天使の微笑
俺が交差点を右折しようとしたとき、トラックが突っ込んできた。
それからしばらく、何も覚えていない。
目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。
全身を包帯に巻かれ、機械音に囲まれて、俺は辛うじて生きていた。
右足はほとんど使いものにならず、左腕は動かなかった。
ドクターは「リハビリでなんとかなる」と言ったが、気が重かった。
そう、彼女が現れるまでは——。
「おはようございます。今日からリハビリを担当します、笹原美羽です」
白衣に身を包み、ナースキャップを被った彼女は微笑んでいる。
長く艶のあるダークブラウンの髪が後ろでまとめられている。
胸元のふくらみがナース服をわずかに押し上げている。
天使だ——。
俺は身体の痛みを忘れた。
「じゃあ、今日もがんばりましょうね」
俺の腕を取る彼女の手が、優しくて、温かい。
痛みに顔をしかめると、すぐに彼女は覗き込むように俺を見つめ、優しく言う。
「無理しないでくださいね。少しずつで大丈夫ですから」
その微笑みを見た瞬間、胸の奥がじんと焼けるように熱くなる。
俺は事故から生還してよかったと思った。
それから毎日、彼女は俺のリハビリに付き添ってくれた。
俺も彼女に応えようと必死になった。
ベッドの脇で膝をついて、足を持ち上げ、何度も屈伸運動を繰り返している。
そのたびに、わずかに開く白衣の襟元に目が吸い寄せられる。
白い肌、首筋を伝う汗、ほんのり香るシャンプーの匂い。
俺は何度も白衣の下に秘められたものを想像した。
そして、彼女が微笑む度に、俺は彼女を独占したい欲望が強くなる。
ある日の夕方。
病室で、俺は意を決して彼女に言う。
「......美羽さん、好きです」
美羽の顔から微笑みが消えた——。
「…そういうの、困ります」
その声は、ナイフの刃のように冷たい。
まるで、彼女が汚されたかのような言い方だった。
翌日から彼女は俺の担当から外れた。
代わりに、無愛想な年配の看護師が来るようになった。
廊下で美羽とすれ違っても、彼女は俺に目もくれなかった。
以前は視線に気づくと、微笑みを返してくれたのに。
ナースキャップを被った後ろ姿が、冷たく遠ざかっていく。
彼女の冷たい言葉を思い出すと、俺の胸は抉られた。
俺は、美羽がほしかった。
手に入らないなら、いっそ——。
ある日、見舞いに来た知人が果物バスケットを持ってきてくれた。
面会時間が終わってから、ふとバスケットの中に目をやった。
果物ナイフが銀色に鈍く光っている。
退院前日、俺は主治医に頼み込んだ。
「最後に、笹原さんに挨拶をしたいんです」
「きちんと、お礼が言いたくて」
その夜、彼女は病室に現れた。
「お元気になられて、よかったです」
美羽は、まるで何事もなかったかのように微笑んだ——。
俺の心は一瞬、揺らいだ。
だが、その微笑みは嘘なんだろ?
「ありがとう、美羽さん」
俺は彼女を抱き締める。
「えっ?」
ズブリ
「……っ……!」
ナイフが白衣を突き破り、ゆっくりと美羽の腹肉を掻き分けていく。
ナースキャップの床に落ちた音が、病室に響く。
結っていた髪がふわりと解けて、俺の頬を撫でた。
シャンプーの匂いが微かに香った。
彼女をベッドに寝かせる。
俺はズブッとナイフを引き抜くと、一瞬彼女の身体が反る。
腹から裾に向かって血の太い帯が何本も走っている。
彼女は腹を両手で抑えて、激しく悶えている。
俺は両手でナイフを逆さに持った。
「君の命、俺が貰うよ」
恐怖に彩られた目が大きく開かれる。
血に染まった片手で俺のガウンを掴む。
「……や、めて……」
ドスッ
「ぐっ……!」
俺が刺突した瞬間、彼女の身体がベッドに深く沈み込んだ。
彼女の息は小さくなっていき、瞼は眠りに落ちるようにゆっくり閉じられる。
長い髪はベッドの上で扇のように広がっている。
腹にナイフが突き刺さり、白衣は赤く染まっている。
だが、彼女は安らかな表情をしている。
俺の天使は、永い眠りについた——。