被害者:千代乃、職業:芸者
千代乃が初めて稽古に現れたのは、あの年の春だった。まだ桜も咲ききらぬ頃、門の外から小さな足音が聞こえ、襖を開けた私の前に現れたのは、あどけない少女——それが千代乃だった。まだ、小学1年生だった。
「よろしくお願い致します」
そう言って頭を下げた彼女の瞳は、深い緋色をしていた。血のような、紅のような、炎のような……まだ幼い面差しに不釣り合いな、艶やかな色だった。その瞳を見た瞬間、私は直感した。——この娘は、いずれとんでもない華になる。
それから十年。千代乃は美しき芸者となり、私の教えを一つも忘れることなく身に刻み、踊りを極めていた。白い肌に淡い紅をひいた唇。黒髪は日本髪に結い上げられ、うなじがきらりと艶めいている。胸元には、着物の上からでも輪郭がはっきり分かる豊かな双丘。男という男が目を奪われるのも、当然だった。
……だが、私にとって千代乃はただの美ではなかった。あれは、憧れでも、欲望でもない。もっと深く、底なしの井戸のように、抜け出せない感情だった。
彼女が十六を迎え、子供の輪郭が消えた時から、私は変わった。踊りを教える目ではなく、女を見る目で彼女を見ていた。手を取る稽古中、指がわずかに触れた時の柔らかさ、香の移るような距離に彼女がいるだけで、胸がざわついた。
だが、それを押し殺してきた。師範であるという誇りが、理性を保たせていた。……しかし、二十を迎えたその日。彼女が祝いに稽古場を訪れた時、私はもう抑えられなかった。
「千代乃……」
私は彼女を、後ろから抱きしめた。
彼女の体は驚きで一瞬硬直したが、すぐに私の腕を静かに、しかし確固たる意思で引き剥がした。拒絶された。唇は何も言わなかった。ただ、あの深緋の瞳だけが、強く私を拒んでいた。
それでも彼女は、次の日も稽古に来た。何事もなかったように、踊った。私は安堵した。だが、胸の奥に冷たい——殺意があることに気づいた。
彼女から拒絶された悲しみは、まるで雪のように静かに、確かに積もっていった。
春霞が障子の向こうで揺れている。畳の上に二人並んで正座し、今日は特別な演目の稽古を行う。
演目の名は「江戸音頭恋懐刀」。叶わぬ恋に絶望した男が、女を刺し殺すという内容だ。舞の中で殺す。私が千代乃を。それは舞であり、現実となる。
「よろしくお願い致します」
千代乃は静かに頭を下げた。私は、そっと懐に忍ばせた匕首の冷たさを感じながら、頷いた。
テープから、囃子の音が流れる。ゆったりとした拍に合わせて、私たちは舞を始める。
千代乃の動きはまるで風のようだった。袖がたなびき、帯が揺れ、肌がわずかに見え隠れする。そのたびに、私は自分の胸が高鳴っていくのを感じた。
舞が進み、悲恋の男が狂気に染まる場面が近づく。千代乃は扇子を広げ、私に背を向けて一歩下がる。その瞬間を、私は待っていた。
懐から、匕首を抜く。
障子に匕首を持つ自分の姿がぼんやりと映る。銀色の刃が、灯の光を受けて一瞬だけ妖しく輝いた。
——今だ。
私は、千代乃の背中を抱くように近づき、そのまま、鳩尾に向かって匕首を突き立てた。
ドスッ
「……ぁ……」
刃が肉を裂く音は、意外なほど小さかった。彼女の身体がびくりと震えた後、全身の力が抜けて私に倒れかかり、柔らかな双丘が私の胸を圧迫する。
天に向かって紅の花が咲くように、血が青い襟元に広がっていく。その様は、美しかった。咲き乱れる牡丹のように、艶やかで、妖しく、儚い。
私は真っ赤に染まった彼女の手に、そっと匕首を握らせた。そして、自らの腹に匕首の切っ先を当てる。
「千代乃…… いま行く……」
私は匕首を深く、腹に突き立てた。
痛みに身を震わせながら、眼を閉じた彼女の顔に近づき、接吻した。私たちは深い眠りに落ちて行った——。