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黒い犬(世界の始まりと終わり外伝)

作者: とみなが けい

黒い犬


                   とみなが けい






 ここ一週間に私の身の回りで起きたいささか不思議な体験について書こうと思う。


 そして、今年の夏に私が何故急遽中野から小平市に引っ越したのかその理由についてもこのお話を読めば判ると思う。





 先週、8月の下旬のことだが、1年と3ヶ月振りに埼玉にある実家に顔を出した。


 ささやかな手土産を持って実家に行き、亡き実母の仏壇に線香をあげて、決して仲が良いとは言えない父親とその後妻と何のことはない近況と世間話をした。


 最近やっと電話で普通に話せるようになったといっても、実家で父と後妻と顔を突き合わせて過ごすのはやはり少々居心地が悪かったが、お盆に母親の墓に墓参りをしなかったので気分が落ち着かず実家の仏壇に線香でも上げようかと思い立ったのだ。


 上機嫌の父親にこのままでは夕食につき合わされそうな雰囲気だったのでまだ日が高いうちに早々と実家を出た。


 最近気が弱くなったのか昔はあれほど私の生き方に辛らつな嫌味を言う父親が、また近くに来たら寄るようにと言って、玄関先で私の手にそっと1万円札を2枚握らせた。


 48にもなってお小遣いもないだろうと苦笑を浮かべてお金を返そうとしたが、父は邪魔になるものではないから受け取れといって再び私の手に札を握らせた。


 父方の家系の悲劇というか、父親の親、私から見ると祖父の代に急に金回りが良くなった、言わば成金の家系にありがちな、金を握らせて人の気を引く、そしてその人を支配した気分になり、影で小ばかにした言い方をする悪癖を父も受け継いでいる。


 きっと私が玄関を出た後すぐに私が貧乏なので小遣いをくれてやったと後妻に話すのだろう。


 そんなやり方を子供の頃から見ていた私は父からお金を貰うのは心苦しく、少しだけ気分がささくれてしまうのだ。


 私は仕方がなく小声でお礼を言って金を受け取りポケットに入れて、まだ日が高い埼玉の田舎道に出た。


 8月の下旬に入ったばかりで、まだまだ蒸し暑かった。


 一時間に5本ほどのペースで運行しているバスに乗り、小一時間ほどしてJR川口の駅に着き、都会、と言っても地方都市の都会の風景を見て私はほっとした。


 私は実家の近くのところどころ雑木林がある中途半端な田舎の風景がなぜか好きになれないのだ。


 閉塞感というか、開発途中で見捨てられたというか、時間が途中で止まったままというか、妙に生活感を感じない夢の中の風景のように見えるのだ。


 駅前の喧騒の世界に戻ってきて、やっと普段の自分に戻ったような気分で落ち着きを取り戻した私は、むしむしする空気を掻き分けて電車に乗った。


 私が住んでいるところは池袋で私鉄に乗り換えて二駅で降りるのだが、ふっと思い立ち一駅手前で電車を降りた。


 まだまだ暑いがたまには馴染みのない町を歩きたい。


 私の悪い癖がまた出たようだ。


 記憶にない、見覚えがない町を歩くのが私は好きだ。


 夕暮れの住宅地や商店街を一人歩く。


 見知らぬ道行く人々とすれ違いながら、このまま家に帰れないのではないかと心の隅に不安を抱えて歩く。


 だんだんと日が落ちてきてますます方向感覚がなくなってゆく。


 そんな心細い気持ちで歩き、それでいて見知った道に出ると小さな冒険が終わった様で少しがっかりする。


 そんなたわいもない遊びを実家を出てから覚えたのだ。


 そういう訳で私は池袋から一駅の椎名町の駅で降り、狭苦しい街中を気の向くままに歩き始めた。


  駅前の数店の商店が並ぶ場所を通り抜けると、もう人気がない住宅地に出た。


 特にこれといった特徴がない住宅が立ち並ぶ通りを歩いているとたちまちに自分のいる場所の見当が無くなった。


 厳しい日差しは徐々に活気さを無くし、空が薄ら寂しい紫に染まり始めた。


 ときおり、昼間の暑さのお詫びのような涼しい風が通り抜けた。


 角の小さなタバコ屋の灰皿でタバコを吸おうとポケットに手を入れると、先ほど実家で父親が手に握らせた1万円札が出てきた。


(これでどこかの飲み屋で暑気払いと行こうかな?)


 私は適当な食べ物屋で腹ごしらえをしてからスナックにでも入ろうと思った。


 私は居酒屋よりもスナックのほうが落ち着くタイプだ。


 見知らぬ町を歩くのが好きなように、見知らぬスナックに入るのも好きだ。


 私のこの癖を見て、見知らぬ町を歩いたり店に入るのが好きなのは結局心から落ち着く場所にいまだ出会っていないからだと指摘した友人がいたが、案外とそうなのかも知れない。


 実際に私は48にもなって本当に腰を落ち着ける町も、何十年も通う常連の店も持っていない。


 要するに私は根無し草なのだと、ふらりと入った蕎麦屋で蕎麦をすすりながら苦笑した。


 蕎麦屋を出ると辺りはすっかり暗くなっていた。


 私は左右を見回してから駅の方角だと思われるほうに歩いていった。


 山手通りのガードをくぐってしばらく歩くと3件ほどの飲み屋があったがあいにくとこの不景気で店を閉めてしまったのか営業している様子はなかった。


 そして、ふと上を見るとその店の後ろの小高い塀の先に卒塔婆が顔を覗かせていた。


 その3件の店の裏側は一面の墓場だった。


(これじゃあ客は気味悪くて飲みに来れないな・・・最も俺だったら面白そうで何度も来るかも知れないけれど・・・)


 SNSでホラー小説を書いたりしている私はこの手の薄気味悪い場所が結構好きなのだ。


 店が閉まっていて少し損をした気分をしつつもと来た道を戻ってきたら、来る時には気がつかなかった商店街のはずれの角にスナックを見つけた。


 しかし、ルージュと看板に書いてあるその店も何ヶ月も前に閉店してしまったようで店に明かりはなく、テント地の看板は所々破れ汚れ日に焼けてすさんだ印象を与えていた。


 しかし、ルージュの横の小さなスナックの置き看板には電気がついていた。


 Rという、まるでお化け屋敷のような空き店舗の横のちっぽけなスナックに入ることに決めた私はドアを開けた。


 カウンターが5~6席と4人がけのボックスがひとつの小さなスナックの店内では、ママが1人タバコを吸いながらテレビを見ていた。


 振り返って私を見たママは年のころは50を過ぎているだろうか、いささか生活に疲れたようなやつれた表情をした陰気な女だった。


 ママはおざなりの笑顔を浮かべ、それまでバラエティ番組を流していたテレビをカラオケの画面に切り替えていそいそとカウンターに入った。


「いらっしゃ~い。

 お客さん、初めてよね」


「うん、初めて」


「飲み物何にします?」


「とりあえずビール」


「キリン?サッポロ?」


「キリンにして」


 私はママがビールを出してグラスに注ぎ、お通しを出すためにカウンターの奥に入った時にあらためて店内を眺めた。


 カウンターの棚には焼酎、ジンロやトライアングルが並び小さ目のホワイトボードに今日のお勧めのつまみが書いてある。


 くすんだ赤を基調とした内装。


 典型的な庶民的スナックだ。


 これならば父が渡した2万円で充分にお釣りが来るだろう。


 病院夜間受付の仕事の薄給で生活している私には有難い事だった。


「ママも一杯飲む?」


 お通しを出したママに私が言ってビール瓶を持つとママが先ほどのおざなりの笑顔と違い、心からの笑顔を浮かべてグラスを差し出した。


「まぁ、ありがとうございます」


 私はママのグラスにビールを注いで乾杯をした。


「焼酎…ボトル入れると幾ら?」


「ジンロかトライアングルになるけど…どっちも3500円よ」


「じゃあ、トライアングル入れて」


「あら、ありがとうございます!」


 ママが棚から新しいトライアングルの瓶を出し、ホワイトマーカーを差し出した。


「お客さん、お名前教えて。

 あと、ウーロン割とお湯割り、水割りどれにする?」


「とみきって言うんだ…水割りにしてくれる?」


「とみきさんね。私はマリって言います。

 どうぞよろしくね」


 私は瓶の首にかける名札にひらがなでとみきと書き込んだ。


「それにしても・・・隣の店は少し怖いね。

 ルージュ、あそこ閉店したの?」


 私が尋ねると氷を入れたピッチャーとミネラルやグラスを用意していたママが渋い顔をした。


「そうなのよ~!

 このご時勢でスナック閉める人多いんですよ。

 ルージュのママもかなり長い間頑張っていたんだけどね~!

 かれこれ20年はやっていたかしら」


「ママはここは長いの?」


「ううん、まだ2年目それに…とみきさん、怖い話し大丈夫?」


 ママが水割りを作りながら、なにやらいわくがありそうな笑顔を浮かべた。


「外から見るとルージュ、怖いけど…いわくがあるのはこの店のほうなのよね~」


「なに?いわくって…」


「怖い話だけど大丈夫?」


 ママが急に声をひそめて尋ねたのを聞いて私は心の中でふふんと鼻を鳴らした。


 普段病院の夜間受付の仕事をしていて深夜の霊安室や解剖室などを一人で巡回するし、今まで不可思議な経験などざらにあるのだ。


 多少のお化け話幽霊話などでビビルほど細い神経をしていない。


「怖い話?

 ぜひ聞いてみたいね」


 私はお通しに箸を付け口に運びながら言った。


 ママが何故か店内をちらりと見回し、ビールをぐいっと空けてから私に顔を近づけ、声を潜めて話し出した。


「実はルージュが閉まっちゃったの…この店のせいなの…」


「Rの?」


 ママが顔の前で手を振って顔をしかめた。


「ちがうちがう~!

 私が始める前の店よ…その時の店のママがねえ~ここで死んじゃったのよ  

~!」


「ここって…この店で?」


 私は床を指差して言った。


「そうなのよ…」


 ママがビールの残りを自分のグラスに注いだ。


 私は焼酎の水割りを一口飲んだ。


「Rになる前、もちろんここもスナックしていたのね。

 ママをしていた人って…ここで死んでいたの…」


「…」


「なんかお店閉める頃辺りに意識を失ったらしくてね、その晩と翌日、誰もそれに気がつかなかったのよね。

 それでママが倒れてから丸々2日間位そのままだったの…結局ルージュのお客さんがはしごしようとしてここに入ったらカウンターとフロアーの間で倒れていたママを見つけたってわけ…」


「それって…そのママは死んじゃってたってこと?」


「うん…びっくりしたお客さんが警察に通報したけど、結局はっきりした死因が判らなくて、売上金とかそのままで事件性も無かったから、変死扱いで片付いちゃったのよ」


「…へぇ~それでそこをまたママが借りてスナックを始めたんだ?

 度胸あるね、焼酎飲む?」


「あら、ありがとう。

 それじゃいただきます。

 だってここの店すごく安かったんだもの~!

 居抜きで礼金なしで家賃も相場の半分なのよ~!」


 ママがいそいそと焼酎の水割りを作った。


「だからここ安いからね~!

 ちょくちょく遊びに来てくださいね」


「そうだね~安い店が好きなんだなこれが…それでどうしてルージュが閉まっちゃったの?」


 ママが焼酎のグラスを持ち上げて私に乾杯のしぐさをした、私もグラスを持ってママのグラスにカチンと当てた。


「いただきますね~!

