覚醒
かなり投稿が遅くなってしまった…
みちるは氷室からの突然の告白に頭の中は真っ白だった。あれから何を話して、どうやって会社まで戻ったのかあまり覚えていなかった。仕事も集中しようとすればするほど気が散漫になる。今日はもう早く帰ろう。こんな日は早く帰ろう。
でも今日はもうひとつ早く帰りたい理由があった。今日は待ちに待った満月の日。清めの儀式をする日なのだ。もちろんそのことも覚えてはいる。
昼食から帰ってきてからしばらくは集中したくてもできなかったが、段々軌道に乗ってくると昼間のことも忘れていった。
気がつくと喉が渇いているのも忘れて仕事に打ち込んでいた。お茶を入れようと席を立つついでに、周りにも声をかけたが、みんなお茶はまだカップに残っていた。みちるが男女問わず好かれているのは、こういう気配りを忘れないことだ。自分のカップと緑茶のティーバッグを持って給湯室へ席を立つ。
給湯室は一旦廊下に出て行くので、あまり人気はない。カップを電気ポットの注ぎ口の下に置いて静かにお湯を注ぐ。無色透明の白湯には、瞬く間に鮮やかなうぐいす色が広がる。少しティーバッグをお湯の中で揺らしてもっと濃い緑にする。お茶は少し濃い方が好みだ。もう少しでティーバッグを引き上げようとしていると
「凪野さん」
突然呼ばれて、驚いて振り向く。
「山田君…」
「先ほどは失礼しました」
「ううん。いいの。それより私に言いたいことがあったんじゃないの?」
「本当に、あいつにだけは気をつけてください」
「ねぇ、あいつって誰なの。何のことを言ってるの?」
みちるは戸惑うばかりだ。
「その…僕は…」
山田は何かを口ごもっている。その時氷室が給湯室の前を通りかかる。
「何してるの」
「氷室さん」
昼間に告白されたばかりの人間が来てみちるは更に戸惑った。
「山田君、昼間も凪野さんを困らせたんだろう。感心しないね」
「違います!僕は…」
氷室と山田の間にはみちるにはわからない何か険悪なものが漂っていた。
「えっと、あの、私仕事に戻りますね」
「僕は明日から出社になります。これで失礼します」
みちるが言い切る前に山田は早口に言って、足早に去っていった。
「大丈夫だった?」
氷室はいつもの優しい笑顔に戻っていた。
「話をしていただけですから…山田君、何を伝えたかったんだろう…」
山田の去った方向へ目線を向けながらみちるは呟いた。カップの中の緑茶は出すぎて少し濁っていた。
みちるは何がなんだかわからない内に仕事を終えて、帰路についていた。
地下鉄を降りて、自宅への道を心あらずといった感じで歩いていると、ラベンダー色の空に満月がこれから昇ろうとしているのが見えた。
今日は儀式を行う日だ。気を引き締めなければ。そう思いを改めて玄関の戸を開ける。
「ただいま」
「おかえりなさーい」
食卓から母の声が飛んでくる。
みちるは靴を脱ぐと、今日は食卓に顔を出さずに真っすぐ自分の部屋へ向かった。鞄をいつもの場所に置いて、上着をハンガーにかける。自分の机の上を見ると、以前夢の中から持って帰ってきたあの砂がガラス瓶の中で不気味に鎮座している。相変わらず青白く淡い佇まいだ。思い直して、今はとにかく楽な恰好に着替えて食卓へ向かう。
食卓では夕食の支度ができていた。あとはみちるが揃えば食事が始められる段階だ。
「みんなお待たせ」
みちるが食卓へ現れる。
「さぁご飯にしましょうか」
母の飛鳥が全員分のご飯を持って来た。
「晩ご飯トンカツって・・・受験じゃないんだから」
隆哉が冷静に突っ込む。
「いいじゃん。失敗できないことには変わりはないんだから」
翔太がすかさず言い返す。
「文句あるならもらってやる」
勇一郎がめずらしく茶々を入れて隆哉のトンカツを取ろうとするしぐさをした。
「誰も食わないとは言ってないだろ」
「もうちょっと静かに食べられないのかねぇ、うちの子達は」
飛鳥は呆れながら子供達の様子を見る。みちるはいつも通りに騒ぐ兄弟達の様子に笑いながらも、これからある儀式のことで頭が一杯だった。
食事はいつもの様に楽しく箸がすすんだ。みんなが食事を終えてお茶を飲んでいると、突然父の光司が口を開いた。
