独身ですが、何か?
「由宇ちゃんの家のお風呂大きいね。久しぶりにゆっくりできたよ。」
髪を濡らしながら出てきた男性は、ベットの上で固まっている女性に向かってそういった。
「で、覚悟はできた?僕に抱かれる覚悟は。」
ギシッと音を立てながら隣に腰かけてきた男性は、うつむいている女性を覗き込み微笑みながら聞いた。
その間、女性の頭にあったのは、これは規約違反になるのでは?ということと、追加分のお金は払えるだろうか?とそもそも上司とこんなことはしていけないのでは?など、男性の言葉や存在が入ってこないほど考え込んでいた。
百面相している女性を愛おしそうに見つめながら、早くこちらに気づかないかな…と楽しそうに待つ男性だった。
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「誰かいい人いないの?まさかずっと独身ってわけにはいかないでしょ。」
最近の恒例になりつつある母親の言葉に、東雲由宇はイライラしていた。適当に流しつつ、心の中ではそんなに独身って駄目なわけ?できれば一生独身って考えてますけど?と反論の言葉を並べていたが、後がめんどくさいので言わないでおく。最後にそのうちにね、とお決まりの言葉を放って電話を切った。大体今時26歳でも結婚してない人だってたくさんいる。特別私がおかしいわけではないのに、何故周りは早く結婚しろ、付き合ってる人はいないの?など聞いてくるのか。
「はぁー…」
それもこれもきっとこの会社で働いているからだろう。忌々しそうに目に前にそびえたつ高層ビルを眺める。三年間通い続けているこのビルには今でも慣れない。途中で買ってきたコーヒー片手にエントランスに入る。150㎝ちょっとの身長をめいいっぱい伸ばして、周りのきらびやかな大人たちに負けないようにする。そのままエレベーターに乗り込んだ。
時刻は朝7時30分。出社にはまだだいぶ早い時間だからか、自分一人のエレベーターの中で一息つく。
先ほどの朝っぱらからの母親の電話に気分は最悪だったが、コーヒーを一口飲めば幾分かましになった。…気がする。
ガラス張りのエレベーターから都会の街を見下ろす。まだ少しはやい時間だからか、眼前の大通りは人がまばらだ。ぼんやりそこを見ていると、私が働く会社、[dulcis]が入っている35階に着いた。
dulcis、ドゥルキスとはラテン語で「甘い」や「可愛い」という意味。duicisはここから最上階の45階までを占める大きな会社で、私はそこで主に受付のような仕事をしていた。
のような、というのは普通の受付とは少し違うのだ。たまに来るお客様の対応と雑用と雑用を頼みに来る社員の相手だった。
広い部屋には私と先輩の南雲透子さんのデスクに、少しでも居心地が良い部屋をと、ふかふかのソファーにガラスのテーブル、冷蔵庫にキッチン、洗面台、狭いがシャワールームまである。ここに住み込んでも大丈夫なくらいなんでもそろっていた。
もちろん、私たちの部署だけこんなに豪華というわけではなく、ほかの部署もここみたいにきちんと設備が整っている。忙しい時期には泊まり込む人もいる。ちょうど今の時期、夏目前に迫る季節は忙しくなる一歩手前で、泊まり込む社員もだんだん増えてくるのだが…。
「…またいるよ。」
最近、ここの部署を寝床にしている輩がいるのだ。輩といったが、ちゃんと身元ははっきりしているし、何ならこの人の部屋だってこの上、44階にある。絶対自分の部屋のほうが落ち着くだろうにここ1か月ほど毎日ここのソファーで寝ていた。
最初のころは気になって全然仕事ができなかったが、最近は全く気にならなくなっていた。今日も昨日終わらなかった雑務を片づける。朝の静かな時間だと集中しやすく、作業もはかどる。だからか、後ろに人がいることにも気が付かなかった。
「ここ、打ち間違えてるよ。」
いつもよりかすれ気味の少し低い声が耳元で聞こえて、驚いて振り向く。
「…っ!!」
唇が触れ合いそうなくらい近くに顔があり、思わず背中をのけぞる。
「橘さんっ!!驚かせないでくださいっ!!」
素早く椅子から立ち上がって距離をとる。こんなところ社員の女性に見られたらどうなるか、わかったもんじゃない。
「ごめんね。でも、気になっちゃって。」
さほど悪びれもせずにさらりとそういうと、シャワー借りるね~と言ってささっと行ってしまった。座りなおして画面を見ると、確かに彼が言う通り打ち間違いがあった。それを直してうるさい心臓を落ち着かせる。
「……朝からほんとに顔面が良い。」
橘冬真はこのdulcis、ドゥルキスの副社長で【ナンバーワン彼氏】。
【ナンバーワン彼氏】 ドゥルキスでは主に20代~30代をターゲットとしてレンタル彼氏を女性に提供している。内容は様々でデートするだけで終わりや少しのスキンシップ、さらには性行為まで希望する方もいる。ほとんどの女性が独身でしばらく彼氏がいなく、仕事を頑張ってきた女性ばかり。なので、デートで着ていく服やメイクもオプションとして提供している。気に入った服や化粧品はその場で買うこともできるし、一般に向けて販売もしている。ほかにもパジャマや下着、アクセサリーにカバンなんかも独自にデザインして、生産、販売していた。