 ふぅ、おいしい…それがねぇ出るようになっちゃったのよ」


「出るって…これ?」


 私が両手をだしてぶらぶらさせた世間一般の幽霊を表す仕草をした。


「そうなのよ~!」


 そこまで言うとママがカウンターの下から一枚のパウチされた新聞記事の切抜きを出した。


「ねえねえ、嘘じゃないわよ。

 ほら、ここの住所でしょ?」


 古びた新聞記事には『スナックのママ変死』と見出しがついていて、この店の前にブルーシートが張り巡らされている写真と確かにママが言った通りの状況が書かれていた。


「こんなちっぽけな商店街じゃ大変な騒ぎになったらしいわね。

 それから数日ほどしたら、ルージュの常連客が死んだはずのママを見たって言い出してね、だんだんルージュのお客さんが…きゃ!」


 いきなり店内の電気が消えた。


「もうやだな~!

 この話するとブレーカーが落ちたりする時あるのよね~!」


 ママがカウンターの下から懐中電灯を出してスイッチを入れた。


 真っ暗な店内で懐中電灯の光が左右に動いた。


「もっとも調理場の大きい冷蔵庫がかなり古くていきなり電気をドバー!って使うからじゃないかって電気工事やってるお客さんが言ってたけど…すぐ電気点くからちょっと待っててね…」


 ママがそう言いながら慣れた様子でカウンター奥の調理場に入った途端にカラオケの機械にだけ電気が入った。


 そして勝手に岩崎弘美の万華鏡を演奏し始めた。


 私はかなり手の込んだ趣向だなと面白く思いながらカラオケ画面の明かりでに照らされた焼酎のグラスを持って一口飲んだ。


「ママ、なにこれ?心霊スナック?」


 私は笑いを浮かべて奥のママに言った。


「違うのよ~!

 そういうんじゃないけど、このカラオケ、時々どこかの電波が混信してるって言うんだけどね~!

 私も良く判んないのよ」


 店内の電気が点き、ママがデンモクを持って演奏停止ボタンを押したが曲は止まらず、画面に出ている女の顔がまるで磁石を画面に押し付けたかのように歪み、耳障りなハウリングの音が店内に響いた。


 ママが何回もボタンを押すと曲が止まり画面は待機状態になった。


「時々、まぁ、ほんの時々こういうことが起きるのよね~!」


 ママがうんざりした調子で言った。


「あたしも普通にスナックしたいんだけどね~ともかくここに店を開いてからは前のママさんのことやルージュのことばかり聞く人だったんで自然と初めの人には説明するのよ~!」


 その時、閉店して無人のはずのルージュとの壁がルージュ側からどんどん!と叩く音がした。


 私はビクッ!として壁が鳴った方を見たが、そこには誰もいなかった。


「あら…ほほほ!気にしないでね!

 時々こんな事も起きるけど慣れちゃった…でも、とみきさんすごいわねぇ!

 初めて来た人でこんな短い時間で全部体験する人、いないわよ!

 とみきさん初めてだから何か食べるものサービスするわよ!

 何が良い?」


「え、良いの?

 じゃあアタリメもらおうかな?」


「はい、喜んで!」


 ママが再びカウンター奥に入りアタリメを焼き始めた。


「ママ」


「は~い?」


「この店で起きることは大体これくらい?」


「そうよ~!

 だからあんまり気にしないでね~!」


 ママがあんまりのんびりとした感じで言うので私も苦笑を浮かべ、肩の力を抜いて焼酎を一口飲んだ。


 ちょっとしたアトラクションがあるスナックだと思えば大して気にならないだろう。


 友人など連れてきて、たまたまこんなことが起きれば話の種にもなるしと思い、私はこの店に入って良かったと思った。


 さて、誰を連れてきたら面白いかな?と私は頭の中で学生のときからの友人や病院で同じシフトを組んでいる看護師など色々と物色し、彼ら彼女らがこういう現象に遭遇したときの反応を想像して笑顔になった。


 ママが焼きたてのアタリメを持ってきた。


「何かカラオケでも歌うかな?」


「いいよ~!歌って歌って!

 ここは一曲100円だからね!」


「安いね!」


「家賃が半額だからね~」


 ママが笑いながら言った時、またしてもルージュ側の壁がどんどんと鳴った。


「今ふと思ったんだけどさ…イギリスの幽霊屋敷とかで壁を叩く音とかと意思を疎通させるの知ってる?」


「え?なにそれ?」


「例えば、イエスなら1回ノーなら2回叩いてくださいって言ってこういう…何かと会話するんだよ」


「え~!それ、面白そう!

 …だけどちょっと怖いわね~とみきさんやってみる?」


 ママに言われて試してみようかな?と私はルージュ側の壁を見た。


「…やっぱりやめた」


 私が言うとママが派手にずっこけたポーズをとった。


「いやだぁ~!少し期待したのに~!」


 ママが不満を漏らすと私はテヘヘと頭を掻いた。


 一瞬面白そうだと思っては見たものの、やはり少し怖かったのだ。


 私は面白そうだと思っていらぬ事をして深みにはまることが多い。


 ましてや今はお盆すぎ、実家に顔を出して母親に線香をあげたばかりなので今日はこの手の事は止めておこうと思ったのだ。


「ママ、次に来た時に気が向いたらやってみるよ。

 さて、カラオケカラオケ…」


 私は取り繕うように言うとデンモクを手に取り何を歌うか物色した。


 ドアが開き、温厚そうな50代後半くらいの男が入ってきた。


「あら、タカサ~ン!こんばんわ~!」


 どうやら常連らしいその男がママに挨拶しながら私の椅子ひとつ空けた横に座った。


「ママ、早い時間にお客さんとは珍しいね」


「そうなのよ~!今日は幸先良いわ~!

 こちらとみきさん、とみきさん、こちらはさっき話していた電気工事の人でタカさんよ~」


 タカさんと名乗る男は笑顔で私に会釈した。


「こんばんわはじめまして」


「あ、どうもこんばんわ」


「お兄さんも度胸が良いねここの店は…」


「もう説明済みです、ほほほほ」


 ママがタカさんのボトルを出しながらそういうとタカさんがいささかがっかりした様子の顔をした。


「なんだ、もう話しちゃったのか」


「話したどころか一通り体験しちゃったわよ。

 ねぇ~とみきさん?」


 ママが妙なしなを作って笑顔で言った。


「ええ、電気が消えたりカラオケが変になったり壁がどんどんと叩かれるのも…」


「それでまだ飲んでるんじゃたいした度胸だなぁ~!」


 タカさんが感嘆した様子で言い、ママが作った水割りのグラスを私に差し出した。


「まぁ、楽しく飲みましょう」


 私もグラスを合わせながら頭を下げた。


 その時にまた、ドンドン!と壁が鳴った。


「今日は元気だな…彼は気に入られたのかな?」


 タカさんがそう言いながらグラスの酒をグィッと飲んだ。


「よしてくださいよ~!

 とみきさんが連れてかれたら嫌じゃないですか~!

 これから大事なお客さんになるんだから…」


 私はママの言葉を聴いてぎくりとした。


 連れてかれる?


 俺が?


 誰に?


 どこに?

ママが何気なく言った言葉が心に引っかかった。


「ママ、連れてかれるって…」


 その時またドアが開き2人連れの男が入ってきた。


「あら~!いらっしゃい!」


 常連らしい男達がママにあと二人来るからと言いながらボックス席に腰を下ろした。


 ママがボトルと水割りのセットを持ってボックス席に行き、結局私の問いかけに返事は無かった。


「とみきさん、犬に注意すればよいんですよ」


 タカさんが水割りを飲みながらぼそりと言った。


「犬…ですか?」


「そう、犬にね…ルージュでここの前の店の時のママを見たって言う客は姿を消す前に黒い犬を見たって怖がりながら言ったそうです。

 何度も何度も怖そうに顔を引きつらせて、黒い犬を見たってね。

 言ったんですよ…それで急に姿を消してしまった。

 この辺りでは前のママがどこかに連れて行ったと噂になってますけどね…」


「…その人はどこかに消えたんですか?」


「さぁ…でも20年も常連だった人が何も挨拶せずにどこかに行くって…考えられないよね」


 私はタカさんの言葉を聴きながら確かにそうだなと思った。


 また壁がドン!と鳴って、ボックス席の二人が腰を浮かせた。


「今日はちょっと凄いのよね。ほほほほ!」


 水割りを作っていたママが取り繕うように笑ってちらりとこちらを見た。


 私とママの目が一瞬合った。


 ママはにこやかな顔をしているが、その目は全然笑っていなかった。


 なんと言うか、哀れみ?恐れ?諦め?色々な感情が入り混じったものがその瞳に宿っている感じがして私は背筋がゾクリとした。


「気を取り直して歌ったらどうですか?」


 タカさんがデンモクを私の方にずらした。


「タカさんは歌わないんですか?」


「私はもう少し飲んでからにします」


私は歌う曲を決めてママに声をかけた。


「ママ、歌うよ~!」


「どうぞどうぞ!カラオケの機械のほうに向けて送信して~」


 私は何とか明るい雰囲気にしようとナイアガラトライアングルの曲を歌った。


 歌っている時にボックス席の男達の連れのOLらしい二人連れが店に入って来て、少し賑やかな雰囲気になった。


 私が歌い終わり、皆が拍手してくれた。


「いやぁ~!とみきさん歌、上手いね!壁も静かになったから俺も歌おうかな~!」


 そう言いながらタカさんもデンモクに手を伸ばした。


 それからママがボックス席の客にも私を紹介してくれて、皆で和気あいあいと飲んで歌った。


 壁は沈黙したままだったし電気も切れなかった。


「ん~どうやら今日はもう退散したかもね~!

 とみきさんが上手に歌うから、ほほほほほ!」


 かなりお酒を飲んで顔を紅くしたママが、私とタカさんの隣に座って愉快そうに笑った。


「いや、そんなに上手くは無いよ~!

 昔に比べたらね、全然駄目駄目だよ」


 遥か昔、学生の頃は米兵相手のクラブでバンドのヴォーカルをしていた事があったが、今はすっかり声も萎んでしまった私は頭を掻いた。


「いやいや、声が若くて張りがありますよね~!」


「ほんとほんと!見かけと違ってマイク持つと声が変わるわね~!

