真夜中のブラックローズ
あの夜のことを、何度思い返したか分からない。
胸が締めつけられ、手のひらに汗がにじむ。
でも、後悔なんかしてない。
美しかった。……何もかもが。
彼女の名前は、七海。29歳、ホステス。
長い金髪に、胸元の大きく開いた赤いドレス。
香水の匂いは強すぎるほど甘美で、まるで麻薬のように俺の嗅覚を支配する。
グラビアモデルのような体躯に、妖艶な笑みを見せる。
会社の飲み会で初めて訪れたクラブ、あの夜のことは今でも鮮明に覚えている。
俺はただ、気乗りせずに同僚に誘われたまま足を運んだだけだった。
だが、彼女が目の前に現れた瞬間、俺の人生の軸はゆっくりと狂い始めた。
「お仕事、お疲れ様です」
その一言と一笑で、俺は落ちた。
七海は、他の女とは違った。
一見すると性格も激しそうだが、俺の話を、親身になって聞いてくれた。
今まで誰もそんなふうに耳を傾けたことなんて、なかった。
それからだ。
俺は一人であのクラブに通うようになった。
もちろん、七海を指名して。
40過ぎの独身。会社と家を往復するだけの俺にとって、
彼女の笑顔は唯一の、救いだった。
彼女は言った。
「私ね、親いないの。彼氏も……全部ダメな男だった」
それを聞いたとき、俺は思ったんだ。
この子は俺が守らなきゃ、と。
誕生日は来週だって言うから、俺はプレゼントを用意した。
高価なバッグ。ブランド名なんか分からなかったけど、彼女が笑うならそれでいい。
彼女は涙ぐんで感謝してくれた。
「ありがとう……優しい」
抱きつかれたあのときの温もりを、今でも覚えている。
俺はそれから、彼女の心の穴を埋めるために、あらゆる物をプレゼントした。
時計、靴、アクセサリー……それが愛だと信じて。
彼女の笑顔は、そのたびに輝いていた。
でも——
ある夜、見てしまったんだ。
ネオンに照らされた都会の片隅。
彼女は、別の男と腕を組んで歩いていた。
背中が凍るようだった。
なんで? なんであんな顔をあの男に……。
次に店で会ったとき、思わず聞いてしまった。
「あの男、誰だ?」
「あー、お客さんよ。よく来る人」
あっさり言い捨てるように、笑っていた。
俺は、焦った。
もっとお金を使えば、七海の一番になれるんじゃないか。
だから、貯金を崩し、給料を全部注ぎ込んだ。
彼女の笑顔を、俺だけのものにしたかった。
——そう、だから告白した。
「俺と……付き合ってほしい」
声は震えていた。
彼女は、少しだけ間を置いて、こう言った。
「……え、マジで?」
そのあと、くすりと笑って、
「ごめん、本気にしてるの? 勘違いしないでよ」
その声の冷たさは、氷の刃だった。
クラブも出禁になった。
「お引き取りください」
スタッフにそう言われた。
俺は、彼女を待った。
あのクラブの裏口で。
タバコの煙の匂いが漂う、深夜の路地。
やがて、七海が現れた。
赤いドレス、金の髪。
バッグを肩にかけて、タワーマンションへ向かって歩いていく。
俺は、無言で彼女を尾行した。
心臓がうるさいほど高鳴っていた。
彼女のマンションは、ロビーが無駄に広くて、冷たいタイルがやけに白かった。
1つ目の自動ドアが開き、彼女が中へ。
2つ目のドアの前で、バッグから鍵を探している。
——今だ。
彼女に駆け寄る。
そして、両手で握った柳刃包丁を振り下ろす。
ドスッ
「ぐはっ……!」
彼女の身体がびくんと揺れる。
傷口が赤黒く変色していく。
俺が背中から包丁をズブッ抜くと、高いヒールがガランと音を立てて倒れる。
彼女は地面に崩れ、喉の奥でかすれた声を上げる。
それでも立ち上がろうとする姿が、どこか美しい。
俺は彼女の腹に刃を向ける。
「や……め、……て……っ」
ブスリ
「うっ!」
鋭利な刃は彼女のドレスに食い込んだ。
俺たちの唇は掠りそうなくらい近づいた。
俺は七海にキスをする。
彼女の大きな目が鏡のように俺を写す。
俺は腹から包丁を抜くと、彼女は血まみれの手で、1つ目の自動ドアをこじ開ける。
俺はその右手を左手で引き戻し、さらに深く刺した。
ドシュッ
「がはっ......!」
俺の耳元で彼女の涎が飛び散る。
抱き締めた彼女の身体が痙攣する。
仰向けに倒れた彼女の目が、うっすらと見開いたまま、俺を見つめていた。
タイルの隙間に沿って、血が静かに広がっていく。
美しかった。
まるで、一枚の絵のようだった。