月明りの寝室と死せる姫君
青白く淡い光が瞼を通り抜け目をくすぐる。
重い疲労感と焦燥と興奮に侵された脳が揺り起こされ、薄汚れた天井を覚醒した意識がとらえてしまう。
やはり上手く眠れない。
薄い微睡から引き揚げられたのは今日何度目か。
オリヴィアはしかめっ面で寝室を見渡した。
急ぎ長年の埃を払い申し訳程度に整えた来客用と思われる部屋。
「淑女達をこんな埃だらけの部屋に押し込める事になろうとは…!」とハインツが無念そうに真新しいシーツと毛布を引っ提げテキパキとメイクした二人分のベッド周りだけが清潔感を保ち輝いて見える。
「こんな部屋しか用意できぬ我輩の不徳を責められよ!先ずは落ち着かないかもしれませぬが、お休みください。我輩、ジョーの部屋も整えてから休みます。」
「奴めどうせ膿だらけの湿ったシーツで眠っているに違いない!まったく!まったく!!」と肩を怒らせリネンを携え去るハインツの後ろ姿は、遍歴騎士と言うより熟練の家政婦か、あるいは遠い日にこの世をさった口うるさく暖かかった母を思い起こさせ、オリヴィアの不安を少しだけ拭い去っていった。
となりのベッドを見るとカミラの姿がなかった。
何処に行ったのか、オリヴィアには心当たりがあった。部屋に案内される途中に横切った城主の間。
半開きの扉から仄かに漂った甘い死臭。それが未だに鼻腔に残り、繰り返し胸騒ぎを呼び起こす。
足音を立てず、カミラが開けたであろう半開きの扉を、軋まぬ様にゆっくりと押し広げ、半身になって身体を滑り込ませる。
直ぐそこにあるはずの城主の間への道のりがやたらと遠く感じ、野盗から逃げていた時を思い起こさせる程、心と身体が緊張し強張っている。
無意識に考えない様にしていた。
吸血鬼の姫君とは一体何者なのか。
我々を救った男達の知己であり、この城を拠点として提供している。話からするとジャスパー卿もこの事は了解しているはずである。
だが…吸血鬼は人類の血と魂を喰らう知性ある魔物。俗に「魔族」と分類される強力な上位者である。
人類に友好的な個体も存在し、国家が爵位を与え、教会が聖別し神と人類の隣人として便宜を図った例も存在する。
…あくまでも例外として。基本的にはその存在が確認された時点で周辺に厳戒令が布かれ最優先で専門知識を有した討伐隊が差し向けられる。
強靭で不死に近い身体、絶大な魔力、血を媒介し人の身体を眷属に作り変える繁殖能力。まさしく人型の災害。死と腐敗の台風にして疫病なのである。
しかし現在存在が認知されていて、討伐困難とされているものは全て教会の実行部隊と諸侯の精鋭が情報共有し油断なく監視しているはずである。
この森の魔人の噂も、その正体は吸血鬼であると言う者は多く、事実森への侵入はチャップマン家を差し置いてジャスパーの権限において厳しく制限されていた。
わざわざ吸血鬼出現の疑いあり。ではなく、魔物の跋扈による監視対象としたのは政治的な判断か。父も侵入規制に賛成し、領民達へもらしくない程厳しい対処を取っていた。
そんな森への接近を許したのは戦況がひっ迫していた故か。本当に?
結果として狙いすました様な野盗の襲撃である。ジャスパー卿はもしや…
いやさ、そもそも今回の件、本当にジャスパー卿の知るところなのか。
半島全体を実質的に守護している辺境伯、稀代の英傑であるジャスパー・キャンベル。
この怪人二人がえらく親しそうではないか。
なぜ私達を安心させる為の虚言妄言だと疑わなかったのか。
弱体化してるとは言え吸血鬼。寝込んでいるとはどれほどの怪我なのか…ジョーのあの火傷よりも…?
吸血鬼とは言えそんな事になって活きていられるものなのだろうか。
同族である吸血鬼との結婚式を襲われ巻き込まれてそんな負傷を、考えてみれば何から何まで怪しくなってくる。
そもそも本当に吸血鬼がこの城にいたのか?いや、いるのか?