 ほほほほほ!」


 褒められて悪い気はしなかった。


 私はその後も杯を重ね、歌を歌い、気味悪い話も忘れて楽しいひと時を過ごした。


 12時を過ぎて午前1時を廻った頃にママにお勘定を頼んだ。


「はい、今日は4500円ね」


「安いね~!」


 確かに安い。


 ボトルを入れて散々に唄い、おつまみもその後に2品ほど頼んだいたのに4500円は破格の安さだった。


 私は財布から父親の1万円札を出してママに渡した。


「ところでママ、黒い犬…」


 その途端にルージュ側の壁が激しく叩かれた。


 今までに無いほど執拗にドンドンドンドン!と激しく鳴った。


 私以外の、この店の異変に馴れているはずの客やママさえも顔を引き攣らせて無言になるほどだった。


「まぁ~…とみきさんが帰るから寂しいって!ほほほほほ!」


 ママが取り繕うような笑顔を浮かべて笑った。


 私はそれ以上ママに犬の事を聴きそびれてお釣りをもらい店を出た。


「また来て下さいね~!」


 ママがそう言って私に手を振った。


「うん、また今度寄らせて貰います。

 ご馳走様!」


 そう答えてドアを閉め歩き始めた私の視界に何か黒いものが入った。


 黒い犬。


 大きさはシェパードほどもある、ロットワイラーか何かの血が入っているような短毛の筋肉質の犬が道路の反対側の端に寝そべっていた。


 そして、犬は私を見るとのっそりと立ち上がった。


 人気の無い通りで、私と犬は無言で見つめ合った。


 本能的な危険を感じた私は一瞬店に戻ろうかと思った。


 犬は立ち上がり、舌を出してハァハァ言いながらじっと私を見つめていた。


 しばし躊躇した後で私は気を取り直して犬から目をそらし、歩き始めた。


 さっき犬の話で脅かされた男が店の前で犬を見たといって引き返してきたら笑いものにされるだろう。


 深夜の通り、と言っても駅からすぐの商店街のはずれだが私以外に通りを歩く人はいなかった。


 昼間の熱気は消え去り、涼しい風が吹いて私の酔いの火照りを冷ましてくれた。


 シャッターが降りた人気の無い商店街の通りを私は歩いた。


 後ろを見ると、さっきの黒い犬が頭を下げて私から10数メートル後ろを歩いている。


 間違い無く私の後をつけていた。


 間違い無く。


 間違い無く犬は私の後をつけてきた。


 私は立ち止まり犬に向き直った。


 犬も立ち止まった。


 素手で中型の犬と戦った場合まず99パーセントの確立で人間が負けると、昔危ない仕事をしていた時に教官から教わったことを思い出した。


 それに犬はそこいら辺りをうろつく、つまらない人間よりもずっと自制心がある。


 普通は訓練を受けていない限り、犬が人間に対して警告以外で噛み付くことはまず無い。


 巷で犬が人間を襲ったと言う事件は大概が人間に対して警告を与えた程度の攻撃なのだが、それでも人間は重傷を負ったり酷ければ死んでしまうことだってあるのだ。


 ましてや、殺意を持った犬の攻撃は半端なものではない。


 かなりの大男でもあっさりと引きずり倒されてのど笛を掻っ切られてしまう。


 私は屈強な軍人が単独の大型犬に襲われてなすすべも無く生きながら残忍に噛み殺されたのを目の前で見た事がある。


 走って逃げても貧弱な人間の脚力などでは到底犬を引き離せるものでは無い。


 一見鈍重に見えるカバでさえその全力疾走の速さは人類最速の男ウサイン・ボルトと同じなのだ。


 ましてや犬ならばカバの数段走るのが早い。


 人間の肉体は野生の中では限りなくひ弱なのだ。


 私は犬を観察した。


 犬の体のたくましい筋肉が黒い毛皮をところどころ体の内側から盛り上げて、節電のために間引きして点いている街灯に反射していた。


 シェパードが普通の人間ならばこの犬はK-1選手並みにマッチョだった。


 その首も猪の様に太く顎も頑丈そうで当然噛む力もシェパード以上だろう。


 何かあった場合私はなすすべも無くこの犬に引きずり倒されて噛み裂かれ、命を失う。


 幸いなことに犬はなんら敵意を見せることも無くじっと私を見つめていた。


 今のところは。


 私はゆっくりと向き直り、商店街が切れて住宅街に差し掛かる道を歩き始めた。


 病院勤務の時の護身用にいつもポケットに忍ばせていた催涙スプレーは去年性悪な女に持ち去られていた。


 あれさえあれば嗅覚に敏感な犬はかなり怯む事だろう。


 私を襲うことを思い留まらせるほどに怯ませることが可能だ。


 私はこの時ほどそれが残念だと感じた事は無い。


 道はますます寂しくなって行き、すれ違う人間も一人もいなかった。


 犬は黙々と私について来た。


 私はこの時も止せばよいつまらぬ事をしてしまった。


 携帯を取り出して振り向くと犬に向けて写メを撮ろうとした。


 携帯を向けた途端に犬が牙をむき出して唸った。


 地獄の番犬さながらの表情で両前足を踏ん張り重心を落として飛び掛かる体勢になった。


 私は慌てて携帯をポケットに収めた。


 そして振り向き、走りだしそうになる足を必死に抑え、歩き出した。


 10数メートル後ろにいるはずの犬の不機嫌そうな荒々しい吐息が私の耳元で聞こえる感じがした。


 犬の爪がアスファルトを擦るジャリジャリとした音さえ聞こえてくるようだった。


 私は心の動揺を抑えるために、吸い込んだ空気を一秒ほど肺にためてからゆっくりと吐き出した。


(どうしようか…あいつはこのまま家までついてくるのか…それとも家に着く前に俺に襲い掛かるのか…俺は…こいつに食い殺されるのか…いや…殺されるよりも酷い目に遭うかも知れない…この世には殺されるよりもずっとずっと酷い事がある…)


 私は大声で叫び走って逃げようとする衝動を必死で抑え、頭の中の地図を引っ張り出して何とかこの犬を捲くか遠ざける方法を考えた。


(何とかこの住宅街を抜ければこの先に東長崎の駅があってそこに交番がある…コンビ二は問題外だ荒れ狂う犬でも逃げる人でも見境無しに自動ドアは開くからな…)


 犬が低く吼えた。


 犬の日向くさい体臭まで臭ってきた。


 足が勝手に走り出そうとして、私はそれを必死に抑えた。


(死にたくない死にたくない!散々に酷い所に何年もいてやっと生きて帰ってきたのに、やっとやるべき事が見つかって未来に希望が見えてきたのに、こんなところであんなやつに噛み裂かれて死ぬなんて嫌だ!いや、死ぬより酷い目に遭うかもしれないなんて嫌だ嫌だ嫌だ…落ち着け!落ち着け!何とか交番まで辿り着けば…いざとなればオマワリの拳銃を奪って犬を撃ち殺せばよいんだ!警察に捕まっても食い殺されるよりはましだ!)


 私はギクシャクと足を動かして歩き続け、ついに遠くに交番の明かりを見た。


 走り出しそうになる足を必死に抑えて私は交番に向かった。


 幸いなことに交番は開いていて中には中年の制服巡査が椅子に座っているのが見えた。


 犬の吐息と体臭をすぐ後ろに感じながら私は交番までの残り2メートルを耐え切れずに駆け出し、物凄い勢いで交番に飛び込むと思い切りドアを閉めた。


 雑誌を読んでいた中年の巡査があわてて立ち上がり私に声を掛けた。


「おい!なにがあったの!?」


 私の顔を見た巡査が更に緊迫した声で言った。


「どうしたの!?

 あんた、顔真っ青だよ!」


 私はまるで犬が引き戸を開けることが出来るかのように用心深く引き戸が空かないように手で押さえて巡査に言った。


「お巡りさん!犬!黒くてでかい犬が外をうろついています!

 とても危険だから何とかしてください!」


「犬?」


「そう、恐ろしくでかくて凶暴な犬です!

 早く捕まえて!…いや!誰かが殺される前に射殺してください!」


 巡査は訝しげに私の顔を見た。


「あんた、酔ってる?」


「酒は飲んだけど酔いはすっ飛びましたよ!

 早く!あれを何とかしてください!」


「おい!」


 しばらく私の顔を見つめていた巡査が交番の奥に声を掛けた。


 奥から若い巡査が顔を出した。


「なんですか?」


 中年巡査は壁に立てかけてある頑丈な木の棒をつかんだ。


「野犬、かなりでかいらしい。

 ちょっと見てくるからこの人を保護していてくれ」


 中年巡査が私の横を通りドアを開いた。


「お巡りさん、そんな棒じゃだめだ。

 ピストル抜いていったほうが良いよ」


 中年巡査が私に笑いかけた。


「なに、危ないと思ったらすぐに戻りますよ。

 私も犬の怖さは知っていますから。

 おい、後を頼むぞ」


 中年巡査は若い巡査に声を掛けて用心深くドアを開き、棒を構えて外に出て行った。


 若い巡査は生あくびをかみ殺しながら私の隣に立って外の様子を伺った。


「犬、でかいんですか?」


「ああ、とてもでかくてマッチョな感じだった…おっかなかったよ」


「へぇ~」


 若い巡査は私の答えを上の空で聞きながら中年巡査が出て行ったほうを眺めた。


 私はこの巡査達は到底あの犬には敵わないと思い、いざと言う時にすかさず若い巡査のピストルを奪えるように彼の右斜め後方に立った。


 若い巡査は無用心に私に背を向けて突っ立ったまま外を見ていた。


 どれほどの時間が経ったのだろうか?


 突如甲高い犬の吼え声が聞こえてきて私と若い巡査はビクッと身を震わせた。


 そして外に出て行った中年巡査の声が聞こえてきた。


「おとなしくしろ!こいつ!

 あ!いてて!この野郎!」


 私と若い巡査が緊張して声のするほうを見ていると、中年の巡査がなにやら紐を引っ張って交番に帰ってきた。


 その紐は犬を繋ぐリードで、その先には小柄な柴犬がリードを引っ張る巡査に抵抗して唸りながらもがいていた。


「これが…でかくて凶暴な犬?」


 中年巡査が笑顔を私に向けた。


「いや、違うですよ!

 もっと大きな黒い犬がいるんです!」


 私は必死に叫んだが中年巡査は交番に犬を繋いで額の汗をぬぐった。


「ふ~ん…見当たらないな~!

 確かにいたのかもしれないけれど、もうどこかに行ってしまったと思いますよ。

 見つかったのはリードを引きずって歩いていたこいつだけでした」


 中年巡査が交番に繋がれてあちこちの臭いをくんくん嗅ぎ回っている柴犬に顎をしゃくった。


「ちがう!奴は椎名町からずっと俺をつけてきたんだ!

 ずっとわき目も振らずに…俺をつけてきたんですよ…唸りながら…ずっと…」


 じっと私を見つめる二人の巡査の視線に気おされて私の語気は弱々しくなり沈黙した。


 私は俯いてしまった。


 酒臭い自分の息が恨めしかった。


「おにいさん、おそらく犬は自分のテリトリーの範囲からおにいさんが出たから自分の場所に戻ったんじゃないかな…犬ってそういう習性があるからね~、おにいさんが歩いていて、たまたま犬の縄張りに入っちゃったんだよ。

 まぁ夜中に放し飼いにする人この辺多いからね」


 中年巡査が酔っ払いをなだめる様に優しく私に話しかけた。


「はぁ…そうかも知れないですね…」


 柴犬が俯いた私の足にじゃれ付いた。


 私は巡査達に小声でお礼を言って交番を後にした。


 交番から家までの間、私は何度も後ろを振り返りながら歩いたがあの黒い犬の姿は見えなかった。


 家まで数メートルのところに来た時、いきなり短い犬の吼え声が聞こえた。


 振り向いた私の目に、あの黒い犬の禍々しい姿が映った。


 それの目はどういう光の加減か赤く、血のように赤く光り、口から涎の糸を垂らしていた。


 私はじりじりと後ずさり、玄関のノブを後ろ手に掴み、犬が飛び掛ってきたらすぐに家の中に逃げ込めるようにした。


 黒い犬はそんな私をじっと見つめ、そして顔を左右に巡らせて私の家を眺めた。


 そして、ぷいと横を向き椎名町の方向にゆっくりとした足取りで歩き去った。


 いや、椎名町の方向の闇の中に溶けて消えた。


 少なくともその時の私の目には黒い犬の体が夜の闇に溶けて消えていったように見えた。


 あれは私の家を確認して満足したのだろう…私の住処を確認して満足したのだろう…私は犬が消えた闇を見つめてそう確信した。


 私はため息をついて額の汗を拭った。


 私はドアを開けて家に入った。


 家といっても不景気の世の中で最近はやり始めたゲストハウスと言う、個室はあるがキッチン、トイレ、バスルームなどは共通の寮か昔の下宿屋のようなところに私は住んでいる。


 バブルのころに作られた豪勢で広い間取りのメゾネット式マンションを改造したゲストハウス。


 私は広い玄関に入り、後ろ手にドアを閉めてため息をついた。


「とみきさん、おかえり…どうしたの?顔真っ青だよ?」


 共有リビングでパソコンをいじっていたゲストハウスの住人の女の子が私の顔を見て心配そうに尋ねた。


「いや、なんでもないよ.