「裏の山に行くのって…今晩か」
わかりきったことを今さらながらみちるに聞いてくる。
「ええ、そうよ」
みちるは穏やかに答えた。
「…無理して行くことないのじゃないか」
湯呑みに目を落として言う。父の言葉には不安が濃く滲んでいた。いつもと違う父の様子に一同も静まり返ってしまう。
「お父さん…」
みちるはそう言ったまま言葉が続かなかった。食卓の空気が重くなり、誰もが口を閉ざしていたところに
「親父」
勇一郎が静寂を破った。
「俺はただ心配して見守るだけで終わるつもりはない」
「どういうことよ?」
母の飛鳥が光司の代わりに聞く。
「俺も山に入る。ただし、みちるが先に入って時間を置いてそれから」
「なんだよ」
勇一郎が言い終わらないうちに隆哉が喋った。
「俺もこっそりついて行くつもりだったのにな…抜け駆けするなよ」
「それは俺の台詞!」
翔太も慌てて話しについて行っている。
「本当に…うちの子たちはやんちゃなんだから…」
そう言いながらも飛鳥は感激で目を潤ませていた。
「どうやら決まりのようだね?」
ユリが終始見届けてからみちるに事の行方を任せた。
「もちろん…行くわ」
聡明で力がみなぎった瞳をして頷いた。
「お父さん。大丈夫よ。みんな来てくれるって言うし。心配しないで、必ず帰ってくるから」
「約束だぞ」
まだ心配そうに娘を見る父。
「なんか父さんらしくないなぁ。どうしたんだよ」
翔太は茶化すように言いうと、
「空気読め」
「馬鹿」
「ゴン」
兄たちから罵られ、最後に母からお盆で叩かれる始末。
また凪野家には明るい笑いが戻っていた。
夜8時もまわると、凪野家付近は人通りがぐっと少なくなる。周りの家々からは明かりが溢れ、どこの家からか時折談笑が漏れ聞こえてくる。平和の象徴なのかもしれない。
みちるはユリに渡された白装束を着ていた。白い着物に帯は灰色で光沢があった。切れたチェーンを皮の袋に入れたのを確かめて、石を改めて首から下がっていることを確認。
「よし。行こう」
息を強く短く吐くと、自室を出て玄関へ向かった。
玄関では家族全員が待っていた。
「みんなで見送り?仰々しいんだから」
みちるは少しでも雰囲気を明るくしようとしたが、やはり兄達がついて来るとなっても心配なものは心配なようだ。
足袋と草履を履く。くるりと家族の方に向き直って
「じゃぁ行ってきます」
まるで会社にでも行くかの様に笑顔を見せてみちるは玄関を出て行った。
みちるが出て行くと男3人も仕度を始めた。翔太はいつもの恰好にいつものお札。隆哉は野球をしていたからか、キャッチャーの防具に竹刀を持ち出してきた…。
そして勇一郎は凪野家でもあまり誰も立ち入らない最奥の6畳ほどの和室にいた。そこは部屋の位置のせいなのか、昼間でも薄暗く、小さい頃は恐くて近寄りさえもしなかった。
「龍之介じいさん、借ります。みちるのために力を貸してください」
そう独りで言って、床の間に飾ってある日本刀に一礼をすると、うやうやしく持ち上げて自分の脇に携えた。
玄関に勇一郎、隆哉そして翔太が揃うとみちるの後を追って出発することにした。
「みんな気をつけるのよ。みちるをお願いね」
母が念を押すように3人に言った。
「わかった」
勇一郎が力強く頷くと残りの2人も続いて首を縦に振った。
「じゃぁ行ってくる。多分大丈夫だと思うよ」
ニカっと翔太が笑うと男3人は玄関を後にした。
「大丈夫かしらねぇ…男禁制の裏山に行くなんて」
「なんとかなるんじゃないのかい。意外と男がだめなんて迷信かもしれないしね」
「…」
飛鳥、ユリ、光司の順番に心配しながら息子達の後姿を見送るのであった。
みちるはすでに山に入っており、満月が白く闇を照らす中、自分の胸くらいの高さまで生えた草の中をけもの道を辿りながら進んでいた。少し山道を入ってからは住宅街で感じられた、すぐそこに人たちが暮らしている息づかいがウソのように静寂に包まれた。ひとりで恐怖と不安を感じる自分と戦いながら山の中腹まで差し掛かった。