で、【ナンバーワン彼氏】とは文字通りこの会社人気ナンバーワンの指名率を誇る。それが、副社長の橘冬真なのだ。
彼と社長の桜木光一と社長の奥さんの私の先輩、南雲透子さんが立ち上げたこの会社は年々業績をあげ、今では高層ビルにかまえるまでになっていた。
で、ここでの私の仕事はお客様からの予約の電話、理想のデートなんかをきいて、接触のありなしなんかも聞く。あとは、彼氏にはだれか候補がいるかも聞いておかねばいけない。ホームページに載っている写真から選ぶが、特にない場合はこちらがその人に合った彼氏を選ぶ。その際、常連さんは大抵もう誰かは決まっているが、ご新規さんはそうはいかないので、必ず電話ではなくこちらに来てもらうことになっている。実際に会って話をして、レンタル彼氏を決める。意外と重要な役割を担っているのだ。
希望があれば、社内に入っている服やメイク道具なんかもそのまま購入していける。数はそんなに多くないがレンタルもしてるので、その日だけしか着ないって人はよく利用している。
時間があれば社員が相談にのりながら選んでもくれるので、初めての方は大体ここで買っていく。
「今日の飲み会、由宇ちゃんも来るよね?」
「ひゃっぁ!!」
またしても耳元で喋られ、完全に油断していた私は、今度は回転した椅子から転げ落ちそうになる。
「あぶなっ…!」
間一髪のところで橘さんに背中を支えられ、床に落ちるのは免れた。…が。
「…なんで裸なんですかっ!!⁇」
今日は暑いからと薄い半そでのブラウス一枚で下は下着だけの私の肌に、ダイレクトに伝わってくる質感。数秒固まってしまったが、すぐにまた離れて、後ろを向くと、程よく鍛え抜かれた肉体をさらした上半身裸の橘さんがいた。
私の抗議の言葉に、だってシャワーを浴びたから、とニコニコしながら答えるとそのまま着替え始めた。そんなこと初めてだったからどうしていいかわからず、とりあえず彼の姿を目に入れないようにする。ふと時計を見ると、もうすぐ透子さんが出社する時間になっていた。
もうそんな時間なのかと、とりあえず急ぎの雑務を各部署にメールで送る。
「で、来るよね?飲み会。」
「行きますよ。忙しくなる前にたくさん吞んでおかないと。」
この機会を逃すと次の飲み会はいつになるか分からない。夏本番に向けて気合を入れる意味合いもあるのだ。今夜の飲み会はほぼすべての社員が出席する。なので、軽く100人は超える。といっても、半分の50人程は普段はオフィスにいないレンタル彼氏。ここは年中無休なので、今日予定が入ってる彼氏は不参加になる。しかし、不参加の人がいても大人数には変わりはないので、ホテルを貸し切っての飲み会、もといパーティーになっていた。もちろん、社長も参加するし、奥さんの透子さんもいる。普段は絡まないような部署の人たちとお話ができるいい機会でもあるのだ。
「由宇ちゃんは誰か連れて行くの?彼氏とか。」
もうすぐ就業時間なのに、いまだにソファーでくつろいでいる橘さんがふと思い出したように聞いてくる。
「いないですよ、そんな人。残念ながら。」
毎回こういった大きな飲み会には家族や恋人を連れてきてOKということになっている。一人の人ももちろんいるけど、大抵は誰かと一緒にやってくる。私が知る限りでは、橘さんは毎回違う女性を連れてきていた。その時、寝泊りしていた部署の女性と一緒に来ると分かったのは最近のことだ。こんなにかっこいいんだから彼女くらいいるだろうけど、こういう仕事だとそうもいかないのだろうか。といっても、橘さんは最後まではしない彼氏で本番なしだから、そんなに難しくないと思うけど、やっぱり恋人だと違うのかもしれない。というか、もしかしたら自分の大切な彼女をこの場には連れて行きたくないだけかもしれない。
(私が彼氏でもあそこには連れて行きたくないもんな…)
毎回酔った社員たちのうざがらみが酷いのだ。特に一人でいる女性社員に対しての。ネタはもちろんまだ結婚しないのか?とか彼氏もいないの?やだったらアッチのほうもご無沙汰なんじゃない?とか下世話な話まで及ぶ。普段はいい人達なのに、酒が入るとこうも変わるものなのかと、恐ろしくなる。初めのころは本気で嫌だったけど、大抵次の日に大量の菓子折りが届いて、全員謝ってくれる。当分のおやつに困らないと気づいてからは受け流すようにしていた。ほかのお姉さま方もそうやってきたように。それからは私も後輩ができて、同じように独り身の子たちには受け流すように教えている。あとはなるべく一緒にいるようにしていた。独り身は独り身同士で。
「…あ、もしかして、今回は私ですか?」
ここしばらくはこの部屋を寝床にしているし、独り身は私だけだ。まぁ、とくに必ずペアで来るようにとは指定はないのだけど、こういう職業柄異性を意識しないとやっていけないところがある。だから、毎回橘さんが独り身の社員を探して一緒に行こうと誘ってくれているのだが。
「うん。一緒に行く人がいないなら。当日はうんっとおしゃれしてきてね。」
そう言い残すと、颯爽と部屋を出て行った。入れ違いに入ってきた透子さんに、大丈夫?と聞かれるほど、顔が真っ赤になっていた。
……イケメンのウインク、恐るべし。