 暑い中歩いたから少し体調悪いかも…」


 私はそそくさと自分の個室に入りタオルを出してバスルームに向かった。


 2階にある男子用のバスルームに入りシャワーを出して汗を流した。


 シャンプーで頭を洗っている最中に不意に耳元で犬の忙しない息使いが聞こえた感じがしてぎょっとなった。


 そしてあわててシャンプーを洗い流し、背後の気配に注意しながら体を洗った。


 バスの防水カーテン越しに黒い犬が蹲っているシルエットが見えたような錯覚に陥り私はぎゅっと目をつぶった。


(実体を持った犬がシャワールームに入り込むはずが無いじゃないか…)


 椎名町のスナックから立て続けに気味の悪い出来事に遭遇し、神経過敏になっているようだ。


 風呂から上がるともう、午前2時を廻っていた。


 私は携帯電話の目覚ましを8時にセットして布団にもぐりこんだ。


 その晩、なんともいえない嫌な夢を見た。


 どこか北の国の森林地帯の小屋で私は大きな木の桶の中に入れてある切り離された人体のさまざまな部分を吟味して今夜の鍋物の具にする部分を切り分けていた。


 すぐそばに黒い犬がいて、私の口に合わないと判断した手や足の骨の多い部分や痛みが進行して異臭を発する内臓などを黒い犬に投げ与えていた。


 黒い犬は期待のまなざしで私を見つめていて、投げ与えられた人体の部分をぺろりと平らげ、また私を見た。


 木の桶の中から拾い上げた女の首が私の最愛の妻のものだった。


 これは食べられないし、犬に与えるのも嫌だ、どうしようかと逡巡していると犬が私に体当たりをして転がった妻の首をくわえて森の中に走りこんだ。


 私は慌てて死体を切り分けるのに使っていた大きな、鉈の様な包丁を片手に犬を追った。


 犬は森一番の大きな木の根元に穴を掘りその中に妻の頭を埋めた。


 私は穴を掘り返して妻の頭を探したが、妻の頭以外に今は亡き娘の頭や2番目の妻の頭、当の昔に死んでしまった親友の頭や今付き合っている女性の頭などがごろごろ出てきた。


 その頭たちの、腐りかけた形が崩れ、異臭を放つ頭たちの目が開いて、私を口々に罵った。


 そして生首たちの罵り声に合わせて黒い犬が遠吠えを始め、いつの間にか森の中は目を赤く光らせた黒い犬の群れで充満していた。


 私はそれらの声を圧するように怒鳴り、叫びながら包丁を振るい、犬達の首を刎ねていった。


 黒い犬達は首を刎ねられても吼えることをやめなかった。


 私は目が覚めた。


 びっしょりと汗をかいていた。


 窓の外から弱々しい朝の光が差し込んでいた。


 私は息を殺して黒い犬が入り込んでいないか目だけを動かして部屋の中を見回した。


 殺風景な狭い部屋の中に異常は無かった。


 枕もとの携帯電話を見ると、まだ午前5時まで十数分あった。


 私はタバコとライターを持って部屋を出るとキッチン奥の喫煙場所に行き、ため息をつきながら椅子に座ってタバコに火を点けた。


 肩と首が異様に重かった。


 タバコを持つ手までが重くて顔までタバコを持ち上げるのに苦労したほどだった。


 気を取り直し手に力をこめてタバコをすぱすぱと吸い、部屋に戻ってまた寝転んだが、肩と首の重さは取れなかった。


 私はすっかりと明るくなるまで布団の中でまんじりともせずに時を過ごし、またシャワーを浴びに行った。


 湯船にお湯をためてしばらく浸かっていたが、それでも首と肩の重さが取れなかった。


 風呂を上がり、私は数年前から時折思い出したように依頼が入る単発の妖しいアルバイト関係の医療担当者である桜田と言う医師に電話をした。


「もしもし、朝からすみません、とみきです」


 電話の向こうから快活そうな中年女の声が聞こえてきた。


「あら~!とみきちゃん?

 久しぶりだね~!栃木以来だっけ?」


「桜田さん、久しぶりです。

 ご無沙汰しています。

 山口さんの様子はどうですか?」


 私は研究所の現地調査指揮官の山口について尋ねた。


 彼女は最近栃木市のある不可思議な現象の予備調査に言った時に重傷を負ったのだ。


「うん、栃木のあと東京の病院に移ってから色々精密検査してるけど、大した事は無いみたいよ。

 来月には退院出来るかな?

 なに?飲み会のお誘い?

 土曜日だったら行けるわよ~!」


 仕事以外だと酒を飲んで騒ぐ事にしか興味を示さない彼女らしい応答に苦笑しながら、私は昨日の夜から身の回りに起きた異変について話した。


 彼女は黙って私の説明を聞いていた。


 事の次第を説明する間、じっと電話の向こうで話を聞いていた桜田がため息をつき、ライターの着火音が聞こえタバコの煙を吹き出す音が聞こえた。


「とみきちゃんも仕事以外でそんなところに行かなきゃ良いのに~!」


「好きで行った訳じゃ…う~ん…どうなんだろう?」


「うふふふ、心霊スナックって珍しいわね…うちの研究所で何らかの…ラップ音とかで自己主張するアンノウンが存在する箇所は日本だけでも数十箇所確認してるわよ」


「そんなに?」


「そう、テレビに出したら問い合わせ殺到、大スクープ間違い無しの物がごろごろ確認されてるわよ…最もそんなのテレビで流したら大変な騒ぎになるからおままごとのような心霊スポットルポを流してるけどね~!

 だけど、黒い犬のおまけがつくなんて面白いわね~!

 あなた、犬とは仲良しでしょう~!」


「ぜんぜん面白くないですよ。

 それにあいつはアラン達とは大違いなんですよ…なんていうか…邪悪なオーラがビシビシ出ていましたもんね」


 私は広島山中の調査に言った時に同行したアラン、ジョン、フーバーと言う名のシェパードの事を引き合いに出した。


「傍から見たら面白いわよ~!

 しかし…変死したママが幽霊になってそのスナックに居ついて電気を落としたりカラオケを動かしたら隣の空き家のスナックから壁をどんどん叩く…しかも黒い犬が、それが何なんだか判らないけど、それがついてきてあなたの家を確認して夜の闇に消えた後でも悪夢を見せて肩と首を重くしていると…」


「…冷静に言われると確かに変な話ですね」


「うふふふふ、確かにそうだけど世の中には変な話が満ち溢れているからね~!

 私はそういうのを頭ごなしに否定するほどお粗末な脳みそを持っていないわよ。

 だからこんな研究所で働いているんじゃない」


「…」


「いつ行こうか?」


「え?」


「なによ~!

 誰かについてきて実際に見てもらいたいんでしょ?

 出来ればその謎を解明するか、とみきちゃんに憑いているらしいものを追い払ってほしいと…そういう事で私に電話してきたんでしょ?」


 桜田はすっかりお見通しとばかりの口調で言った。


 その通り、私は家にまでついてきた黒い犬を追い払って欲しいし、肩と首を軽くして欲しいし、ついでにあのスナックの謎を解明して欲しい。


「ちょうど今うちの研究所が暇だから…誰か連れてゆこうかな?

 そうだ、大倉山君にちょっと色々測定してもらおうかな?」


 桜田は現地調査データ管理の担当をしている男の名前を出した。


「お願いします」


「じゃあ、今度の週末に行こうかな?

 あなた、土曜日の夜は空いてるんでしょ?」


「はい、でも今度の土曜日だと懐具合が…」


「ふふふ、大丈夫、研究所の予備調査って事にして経費で落とすわよ。

 落ちなければ私が自腹で奢ってあげる

 なにせあなたは大事なダイバーだからね。

 うちの貴重な持ち駒だから」


「ありがとうございます」


「それじゃ、土曜日。

 細かい時間が決まったら電話かメールするわ。

 それまで黒い犬に喰われない様に用心してね~!

 あ、そこはカラオケ本当に1曲100円なのよね?

 もちろんあなたのボトル飲んで良いのよね?

 それで、本当に安いのよね?」


「はい、本当です…あの~ただの飲み会じゃ無いですからね」


「そんなの判ってるわよ!

 いや~楽しみだわ~!ほほほほほ!」


 桜田の笑い声で電話が切れた。


 電話が切れ、私は少しほっとした。


 色々と怖い思いをしたがあの研究所のバイトをしておいて良かったと思った。


 この手の問題に関して一番的確に対応してくれるところなんて私の人脈では他には見当たらない。


 今日は火曜日なので土曜日の夜まであと5日間。


 病院での勤務が2回。


 その間私はせいぜい黒い犬に用心して過す事にしよう。


 背後に注意しながらなるべく人が多いところを歩く、すぐに犬が入り込めないようなところをチェックしてその近くを歩く、お風呂に良く浸かって首と肩のマッサージを念入りにする、そして怖い夢を見ないように気をつける…だが、どうやって?


 私はゲストハウスの自分の部屋に戻るととりあえずハサミの刃を開いて窓に向けて置いた。


 ベイルートで知り合ったロマジプシーの占い師のばあさんに教わった魔除けのおまじないだ。


 これは下手なお札よりもずっと効果がある。


 私は窓に置いたハサミの位置を少し直してから、朝ごはんと病院勤務の夜食用おにぎりのためにご飯を炊いた。


 相変わらず肩と首は重かった。


 ふと、私があんなアルバイトをしているからこの世ならぬ変なものが擦り寄ってくるのかな?と首を捻って考え込んでしまった。


 午後になり、準備を整えて病院に出発した。


 ゲストハウスを出る時も左右に注意して用心して外に出た。


 背後や角に注意しながら歩き、いつもなら歩いてゆくところをバスに乗り、病院最寄の王子駅に着いた時もすばやく喫茶店に入り、入り口から何かが進入した時に直ぐに判る場所に陣取った。


 勤務に入る午後5時までの1時間あまりをいつもこの喫茶店で過ごし、ノートパソコンでSNSに連載するお話を打ち込んだりするのだが、今日はその気分ではなかった。


 私は黒い服を着た人間が視界に入っただけでもビクッとし、落ち着かない気持ちでコーヒーを飲んだ。


 出勤時間になったので私は喫茶店を出た。


 周囲を警戒して町を歩き、幸いなことに黒い犬に出くわさず、病院に辿り着いた。


 タイムカードを押して受付裏にある当直室に入る時、いつもの習慣で外来の待合室を見た。


 さほど混雑していないのでほっとしながらも、待合室の隅のベンチで上体を小さく揺すりながら座っている50代後半の男に目が行った。


 月に一度心療内科に通っている、少し精神が不安定なその男。


 男は時々理不尽な内容のクレームをつけたり意味不明な暴言を吐いて壁を殴ったりする、いわば『MK』である。


 MKとは問題患者の略で医事課職員やナース達の間で影でそう呼んでいる何人かの問題患者の事である。


 ブラックと呼ばれる出入り禁止診察拒否とまで行かないが、色々と取り扱いに困る歪な感情の持ち主の患者達。


 私は先月、診察までの待ち時間が長いと口汚く罵りながら壁を蹴っているその男に対する対応で嫌な思いをしたのを思い出して、心の中で舌打ちをした。


 当直室は診察時間帯は医事課職員の休憩室も兼ねている。


 2人の医事課職員の女性がお菓子を食べながらテレビを見ていた。


「お疲れ様です」


 私は部屋に入り、ナップザックを下ろし当直員用の名札を胸ポケットに留め、医師体制表の紙、ボールペン、ポケットベルをポケットに入れた。


「とみきさん、お疲れ様~!