道の続きを眺めると随分古くなった山門が口を開けてみちるを待ち構えている。山門から先は突然木が鬱蒼と生い茂っており、道の真ん中を月明かりが照らしていた。
「嫌だ…かなり勇気がいるわね」
ふーっと息を吐くと月明かりで銀色に染められた両手を眺めて、よし、と自分を奮い立たせて山門へ向かった。
近くまで来ると、山門は古いのだが、かと言ってそうそう簡単に壊れてしまうようなものでもなかった。誰に見られているということでもないのだが、みちるはそうっと山門をくぐる。
山門をくぐった瞬間、全身に鳥肌が立ち、なにか心臓にゾクッとしたものを感じた。
わたしでも流石にここはなにか違うってわかるわ―とみちるは思った。
さらに周りを警戒しながらみちるは儀式を執り行うべく、先へとすすんだ。
勇一郎、隆哉、翔太は凪野家の玄関を出て、裏山への上り口にいた。
「そういえば…道って誰かわかるのか?」
隆哉が口を開く。
「なんとなくわかるんじゃないの?」
翔太がのん気に答える。
「道は1本しかないだろう」
勇一郎は間違いないというふうに答えた。
翔太はいつもの恰好、隆哉は野球のキャッチャーの防具に竹刀、勇一郎は…腰に日本刀を下げて袴を着ている。
「…2人とも暑くないの?」
翔太が鬱陶しそうな目で2人の兄を見る。
「暑いっていうか重い」
「別に」
前者が隆哉、後者が勇一郎だ。
「あっそう…」
裏山は凪野家のもちろん裏にそびえている山なのだが、隣家との間の路地を抜けて緩やかな坂を上り、椿の木やくすの木が折り重なってまるでトンネルのようになっている枯葉の重なる道を抜けると、さきほどみちるが歩いていたけもの道のある場所に出る。
なんだかんだと3人で他愛もないやりとりをしていると、開けた場所に出た。
「明るくなったな」
そう言って勇一郎が銀色に光る満月を見上げた。ただし、みちるが先ほど歩いていた時と様子が全く違う。みちるの胸まであった草はまるで通せんぼをするかのように2メートル以上の高さに伸びていた。そしてあろうことか、けもの道は山門とは全く違う方向に伸びており、正直に辿っていけば元の道に戻ってしまう。早速3人に山の洗礼が降り注いだというわけだ。
「これじゃぁ全く行き先見当つかないじゃん」
翔太が口をとがらす。
「お得意の霊感でなんとかならねぇのかよ」
隆哉が翔太を突っついて言う。
「俺の霊感はこういうのはあてにならないよ。俺は攻撃専門だから」
「頼りにならねぇの」
2人がやり取りをしている中、勇一郎は1人冷静にそびえる草を眺めていた。勇一郎のことなので、とうにけもの道の存在は確認していたが、安易に進めなかった。そんな時に
「とりあえず入ってみたらなんとかなるよ」
翔太が草むらに分け入っていった。
「待て翔太!」
勇一郎が止める前に翔太がけもの道を発見した。
「なんだ。こっちに道があるじゃん。楽勝楽勝」
「待てって言ってるだろう!」
勇一郎が慌てて突き進む翔太を追いかけて草むらの中に入る。草に触れるとなんだかビリっとした感触がする。一瞬立ち止まって自分の手を見たが、なにも起こってない。とりあえず自分の声が届いていない翔太を止めなければ。
「翔太ー!」
後ろから刀の鞘ごと翔太の後ろ頭に向かって振り下ろした。
みちるは木が鬱蒼と生い茂る道を歩んでいた。月明かりが道を照らしているが、木が作り出す陰からなにかが出てくるのではないかと恐れていた。時折吹き付ける風でサワサワと葉が鳴る。
誰かが一緒に歩いてくれたら心強いのにな―胸の中でつぶやいて、なんだか自然に氷室の顔が浮かんでいた。昼間の告白には戸惑ったが、今はみちるのこの状況において心強い味方だ。これを乗り越えたら、また明日会える。そう思えるようになった。
ひたすらに進むと、鬱蒼とした木々が途切れるのが先に見えた。きっとあそこがユリに言われた場所だ。あとは儀式を無事に終えて道を来たとおりに引き返すだけだ。はやる気持ちを抑えつつも、みちるの足取りは速くなっていた。
翔太は勇一郎の膝枕の上で目を覚ました。
「…!?」
「目を覚ましたか」
覗き込むようにしていた隆哉が珍しい動物でも見るかのような目つきで言った。
「あれ?なんで、勇兄ちゃん?」