あの部屋で死臭を発しているのは無辜の犠牲者では?
そうだとしたらなぜその様なものを城主の間に安置している?
次々と疑念が湧いては脳内をヅタヅタに切り裂きながら駆け巡る、頭が押さえつけられた様に重くなり自然と下を向いてしまう。手足の震え、いや痙攣が止まらない。
ふらつく視界のなか、城主の間の前に青白い月明りを漏らす扉と息を殺し覗き込むカミラを認める。
真っ青な顔色のカミラが沈黙したまま身体をずらし、オリヴィアにも覗き込む様に促す。
「…今日あった事と言えばそんな所だ。彼女等の話を聞く限り野盗はまだ相当残ってる。」
城主の間には調度品らしきものが見当たらず、ただ部屋の中央に置かれた巨大な棺桶が開け放たれた窓から注ぐ月光に照らされていた。
ジョーはその棺桶のずらされた蓋の中を愛おし気に覗き込んでいた。
棺桶の縁からだらりと。ぐったりと力なく垂れ下がる長い腕。
人のモノより明らかに長く、毛むくじゃらで、膜が垂れている。
まるで巨大な蝙蝠の翼の様なその手を恭しく取りうっとりと恋人にするように頬にあて、ささやく。
「今日は…まだ目覚めないのか…」
「折角客人も来てくれたのに…」
棺桶の中を見つめていた瞳がぐるりと此方を見据えた。
「ひっ」と口から声が漏れる。恐怖のあまり硬直した少女二人は尻もちすらつくことが出来ない。
「まだ合わせる気はなかったんだがな…仕方ない。さぁ、我が城主に挨拶をしてもらおうか。」
拒む事は出来なかった。二人の身体の奥底、本能と言うべき物が逃げろと叫ぶ。だが今この場で絶対とも言うべきものはこの怪人、ジョーである事は明らかであり。機嫌を損なう事は死と同義であると速やかに抵抗を諦め、ふらふらと脚を動かすものは理性の成せる業か、はたまたこれもまた本能の一部か。
先程まで頼もしく見えていた、包帯の隙間から覗くジョーの茶色の瞳が今は、此方の心の奥底まで睨み付ける魔王の眼の様で、不快さと不気味さしか感じない。
促されるまま、棺桶の隣に立つ。
ずれた蓋の隙間から覗く闇。甘い死臭が立ち上るその闇を。
無遠慮な月光が照らした。
そこにあったものは、かつて美しかったであろう女性の。様なものの裸体。
吸血鬼と言う名とは正反対な印象の薄く焼けた肌が月光を反射する。
穏やかな寝顔の様な表情はしかし窪みつつある閉じられた瞼とカサカサに荒れて血の気が引いた唇が否応なく死を連想させる。
長く禍々しい、人外である事を主張する腕部と。
生前着ていたであろうドレスの形の日焼け跡が残る身体その下腹部から下が、ばっさりと、引きちぎられたかの様に欠損しており、中途半端に途切れた内臓と血液がドロリと垂れている。
そんな凄惨かつ不自然な遺骸を見せつけられ。自分達の傍らに立つ怪人ジョーの意図を、あるいは自分達の処遇を確認しようと、目線を移動しようとして。
出来なかった。
目が合ったのだ。
落ち窪んだ、姫君の瞼。
それがいつの間にかかっと見開いて半笑いで少女達を見つめていた。
「ばぁ!」
間抜けな声を上げ棺桶の中から少女達におどけてみせた姫君の視界から少女二人が掻き消える。
腰が抜けたオリヴィアとカミラはストンと尻もちを付き、そのまま同じタイミングで仲良く白眼を剥き口から景気良く泡を吹き出し。
本日二度目の失神によって、この理不尽な現実から脱出する事に成功した。
「なんだ人が悪いな。起きてたんなら応えてくれよ。」
「うとうとしていたんだよ。君が語り掛けてくれていたのは何となく覚えているがね。客人が来たと言うからしっかりと目が覚めたのにその言いぐさはないだろう。」
バツが悪そうに染まったジョーの頬を当てがわれたままの毛むくじゃらの手の甲で弱弱しくさすり。
不死者の姫君は微笑んだ