 来てるよ~石崎」


 丸顔のほうの女性職員が顔を顰めて言い、隣に座った女性職員も同意を表し、目を細めて頷いた。


「まぁ、奴は汚い言葉を言って壁を蹴るだけだから…大丈夫ですよ」


 私はそう答えながら警備日報に日付などを記入した。


 午後5時からの勤務開始は夜間外来の受付業務から始まる。


 午後7時30分に夜間診療が終わるまで、再来機と呼ばれる受付の診察機械の横に立ち、やってくる患者の応対をする。


 やはり連日の暑さが影響しているのか、今日は比較的空いていた。


 石崎が診察券を機械に入れて受付を済ますとじろりと私を見た後、待合室の隅のほうに歩いていった。


 石崎は隅の椅子に座り、たまたま前を通りかかった杖をついた年老いた女性をいきなり突き飛ばし暴言を吐き始めた。


 女性が腰を抑えて苦しげに唸り、そばにいた3歳くらいの子供が火のついたように泣き喚いた。


 待合室は騒然となった。


 私は走っていって、罵声を上げて子供の胸倉を摑もうとした石崎に掴み掛かった。


 石崎が振り向きざまに手に隠し持っていた何か鋭く尖った物を私に突き出した。


 下手に間合いを取って子供を人質にとられたりしたらかなわないので私はにそのまま手を伸ばして石崎の襟を摑んで取り押さえようとした。


 石崎が突き出した尖った物が私の右手首辺りに刺さった。


 刺された時特有の激痛と言うよりも熱い感触が、何か硬いものが私の腕の筋肉を掻き分けながらずぶずぶと入ってきた感触が走った。


 私は尖った物を持つ石崎の手ごと左手で握り締めてそのまま捻り上げ、体重を掛けて押し倒した。


 私の下で石崎が何か意味不明なことを叫びながら暴れたが、どうにか取り押さえることが出来た。


 騒ぎに気づいたもう一人の当直と医事課の男性職員が駆けつけて、3人がかりで石崎の手足を押さえつけた。


 石崎から身を離した私は手首に刺さった物を見た。


 それは千枚通しだった。


 私の手首から肘に掛けて千枚通しが斜めに根元まで深々と刺さっていて、傷口からだらだらと血が流れていた。


「抜かないほうが良いよ!」


 看護師が私の手を見て顔をしかめながら言った。


「うん、そうだね。

 これは先生に抜いてもらおう」


 言われるまでもない。


 こういうものを下手に抜いて血管を傷つけて大出血とか神経を傷つけて麻痺が残るなんてまっぴらごめんだ。


 どくどくと脈打つような出血も無く、指先や掌や手首もきちんと動いているのを確認して私はほっとした。


 どうやら太い血管や神経は傷ついてなさそうだ。


 私は騒然となった待合室の中、看護師に支えられて中央処置室に歩きながら、他の職員達に取り押さえられながら暴言を吐き続ける石崎を見た。


 奴はまるで昨日の黒い犬のような目で私を見つめて叫び続けた。


 奴の目は赤く光り、犬、黒い犬の目をしていた。


 少なくとも私にはそう見えた。


 私と看護師が中央処置室に入ると、30代後半の男性医師がニヤニヤしながら奥の椅子に座るように言った。


「見てたよ、ヒーロー。

 どれどれ名誉の負傷を見せてごらん」


「ヒーローなんかになりたくないですよ…ったく」


 私が差し出した腕をまじまじと見た医師は看護師に命じて消毒液を染ませたガーゼを用意させて、腕に刺さった千枚通しを摑み、まっ直ぐに抜いた。


 多少の出血。


 刺さったばかりなのでさほど痛みは感じなかった。


 医師はガーゼをピンセットでつまみ私の腕の穴に突っ込んだ。


「イテテテ!先生、刺された時より痛いですよ!」


「我慢我慢!傷はたいした事無いけど消毒だけはしっかりしとかないとね、プッ…ヒーロー」


 医師は傷口に消毒液を注ぎ込み丸めたガーゼをぐりぐりと押し込んで回転させた。


 そして、血にまみれた千枚通しをちらりと見てため息をついた。


「やれやれ、毒とか塗ってないよな」


「怖い事言わないでください」


 医師は私の腕をめくるとアルコールで消毒して注射を打った。


「傷は縫う必要は無いね。

 一応抗生物質打っといたから…指とかちゃんと動くでしょ?」


「はい」


「じゃあ心配ないと思うよ。

 CTかレントゲンを撮ろうかと思ったけど…まぁ、その必要は無いかな?

 消炎剤と化膿止め出しとくから飲んでね…プッ、お疲れヒーロー」


 看護師が腕の傷にガーゼを貼り、テープで止めた。


 処置室を出るとおっとり刀で掛け付けた所轄の警官が石崎を連行して行くところだった。


「あんた被害者?」


 別の警官が私に声を掛け、その後当直室で事情聴取を受け、証拠物件の千枚通しを持って警官が引き上げた。


 会社に電話をして事情を話すと代わりに出れる者がいないから続けて勤務して欲しいと言われた。


 やれやれ。


 私は腕に残る鈍痛にイラつきながらも当直勤務を続けた。


 外来の診察も終わり、受付や待合室に人気が無くなる頃、警察署から電話が来て石崎は大学病院の閉鎖病棟に措置入院となったことを報告してきた。


 職員も次々と帰宅して静かになった病院で私はテレビを見ながら石崎の目のことを考えていた。


 あの時、私を刺したあのときの石崎の目は確かに赤く光って見え、あの晩の黒い犬の目にそっくりだった。


 (考えすぎかな?しかしタイミングが良すぎる…)


 もう一人の当直の山吹が声を掛けてきた。


「どうですか?腕の様子」


「痛みもないし、たいした事無いよ」


「それは良かったですね。

 いやぁ、びっくりしましたよ」


「山吹君、あの時あそこにいたよね?」


「はい」


「石崎の目なんだけど…赤くなってなかった?」


 山吹はきょとんとした顔をした後で虚空を見て考え込んだ後、首をかしげた。


「いや、キチガイ見たいな目つきをしていたけど、充血とかはしていなかったですね~!

 どうかしたんですか?」


「いや、別に…」


 私は壁の時計を見た。


 午後9時10分前だった。


「そろそろ巡回に行ってくるよ」


「はい、気をつけて…でも、とみきさんなら大丈夫ですね」


「なんだよ~!俺だって生身の人間ですよ~」


 私はキーボックスから鍵を取り、マスターキーのホルダーにはめ込んで病院内の巡回に出かけた。


 人気が無くなった病院を1人で巡回するのも慣れたが、今日は昨晩の黒い犬のこともあり、先ほどの石崎のこともあって、常に背中を誰かがじっと見つめているような嫌な感触がついてまわった。


 院内を回り、別棟の外も回って異常が無い事を確かめた私は建物の影でタバコに火を点けた。


 夜になってもまだまだ昼の熱気が残り、力無い夜風が蒸し暑い空気をどんよりとかきまわしていた。


 私は額を流れる汗を手でぬぐい、タバコの煙を吐き出した。


 しばらくタバコを吸い、携帯灰皿に押し込んで消すと病院の正面玄関に歩いていった。


 蒸し暑い空気に乗って犬特有の日向臭い体臭が流れた。


 私は目を疑った。


 振り返った私の眼に、あの犬の姿が映った。


 人気が無い暗い通りの向こう、あの黒い犬が舌をだらりと出して喘ぎながら、じっと私を見ていた。


 自宅とともに勤め先まで突き止められたと思い、私は自然と息が荒くなった。


 犬はじっと私を見ているだけでその場を動かなかった。


 私は犬に背を向けないように後ずさりしながら病院の中に入った。


 正面玄関の自動ドアが閉まった後でも犬の体臭と荒いと息が私にまとわりついているような感覚があった。


 私は当直室に入り、ロッカーの携帯電話を取ると無人になった待合室の隅で桜田に電話を掛けた。


「もしもし、桜田さんですか?」


「はぁ~い、とみきちゃん?」


「ええ、とみきです」


「どうしたの?今日は病院で夜勤でしょ?」


「それが…あの犬が現れたんですよ」


「…見間違いじゃないの?

 だって、椎名町から王子なんてかなり離れてるわよ」


「見間違いなら良いのですが…どうも同じ犬のようです」


 電話口の向こうで桜田はじっと考え込んでいるように沈黙した。


「…それに今日夜間診療中に私の事を刺した男があの犬の目をしていたんですよ…こんな事言うとノイローゼとか言われるかも知れないけど、確かに刺された時にあの男はあの晩の犬の様に目が赤く光ってたんです」


「ちょちょ!刺されたって?

 どこを?あなた大丈夫なの?」


「千枚通しで腕を刺されたんですけど幸いたいしたことはありませんよ。

 まぁ、それで気が動転しているのかもしれないんですけど…確かにあれはあの晩に見た同じ犬です」


「…他の人が言うなら、ノイローゼって言っちゃうかもしれないけど…とみきちゃんは奈良でも広島でも栃木でもあたし達の誰よりも冷静だったからね…その言葉を信じるわ。

 …保安チームの誰かを護衛につけようか?」


「嫌々それほど大げさな事をするのは…それに、武装した人間じゃないとあの大きさの犬には立ち向かえないですよ」


 広島の調査で訓練された犬の力を思い知らされた桜田は同意のうめき声を上げた。


「ふ~ん…それもそうね…でも、あなた1人で大丈夫?」


「今日は襲ってくるそぶりは見せなかったです…あいつも何か癇に障るような事をしなければ…大丈夫なのかな?」


「どうもその犬…犬の真意が分からないわね」


「…」


「ただ単にあなたを脅かそうとしているのか…もしかしたら何らかの危険を警告してくれているのか…」


「何かを私に警告してくれている…だとしたらかなり性格悪くて底意地悪くて意地悪な性格ですね」


「ふふふ、あなたの身の回りにはそういうのが寄って来るじゃないの?」


「人間以外はゴメンですよ。

 …人間が一番恐ろしいかもしれないけど」


「そうね~!人間が一番恐ろしいわよね。

 とにかく土曜日の夜まで用心していてね、ますます椎名町のお店に興味が湧いたわ、ふふふ」


「せいぜい用心しますよ…桜田さん、何か楽しんでいませんか?」


「だってぇ~!

