被害者:華恋、職業:女優
20代半ば、やっと掴んだはずだった映画の主役の座は、突然、何の前触れもなく私の手から滑り落ちた。
「今回の主演は華恋に決まったから」
プロデューサーが涼しげに言ったとき、何かの冗談だと思った。私の演技力、経験、現場での信頼——それらを踏まえても、彼女に勝る自信はあった。現場の誰もが私を推していた。なのに。
「華恋はあの役には向いてないのに、どうしたんだろう? 清純派の女優が必要なのに、華恋みたいな色っぽい子を起用するなんて」
そう言ったのは助監督の裕司だった。
誰からともなく噂が広がった。
“華恋がプロデューサーと寝たらしい”
“あの子、男の扱い上手そうだしね”
“まぁ、体で役を取るのも才能ってことか”
私は、楽屋で一人メイクを直していた華恋に声をかけた。あの青い瞳に、どんな答えが映るのか、確認したかった。
「ねえ、華恋。……あの役、どうやって取ったの?」
「アタシ? プロデューサーが突然役を任せたいって。なんか変なこと言われてるの?」
その笑顔——あまりに無邪気で、あまりに計算されていた。
「あなた、プロデューサーと寝たの?」
「え、なにそれ」
彼女は笑って、胸元をなぞるように指で整えながら鏡に視線を戻した。
「アタシさ、努力してんの。そういう話でしかアタシを見ないなら、そっちが安い女なんじゃない?」
私は何も言えなかった。どこまでも清楚で、どこまでも無垢を装ったその顔が、私の心を刺した。
そして今日。撮影初日。舞台裏の楽屋。誰もいない、誰も来ない、数分間の空白。
華恋は鏡の前にいた。白いブラウスに黒のコルセット、薄く波打つ金髪を肩に垂らし、真珠のような肌が楽屋の蛍光灯の下で柔らかく光っていた。
私はドアを閉めた。鍵をかけた。
「アタシに何か用?」
彼女がこちらを振り返った。頬に薄く紅が差し、胸元からレースの縁取りが覗いている。清純と色気を両立させた、まるで作り物のような美しさ。
「少しだけ、話したいの」
彼女は不思議そうに眉を寄せたが、椅子から立ち上がることはなかった。私は、ポーチから小さなナイフを取り出した。化粧道具の隙間に紛れ込ませたそれは、軽くて、冷たかった。
「……なによ、それ?」
「あなたに主役は渡さないわ」
彼女は椅子から立ち上がって後退りする。
私は駆け寄って、ナイフで彼女のお腹を刺した。
ブスリ
「——うっ」
短く吐息のような声。彼女の目が大きく見開かれ、震えながら、私の顔を見つめた。
ナイフが突き刺さったお腹から、ゆっくりと赤が広がっていく。レースが、白が、鮮血で染まっていく。
「……やめ、て」
彼女がそう呟いたとき、私はもう一度、ナイフでお腹を深く刺した。
ズブリ
「……あっ」
華恋の体がふらりと傾き、壁に背を預けたまま、ずるりと床に座り込む。
呼吸が、かすかに漏れる。唇が震える。真っ白な頬に紅潮が差し、首筋の汗が艶めいていた。
私は真っ赤なナイフを握ったまま、その顔を見下ろした。
「全部、あなたが奪ったのよ。あなたが悪いのよ」
彼女は、私を見ていた。怒りや恨みの色が出ていた。
やがて、彼女のまつ毛が微かに震えたあと、ゆっくりと瞳が閉じていった。
楽屋は静寂に包まれた。蛍光灯の光が、血の赤を不自然なほど鮮明に照らしている。
私はナイフを手にしたまま、膝をつき、彼女のそばに座った。
——これでいいのよ、これで主役は私のもの。