翔太は草むらで勇一郎から会心の一撃を後頭部にお見舞いされたあとに、一度草むらの手前まで勇一郎に担がれて戻ってきた。
「お前なんにも覚えてないのか」
勇一郎が呆れたように言う。
「うん。なんか草むらに入るまでは覚えてるんだけど…それからフワフワしちゃって…気づいたらコレだよ」
「これが男子禁制ってわけか」
うーん、と隆哉が唸って草むらを眺めていると、勇一郎が翔太の頭を自分の膝から退かせて立ち上がり、草むらに入っていく。
「おい、勇」
「ん?」
隆哉の制止に振り返る勇一郎。
「…そうか。翔太を追って入ったときって、なんともなかったよな」
「ああ、だから…」
そのとき、また先ほどと同じビリビリとしか感触が勇一郎を襲った。なんとなく前を見ると、みちるの歩く後姿が見えた。しかしその姿は消えそうになったりはっきり見えたりと、まるで幽霊のようだと例えたほうが適当だろうか。
「…??」
勇一郎は呆然として前を見たまま固まってしまった。
「どうしたんだよ」
翔太を置いて隆哉が追いかけて来た。
「いや…なんでもない。それよりお前はなんともないのか」
「うん。翔太はへらへらしてるから騙されやすいんだよ」
「そうかもしれんな」
「なんだよ。俺のいないところで悪口かよ」
いつの間にか翔太が来ていた。
「お前今度はなんともないのか」
勇一郎が翔太に聞く。
「勇兄ちゃんに殴られたおかげで正気になったんじゃないのかなぁ」
「少しはましになっただろう」
「俺は元からましだよ!」
翔太がふくれっ面をする。
「それより勇兄。どう進む?」
隆哉が勇一郎に聞いた。
「ん?こっちに行ってみようと思う。はぐれるなよ」
「「はーい」」
聞き分けのいい小学生よろしく隆哉と翔太は返事をするのだった。進む方向とは、もちろんみちるの後姿が見えた方向へ。
時々見えるみちるの後姿を頼りに勇一郎が進み、あとの2人が進んだ。10分ほど進んだところで、草の間から山門が見え隠れするようになった。
「山門が見えた。もう少しで草むらを抜けるぞ」
「わかった」
「暑い…竹刀だけにしとけばよかった…」
3人は山門の前で小休止をとった。しかし、あまりのんびりもしていられない。みちるに何かあったときにすぐに駆けつけられるようにも。
「結構体力削られたな」
汗びっしょりになりながら、それでも防具を外さずに座り込んで言う隆哉。
「それってタカ兄だけだろ」
翔太はどこ吹く風、といった感じで涼しい顔をしている。勇一郎はひとり黙って先ほどのみちるの幻影とでもいうのか、不思議な出来事を考えていた。あの様子では勇一郎以外は見えていないようだ。隆哉も翔太も勇一郎をあてにしてついて来ていた。体に電流が流れるようなビリっとくる感覚。生まれて初めてのことだ。さすがの勇一郎も少し動揺していた。
「そろそろ行く?」
翔太が聞いてきた。
「そうだな…しかし、この先は今までとはわけが違う感じがするな」
「うん…一杯『いる』よ」
勇一郎と翔太が話をしている後ろで聞いていた隆哉は
「全然わかんねぇ」
とつぶやいた。
3人で山門の前に立つ。勇一郎と翔太は警戒してぽっかりと口を開けた山門の奥を睨んでいる。隆哉は時間の無駄と思い、
「お先に~」
と軽々と山門をくぐって、すたすたと進んで行った。
「あっ…」
「タカ兄…」
あっけない隆哉の行動に拍子抜けする2人。
「なんだよ2人とも…早く行こう…」
「兄ちゃん後ろ!!」
隆哉が言い終わる前に、翔太が隆哉の後ろを指差し、お札を構えた。
「えっ??」
後ろを振り向くが隆哉にはなにも見えていない。翔太と勇一郎に見えたのは、全身が青白い髪の長い女の姿をした悪霊とでもいうのか、が隆哉に向かって飛んでくる。
「くそっ!」
間に合わないと思い、翔太は飛ぶようにして隆哉のもとに向かったその瞬間。
「バチィッ!!」
弾けるような音がして女の姿は消えていた。
「えっ…?」
翔太は突然の出来事に困惑する。
「俺にも…見えたけど、消えた??」
勇一郎に関しては初めてづくしでさらに困惑していた。
「俺、なんかした??」
一番わかっていないのは隆哉であった…。