 とみきちゃん、色々面白い話を持ってくるんだもの。

 うちで調べている事案と同じくらい興味深い話よねぇ~」


「桜田さん、笑い事ではありません」


「あら、ごめんなさいね、ほほほほ。

 とにかく何かあったらすぐに連絡ちょうだいね。

 24時間いつでも良いから」


「はい」


 私は電話を切って壁に背をもたれ、ため息をついた。


「そうか…興味深くて楽しいのか…やれやれ、こっちはそれどころじゃないよ」


 無性にタバコを吸いたくなったが、外に出るとあの犬がいる。


 私は地下霊安室の奥、今は使われなくなった駐車場を通り抜けた先の出入り口から出たところの地下階段踊り場に向かった。


 暗闇の中、痛む右手を庇いながらタバコに火をつけて一息吸った。


(本当に俺にはなにやら色々と変なものが擦り寄ってくるな…)


 だが、それはそれでなにやらドキドキわくわくさせるものがある。


 結局そう感じる私の心が世の中の変なものを私の周りに引き寄せるのだろうか…


(俺は結局そういう変なものたちと実は同類なのかもしれない…)


 そんな思いが頭をよぎり、私はぞっとした。


靴の裏でタバコを消して携帯灰皿に吸殻を押し込むと私は受付に戻った。


 その日の勤務は深夜2時までに救急隊からの電話が3回。


 その内2つを受けて搬送されてきた患者のうちの1人が入院、1人は軽症なので点滴を受けた後で自力で家に帰った。


 患者からの直接の電話は5件で4人が深夜に病院に来たが全員軽症で喘息の吸引や点滴などの処置を受けて家に帰った。


 明け方の3時半過ぎにはすべての患者がいなくなり、病院一階は静まり返った。


 深夜零時と午前2時の巡回の時には何も異常が無く、例の犬も姿を見せなかった。


 私は痛み止めと炎症止め、化膿止めを飲んだので朝5時に病院を空ける準備をするまで仮眠をとることにした。


 仮眠と言っても救急隊や患者からの外線電話が出たら直ぐに出なければならない。


 山吹はすでにもそもそとテーブルに敷いた布団にもぐりこんで軽い寝息を立てていた。


 私は無粋な電話が掛かってこない事を祈りながら事務テーブルを二つ並べた上に敷布団と掛布団両用の情けないほど薄い布団を敷いてネクタイを緩めて横になった。


 緊急時に備えて靴を履いたまま電話の子機を枕元において仰向けに寝転がると目の前の天井の蛍光灯が目を討った。


 毎度の事ながら、まるで手術台の上に寝ているような錯覚を覚える。


 年代物のエアコンはグルグルと不機嫌な音を立てて、まるで土砂降りの古家の雨漏りのようにボタボタと室内機から水を滴らせ下に置いたバケツに水をためていた。


 一晩にバケツ一杯ほども水を垂れ流す耳障りな水音もすっかり慣れてしまった。


 数年前などはその不愉快な音でせっかくの仮眠が台無しにされたこともあったが、今は大抵の騒音でもぐっすり眠れるようになった。


 そのかわり電話の呼び出し音とインターホンの音だけには敏感に反応して飛び起きるようになったが。


 やれやれと思いながら1時間半も仮眠を取れる幸運に感謝しながら私は目をつぶった。


 目をつぶり、深呼吸をして眠りに入ったと思った途端に携帯電話のアラームが鳴り、私は目を擦りながら体を起こした。


 ほんの一瞬うとうとしたと思ったが、携帯電話の時間表示を見たら午前5時だった。


 しっかりと仮眠を取っていたようだ。


 私は疲れが取れなく重い体を起こして立ち上がった。


 まだまだ重いまぶたを非常な努力をしながら開けて、その場で簡単なストレッチをした。


 首を回し、手首と足首を回し、アキレス腱を伸ばしながら腰や肩を伸ばし、体をほぐした。


 固いテーブルの上に寝ていたので体のあちこちがガキガキゴキゴキと鳴った。


 病院正面玄関横の職員通用口の暗証番号を押してドアを開け、黒い犬がいるかどうかチェックしてから、外に出て正面玄関に届いた新聞を脇に抱えて、病院建物の隅に行きタバコに火をつけた。


 お盆過ぎの朝の空気はどんよりと蒸し暑く、まだまだ夏の軍勢は頑強に居座り、秋の先陣はここまでたどり着いていないようだ。


 じわじわと汗が染み出て私は額を手のひらで拭いた。


 人気が無い病院前の通りはしんと静まり返っていた。


 私はもう一度辺りを注意深く見回したが、黒い犬はいなかった。


 その代わり、道路の反対側のガードレールの上に2羽のカラスが止まってこちらをじっと見ていた。


 それは、私にとって馴染みがあるカラスだった。


 私はポケットをまさぐり、医局からくすねたビスケットの子袋をひとつ取り出すと袋を破いて取り出し2つに割ってカラスの前の道路に投げた。


 カラスは翼を広げて道路に降り立つとビスケットを咥えてどこかに飛び去った。


 私は、しばらくカラスが飛び去った空を眺め、朝焼けに赤く染まった雲を見つめた。


 太陽は今日も容赦なく地球を焼き焦がし、今日も暑くなるだろう。


 私はうんざりしながら、そして大きく伸びをして病院内に戻った。


 病院を空けるこまごまとした準備、待合室と病棟の新聞を交換する、ごみを出す、夜の間閉めておいた戸締りを確認し解錠する、正面玄関を開ける、待合席の案内の看板を出す、今日の診察医師の確認、受付端末の電源を入れるなどなどをしているうちに病院の職員がちらほらと出社し始め、8時半の受付開始とともににうんざりするほど言葉と道理が通じない、中には襟首をつかんでビュンビュン揺さぶりながら思い切り罵倒を浴びせたいような外来患者達の応対をしている間に午前9時になり、当直室に入り、ネクタイを緩めてタイムカードを押して病院を出た。


 もちろんその時に辺りに黒い犬がいないかどうかチェックしたが、奴は姿を見せなかった。


 私は周りを細かくチェックしながら王子から中野にあるゲストハウスまでバスで帰った。


 病院からバスの停留所、そしてバスを降りてからゲストハウスまでの道を、うだる暑さの中、私は歩いた。


 昔々に私の職場だった危険極まりない場所を、アンブッシュと呼ばれる待ち伏せ攻撃に備えながら歩く兵士の様に心持ち背をかがめ、通りの角や後ろを気にしながら歩く私の姿は、傍から見たら違和感を感じたかもしれない。


 あるいは大柄なよい年をした男がびくびくと周りを警戒しながら歩く姿は滑稽そのものだろうと思う。


 しかし私は真剣そのもので周りに注意を払い、犬の体臭が臭ってこないか、唸り声やアスファルトを擦る犬の爪が聞こえてこないか、特にバスを降りてから江古田の商店街を抜ける道は私を緊張させた。


 何とかゲストハウスに辿り着き玄関のドアノブに手を掛けた私は顔をしかめた。


 このゲストハウスの玄関ドアはちょっと調子が悪く、不注意なだらしない人間が玄関を出入りするとドアロックが掛からず、押しただけでドアが開いてしまうのだ。


 ドアノブを少し押しただけでドアが開いた。


(やれやれ、馬鹿でだらしない奴のおかげで犬に食い殺されたくないな…)


 私は慎重に玄関ホールに入り、脱ぎ散らかした靴を踏んづけながら耳を澄ませ首を伸ばして廊下を覗いた。


 怪しい気配は無かった。


 私はしんと静まり返ったゲストハウスの中の気配を探った。


 そして、靴を脱ぐかどうか少し悩んだ。


 万が一黒い犬がゲストハウスに侵入して私を待ち構えていたとしたら靴を履いたままのほうが行動しやすい。


 玄関で靴を脱ぐかどうか悩みながら耳を澄まして様子を探っていた私の耳に、誰かが奥の部屋から出てくる足音が聞こえた。


 1階の一番奥の部屋に住んでいる、特別養護老人ホームで働いている高久と言う男があくびをしながら出てきた。


 彼は私にお帰りなさいと会釈して頭をぼりぼり掻きながらキッチンに入っていった。


 私は彼に軽く頭を下げて,キッチンから彼の悲鳴か黒い犬の唸り声が聞こえないかを待った。


 何も異常な物音は聞こえなかった。


 (やれやれ…神経過敏だな俺も…)


 私は苦笑を浮かべ、しかし周囲の警戒を怠らないで靴を脱いだ。


 私の脳裏に、私が生きたままあの黒い犬に散々い食い千切られてばらばらの肉塊になる光景がよぎった。


 靴を脱いだ私は注意して廊下を進み、曲がり角に注意して自分の部屋に辿り着くとドア越しに中の様子を伺った。


 中からは何も聞こえなかった。


 そして慎重に鍵を開け、ドアを薄く開けて室内の中を探った。


 3畳半程の世間の基準からしたら非常に狭い、ゲストハウスになる前は納戸であったであろう私の部屋の中は当然のことながら何事も異常は無かった。


 私はすばやく部屋に入り後ろ手にドアを閉めた。


 ドアにもたれた私は額を流れる汗を手の甲で拭い、ため息をついた。


 そして、今考えると自分の行動がおかしくてくすくすと笑ってしまった。


 しかし、頭のどこかで、頭のどこか深い自分の生存の安全をつかさどる部分が警戒を怠るなと今も警報を鳴らせ続けていた。


(そう、警戒を怠らない事。いつだって俺はそう生きてきたから今も生きている冷静に考えれば神経過敏のつまらない事かも知れないけど、そのつまらない事で命を落とした人間を俺は何人も見ている…一見つまらないと思えることでも警戒を怠るな。魂の奥底から来る声に耳を傾けろ。そうすれば生き残れる)


 2時間後に桜田から待ち合わせの時間を指定する電話が来た。


 私は土曜日の夕方7時に椎名町で桜田達と会うまでの数日間、うだるような熱い日々を滑稽なほど警戒を怠らずに過ごした。


 その間、黒い犬は姿を見せず、身の毛もよだつような悪夢も見なかった。



 土曜日、椎名町の改札口で小柄で小太り元気が満ち溢れた保険のおばちゃんのような桜田とひょろりとして気弱そうな笑みをたたえ、足元の大きな黒いバッグを置いた大倉山、フランス系ユダヤ人ですらりとした青い目の研究所保安要員メンバーのジョアンというイスラエル人女性が待っていた。


 桜田がいたずらっ子のような微笑を浮かべて私に手を振ると駅の北口、狭いロータリーの一角を指差した。


 そこには研究所で使用している黒いランドローバーディフェンダーが停まっていた。


「今日は万が一に備えて心強い味方を連れてきたよ~」


 桜田がそう言いながらランドローバーの後ろに私を連れて行き、後部ドアを開けると、広島の調査で私と同行した3頭の犬のうちアランとジョン、2頭の大柄なシェパードが顔を出した。


「おお!アラン!ジョン!久しぶりだな!」


 私が声を掛けるとアランとジョンも私の事を良く覚えていてくれたようで、千切れんばかりに尻尾を振ってハァハァと息を弾ませながら私の体に鼻先を摺り寄せたり、脇の下に鼻を突っ込んだりしながら歓迎してくれた。


 後部席に陣取った長い髪を無造作に後ろで止めきりりとした印象の女性ハンドラーの陣内が私に手を振り、運転席に座った私服姿の保安チームメンバー、昔のギャング映画に出てくる殺し屋のような風貌の片桐も私に笑顔を向けた。


「こんばんは。

 どうも、とみきさんが犬の事でお困りだと聞いて

  アランとジョンを連れてきました。

 調査の間この子達を連れて近所を見張っています。

 いざとなったらこの子達が駆けつけますから安心してください。

 犬には犬って事ですね」


 陣内が後部席と荷室を分ける金網越しに私に言った。


「どうも…話が大袈裟になってません?

 皆さん暇なんですか?」


 私がアランとジョンの頭を撫でながら言うと桜田達が笑った。


「暇って言ったら今は少し暇ね~!

 震災の影響で宮城の人喰いホテルの調査が延期になったから…でも、とみきちゃんの命に関わるような事があっても大変だからね~!

