた。
(信頼関係の構築、一歩前進だ)
窓の外が夕焼けに染まっていた。
今日のジルのため息カウント、最終的に五回。
明日はもう少し減らせるように、練習しよう。