 これくらいの準備はするわよ。

 惟任研究所の底力を見せてあげる!って言ったら少し大袈裟かな。

 ジョアンも犬を撃退する程度の装備を持っているから安心してね」


 桜田がそう言って、またひとしきり笑った。

 ジョアンが薄手のジャケットをちらりとめくるとショルダーホルスターに収まった熊撃退用のスプレーを見せてウィンクをした。


「教授もご存知だから何も心配しなくて良いからね。

 早速その問題の店に連れて行ってよ。

 そこのママと調査の交渉しなきゃいけないからね」


 大倉山が足元の重そうな黒いバッグを肩に背負った。


「さぁさぁ、早く行きましょう。

 これ、重くって」


「それ、何が入ってるんですか?」


 私が尋ねると大倉山がバッグを肩に掛けなおしながら言った。


「簡単な調査キットですよ。

 新しく開発した奴なんですけど…ちょっと軽量化に失敗したようです」


 大倉山が苦笑を浮かべながら頭を振った。


「倉ちゃんは大袈裟なのよ~!持ち運びできるように簡単なセットで良いからってと言ったのに~!」


 桜田が言うと大倉山がいやいやと顔を横に振った。


「いやいや、何が起こるか判りませんからね。

 それに…貴重なデータが取れるかもしれないじゃないですか」


「まぁ、それもそうね。

 じゃ、行きましょうか?」


 私はやれやれと思いながらも、少しだけわくわくしながらRまで桜田達を案内した。


 味方がいると言うことは心強いものだ。


 しかも広島の調査で心強い味方になってくれた屈強な2頭のシェパードまで来てくれた。


 1人じゃない。


 私の被害妄想かもしれない雲をつかむような話に付き合ってくれる仲間がいると言うことだけで、私の心に広がっていた重苦しい雨雲のようなものが晴れてゆく感じがした。


 まだ店を開けたばかりで客が1人もいないRに私達が入ってくるとママが笑顔で出迎えた。


「あら~!とみきさんお友達連れてきてくれたの?」


 私が何か言う前に桜田がママのところに歩み寄り、惟任研究所の名刺を出しながら手短に私がこの店で体験した事を調べさせて欲しいと、その為に今夜この店を貸切にして欲しいと、この調査の結果は世間に公表しないと同時に今日ここで調査を行うことは絶対内緒にして欲しいと用件を言った後で、今夜貸切りにするための費用だと言って呆気に取られているママの手に1万円札を20枚押し込んでウィンクした。


 桜田の説明をぽかんとして聞いていたママは手に押し込められたお金を見ると恵比寿顔になって頷くと、いそいそと領収書を書き、カウンターにノートを出して黒マジックで『今晩貸し切り』とぶっとく書いてノートから破りとると店のドアに貼りに行った。


 桜田が大倉山にあごをしゃくると、大倉山はいそいそとバッグから観測用のキットを取り出して店内の隅に設置し始めた。


「さてと、問題のドンドンとなる壁ってどの辺り?」


 桜田に聞かれ、私は隣の空き家となった店との間の壁を指差した。


「片桐さん、隣の店の中って外から見えるか調べてくれる?」


 駅のロータリーに車を停めて店までついて来た片桐は頷くと店を出て行った。


「ママさん、とりあえず生ビールを人数分頂戴ね」


 桜田がジョアンとカウンター席に座りながらタバコに火を点けて店内に戻ってきたママに言った。


「ちょちょ、桜田さん…」


「良いじゃない、堅い事言わないの~!

 熱くてビールくらい飲まなきゃやってられないわよ。

 それに、普通に営業している状態にしないといけないでしょ?

 とみきちゃんがこの前来た時みたいな状況を再現しないといけないし~」


 片桐が店に入ってきた。


「大丈夫、道路に面した窓から店内を確認できます。

 車を近くまで持ってきて車内から赤外線センサーで監視しますよ」


「そう、ありがとう。

 片桐さんは車だからアルコール駄目よね~」


「いいいえ、気を使わないで楽しんでください」


 片桐はにやりとして店を出て行った。


「カラオケのデンモク貰っても良いですか?」


 ジョアンがお通しのおでんを頬張りながら流暢な日本語で言った。


「はいデンモク、さっきのお金で充分御釣りが来ちゃうから今日は飲み物も食べ物もカラオケも好きに頼んでね」


 恵比寿顔のママがジョアンにデンモクを渡した後で生ビールのジョッキを人数分出し、「私も飲もうかな?」とか言いながら自分の分の生ビールをジョッキに注いでいた。


「ほら。

 じゃあみんなで乾杯しようよ!」


 大倉山もいそいそとカウンターに来てジョッキを手に取った。


 そして、私達と恵比寿顔のママは生ビールジョッキをカチンとぶつけながら乾杯した。


 いよいよ調査開始。


「僕、焼きうどん頼んでも良いですか?」


 生ビールをゴキュゴキュと飲んだ大倉山が言った。


「あたし、もう唄入れても良いかな~?」


 ジョアンがデンモク片手に言った。


「ジョアン、ちょっと待ってね。

 倉ちゃん、ビデオの用意してよママにこれまでの経緯を聞くから…」


「え?撮影するの?」


「ママさん安心してください、秘密厳守でここで撮影した映像は公表しませんから」


 大倉山がビデオカメラを取り出しながら言うと、ママがかぶりを振った。


「いやいやそうじゃないの、ちょっとお化粧するから待ってくれる?

 こんな顔じゃカメラなんて…おほほほほ!」


 桜田とジョアンが判るわぁ~という感じで頷くとママが小さなバッグを持っていそいそとトイレの洗面台に入っていった。


 私はこんな感じの調査で大丈夫かなぁ~?と思いながら生ビールをごくごくと飲んだ。


 この季節、まだまだキンキンに冷えた生ビールは非常に旨かった。


大倉山がヘッドセットを耳につけ、ビデオカメラを取り出して電源を入れた時に化粧を濃い目に決めたママが洗面台から顔を出した。


 「それじゃあ、はじめようか」


 桜田がマイクを手に持ち大倉山が構えたカメラに向かって話し出した。


「え~、平成23年8月○○日午後6時48分。

 東京都豊島区椎名町のRと言うスナック。

 これより店主の…あ、ママ名前教えて」


「私?渡辺洋子です」


「渡辺洋子さんより店内における異常な物理現象が起きるようになった経緯を聞きます」


 桜田がカウンター越しにママにマイクを向け、前にこの店で変死したママの事、どんどんと壁が鳴る現象、勝手に店の電源ブレーカーが落ちる、変死したはずのママの姿を目撃した常連の客の事、行方不明になった前の店の客の事などを尋ね始めた。

 

 ママはカメラから自分が美人に見える角度を気にしながら、今までの出来事を思い出し思い出しながら話した。


 大体話し終えたときに大倉山がカウンターに置いたクルニコフ放射を測定するセルゲイエフ・センサーのパイロットランプが点滅した。


 桜田がマイクをママに向けたままセルゲイエフ・センサーを覗き込んだ。


「今、100…140ね…まだ弱いと言ったら弱いかも」


 センサーの液晶表示を見て桜田が呟いた。


「何ですかそれ?」


 ママがセルゲイエフ・センサーを指差して尋ねた。

 

「うふふふ、お化け探知機みたいなものです」


「もう、何か来てるの?」


 ママがかすかに怯えた表情で尋ねた。


「これくらいの数値はたいした事ありませんよ」


 桜田が生ビールのジョッキをグ一!と飲んで答えると質問を再開した。


 そう100か200なんて大した事は無い。

 

 クルニコフ放射と呼ばれる、心霊現象などが起る時に発生する独特の波形の一種の電磁波は佐伯邸調査の時は最大で1800だった。


 あの時は目の前で頑丈なグランドピアノが誰も触れていないのにめきめきと音を立てて潰れていった。


 「片桐さんから連絡入りました。

 肉眼で異常を確認出来ず赤外線センサーにも反応無いそうです…ただ…ジョンとアランが何か緊張しているようです」


「了解。犬センサーが何か感じているかしら?」


 桜田が短く答え質問を続けた。


 セルゲイエフ・センサーはゼロと200の間をゆっくりと不規則に表示していた。


「はい、お疲れ様でした。

 質問は終わりです。

 倉ちゃんカメラもう良いわよ。

 ママ、ビールお変わり頂戴。

 後はお客さんが登場するのを待つだけね。

 さぁ、飲むわよ~」


 大倉山がビデオカメラを三脚にセットして店の隅から隣の店との間の壁に向けて店内全体が映るようにセットした。


 ママがお代わりのジョッキを桜田の前に置き、大倉山が頼んだ焼きうどんを作り始めた。


「ママ、カラオケ入れて良いですか?」


 ジョアンはデンモクを カラオケの機械に向けてママに尋ねた。


 彼女は早くもマイクを手元に置いていた。


「どうぞ~!、あら!外国のお嬢さんにしては渋いの歌うのね~!」


 『舟歌』のイントロが流れ始め、私や桜田達が拍手する中ジョアンがマイク片手に渋く歌い始めた。


「ねえねえ、いつもはどれくらいのタイミングで始まるの?」


 桜田が小声で私に尋ねた。


「そんな事判りませんよ、私だって今日この店2回目なんだから…」


「それもそうね~!あははは!

 私も何か歌おうっと…」


 桜田がデンモクを手元に引寄せ歌う曲を物色し始めた。


 セルゲイエフ・センサーはゼロの表示をして沈黙していた。


 ジョアンが歌い終わり、皆が拍手した。


 声量があり、透き通っているようでハスキーな声はなかなか聴かせるものだった。


「いやぁ~!このお嬢さん上手ねぇ~!」


 大倉山に焼きうどんの皿を出したママが関心した様子で言った。


「いやぁ~!それほどでも…まだこぶしを上手く利かせることが出来ないんですよ~!」


 ジョアンが頭を掻いて微笑んだ。


 戦場では鬼も避けて通るような暴れっぷりで、接近戦と市街戦のスペシャリストと聞いていたジョアンも今ではごく普通のはにかみ屋の女の人だった。


「ママ、壁がどんどんってどれくらいの頻度で起きるの?」


 桜田が大倉山の皿から焼きうどんを失敬しながら尋ねるとママが小首をかしげた。


「そうねぇ~、1週間に一度か二度か三度か…はっきりと言えないんですよね~」


「そうか…まぁ、気長に待ちましょう。

 この焼きうどん美味しいわね~!

 ママ、ビールお代わり!」


「桜田さんピッチ上げすぎじゃないですか?」


 私が心配して尋ねると桜田がウインクを返した。


「大丈夫大丈夫、これくらいは水と変わらないから!

 倉ちゃん、ジョンとアランの様子はどう?」


 大倉山が焼きうどんを食べる手を休めてヘッドセットに何か話して頷いた。


「ジョンとアラン、今は平静になって寝っ転がっているそうです。

 赤外線センサーも異常なし、店内に人影も見えないそうです」


「了解。

 さて、私も歌おうかな~?」


「どんどん入れてくださいね~!

 歌い放題だから」


「は~い!ジョアンも倉ちゃんも歌えば?

 あら、とみきさんも歌いなよ~!

 ママ!おしんこと焼きウインナーも頂戴」


「はいはい!喜んで」


 桜田が入れた『ハナミズキ』のイントロが流れ、マイクを持った桜田が立ち上がって店横の小さなステージに行った。 


「ごめんね~!これ、立たないと歌えないのよ~!」


 皆が拍手をする中、桜田がなかなかの歌声で歌い始めた。


「とみきさんのお友達って皆歌が上手いわね~!」


 ママが感心した顔で言いながら自分で入れた2杯目の生ビールを飲んだ。


 ジョアンもすでに2杯目のジョッキを飲み干すところだった。


 大倉山は時々ヘッドセットに手をやり外のランドローバーで待機している片桐と陣内、ジョンとアランから何か報告が入らないかチェックしながらちびちびとビールを飲み、焼きうどんやウインナーやおしんこを食べていた。


「なかなか来ないですね。

 皆歌が上手すぎるからかな?」


 大倉山がウインナーを頬張り、カウンターのセルゲイエフ・センサーを見ながら言った。


 その間ジョアンが『私アンルイス歌う~!』と言いながらデンモクを引寄せた。


「良いわね~!歌って~!ほほほほ!

 これ、お店からサービスね!」


 ママがフルーツをドンとカウンターに置いた。


「わぁ~!ママ、ありがと!」


 桜田とジョアンが大盛りのフルーツを見て嬌声を上げ、ママがお安い御用と手を振った。


 20万円で一晩貸し切りなどこのご時勢にこんな小さなスナックではおよそありえないだろう。


 ママは突然の景気が良い話にすっかり気を良くしていた。


「とみきさんもリラックスして何か歌ってくださいよ、ほら、なんだっけ?

 そうそう!GAOのさよなら!僕あれが好きなんですよね~!」


 大倉山が顔を酔いに赤く染めて言った。


 桜田が歌い終わり、皆が拍手する中ジョアンが次の歌を入れていた。


「なかなか来ないわねぇ~!

 まぁ、こういう調査は空振りが日常だからねちょうどよい暑気払いだわ~!

 ほほほほほ!」


 桜田が椅子に座りながら笑った。


 私も苦笑いを浮かべてビールを飲んだ。


 「これは私も立たないと歌えないのよね~!」


 ジョアンがマイクを持って立ち上がりステージに歩いていった。


「よし、俺も何か歌おうっと!

 とみきさんもさよなら入れてくださいね!」


 大倉山がデンモクを手元に引寄せながら言った。


「倉ちゃん、アニソン行くの~!」


 桜田が大倉山に顔を向けて言った。


「アニソンンはもう少し酔ってからですよ~!

 まずはポルノ・グラフティから~!」


 だんだんと場が崩れてきたと言うか…私の事を心配して調査をしに来たと言うよりも、実は皆は暇を持て余していて、私の事をだしに体の良い飲み会をしに来たのではなかろうかという疑いが一瞬頭をとぎるほどに桜田達はリラックスしていた。


 『六本木心中』のイントロが終わり、ジョアンが歌い始めたその時、隣の、今は閉店していて無人のスナック「ルージュ」との間の壁が激しい勢いで叩かれた。


 ドンドン!ドンドン!ドンドンドンドン!


「来た!」


 途端に桜田と大倉山の顔が引き締まり、セルゲイエフ・センサーを覗き込んだ。


 センサーのクルニコフ放射の値が200を軽々と超え300、400。500へと上がっていった。


 表のランドローバーで待機しているジョンとアランの声であろうか?


 犬の激しい吼え声が微かに聞こえてきた。


 壁はこの前とは比較にならないほど激しく叩かれていた。


 桜田達の動きが止まり、店内に緊張が流れた。


 壁を叩く音は唐突に止んだ。


 マイクを持ったまま戸惑っているジョアンに桜田が手をくるくる回してそのまま歌うように促した。


「室温3度、湿度17パーセント低下。

 波形はアンノウンです」


 大倉山がポータブルモニターを覗き込みながら桜田に言い、ヘッドセットで外から監視している片桐と陣内に連絡を取っている。


 桜田がビールのジョッキをグィッと飲み、私にウィンクをした。


「どんぴしゃり、空振りはなかったね。

 とみきちゃんはやっぱりこういうところを活性化させるのかしら?」


 桜田が小声で言ってニヤニヤとした。


「ママ、こういう現象って時間帯はまちまちなの?」


「時間帯…そうねぇ、特に決まっていないけど早い時間に出ることは少ないですよ。

 でも今日は…なんか激しかったわねぇ」


 ビールを飲みながらジョアンの歌を聴いているママが雨の振り具合を聞かれて答えるような気楽な言い方で答えた。


「片桐さんの方、肉眼でも赤外線センサーでも隣の店に何かがいることは確認できないそうです。

 ジョンとアランも少し背中の毛を逆立てていて、何かの気配は感じてるけど今のところはまぁまぁ落ち着いているようです」


 大倉山が桜田に報告した。


「そう、了解。

 放射は治まったようね…でもこれってどこから出ているのかしら?」


 大倉山が手持ちの指向性マイクのようなものをバッグから引っ張り出して店内のあちこちに向けてポータブルモニターの数値を見た。


「特にここと言うような…次に出たらまた調べてみます」


 ジョアンが歌い終わり席に戻ってきた。


「いつもよりも凄い勢いで壁を叩いていたようですね」


 ママが言うとジョアンがぺろりと舌を出した。


「歌の選曲が悪かったのかしら?

 その、何かの気を悪くさせた?」


「演歌でもロックでも、ポップスでも壁を叩くときは音楽の種類は関係ないんですよ…この子が美人過ぎたから興奮したのかしら?」


 ママがそういってにこりとした。


「まぁ、これで空振りで無くなった訳だけど…この壁の現象は何か合理的な説明はつくのかしら?」


 桜田がそう言い、ウィンナーを口に運んだ。


「近くに西武線が走っているけど、電車の通過する際の共鳴現象とは考えられないですね。

 後は…例えば近くの…隣接するアパートの誰かが壁を叩いてそれが伝わったとか…」


 大倉山はそう言って焼きうどんの残りを平らげた。


「私、歌っている時に一番壁に近かったけど、明らかに何かの気配を壁の向こうに感じました。

 でも、これは主観に過ぎないですよね。

 でも確かに誰かが壁の向こうにいて何らかの意思を主張したような…」


 ジョアンがそう言ったので私は初めてこの店に来た時に頭に浮かんだ考えを話した。


「あの~、昔子供の頃に読んだ本で何かを叩く音と会話を試みたと言うようなことを読んだ事あるんだけど、つまりこの場合、隣の店との間の壁を叩く音なんだけど…会話が出来ないかな~?

 質問をしてイエスなら1回、ノーなら2回とかで返事してくださいなんて…」


 皆が酒を飲んだりつまみを食べたりする手を止めて私を見つめた。


「…ああ、いやぁ~!

 思いつきで言っただけなんで…気にしないでください…」


 私が頭を掻いてビールを飲むと、桜田がドンと私の肩を叩いた。


「良いわねぇ~!

 さすがダイバーだわ!

 やろやろ!

 それ、やってみましょうよ~!」


 大倉山もジョアンも笑顔で頷いた。


「それ、良いですね!

 とみきさん、冴えてる!」


「何かと会話なんて、何か答えが出れば面白いですね!

 やりましょ!」


「えへへ~!褒められちゃった。

 で、誰が質問するんですか?」


 桜田、大倉山、ジョアン、ママがいっせいに私を指差した。


「え…えええええええ~?

 俺~?俺ですか~!?」


 私は自分で自分を指差してマスオさんのような悲鳴を上げた。


「何マスオさんみたいな悲鳴上げてんのよ!

 あなた言いだしっぺでしょ?」


 と桜田。


「ダイバーの経験があるんだから当たり前よ!」


 とジョアン。


「とみきさん以外に適任者はいないですよ!」


 と大倉山。


「うわぁ~!面白そう!

 とみきさん、頑張ってね~!」


 とママ。


 皆が口々に叫ぶと、また壁がどんどん!と鳴り、セルゲイエフ・センサーのクルニコフ放射測定値がじりじりと上がり始め、400を超えた。


 皆の期待に満ちた視線の集中砲火を浴びて、私はため息をついてやれやれと頭を振り、カウンターのいすを回して壁に向いた。


「でも、そんなに上手く答えてくれるかどうかは判りませんよ」


「そんなの判ってるわよ。

 でも、諦めたらそこで試合終了でしょ?」


 私が自信なさげに言うと桜田がどこかで聞いたようなことを言った。


 私はやれやれと頭を振り、隣の空き店舗との間の壁に向き直った。


 桜田達が期待に満ちたまなざしで私と壁を交互に見ながらビールを飲み、つまみを口に運んでいる。


 私は壁に向かって言った。


「あの~こんばんわ。

 お邪魔しています」


 桜田達がずっこけた気配がした。


「挨拶は大事でしょ~?」


 私が桜田達に言うと、苦笑を浮かべた桜田が良いからそのまま続けろと手を振った。


「あの~、何かお話をしませんか?

 これからいくつか質問するので、イエスなら1回、ノーなら2回壁を叩いてください」


 壁は沈黙をしたままだった。


 緊張して息を止めてしばらく壁を見つめていた私はカウンターに振り返りタバコに火をつけた。


「そんなにうまくいかないよね~」


 ジョアンが苦笑を浮かべてビールのお代わりを頼んだ。


「そうね~、アイディアは良かったんだけ…」


 ドン !


 桜田が言いかけたときに壁が1回鳴った。


「え?なになに?

 オッケーって言うこと?」


「放射、上がってますよ。

 今、480を越えました。

 出所は不明です」


 大倉山がセルゲイエフ・センサーを覗き込みながら指向性マイクのようなセンサーを店内のあちこちに向けながら言った。


「え~と…それは…オッケーということですか?」


 私が壁に向かって言うと、またしばらくたってから壁が1回ドン!と鳴った。


「とみきちゃん、オッケーだよ。

 何か訊いて訊いて」


 桜田が小声で急かした。


「え~…あなたは誰ですか?」


「…ばかねぇ~イエスとかノーで答えられないじゃないの」


「あ、そうか」


 桜田に言われ私は頭を掻きながら質問をしなおした。


「あなたはこの店で亡くなったママですか?」


 しばらくの沈黙の末に壁が2回ドン!ドン!と鳴った。


「変死したママじゃないみたいだね」


 私が小声で桜田に言うと桜田達がうんうんと頷いた。


「片桐さん、肉眼でも赤外線でも隣の店に何も確認できないと言ってます。

 ジョンとアランも落ち着いているそうです」


 大倉山が小声で言った。


「何も小声でしゃべる必要ないんじゃないの?」


 ママがカウンターから身を乗り出して小声で言った。


「それもそうですね」


 ジョアンも顔を寄せて小声で答えた。


 ジョアンのつけている香水の良い香りが私の鼻の前を通り過ぎた。


 壁の音の主から私達はどう見えているのだろうか?


 確かに質問をして答えるとカウンターに顔を寄せてひそひそ話すのは胡散臭い。


「普通にしゃべりましょう。

 ママ、ビールお代わり」


 私は飲み干したジョッキをカウンターに置いて壁に向き直った。


「それではあなたは誰…いや、変死したママよりも先に昔からここにいるのですか?」


 壁は沈黙をしていた。


 私達は壁を見ながら待った。


「何なんだろうか?

 考えるのに時間が掛かるのか馬鹿なのか判りませんね」


 大倉山がお新香をかじりながら指向性センサーをあちこちに向けていた。


「そういう発言は小声で言ったほうが…」


 ジョアンが言いかけたときに壁がドン!となった。


 初めに鳴った時の様に強い勢いで鳴ったので私達はビクン!と体を震わせた。


「倉ちゃん、あまり失礼な事は言わないほうが良いみたいね」


「は~い」


 桜田が小声で良い、大倉山が首をすくめた。


「それではいつからここにいるのですか?

 10年前ですか?」


 今度は壁が即座にドン!ドン!と2回鳴った。


「それでは50年前?」


 壁がドン!ドン!ドン!ドン!と強く鳴った。


「かなり古くからいるようね。

 それじゃなぜこんな最近になってから自分の存在を主張するようになったのかしら?」


「それではずっと古くから50年以上前からここにいるのですね?」


 壁がドン!ドン!と2回鳴った。


「…え?」


 私達は顔を見合わせて口々に呟いた。


「う~ん、判らないわぁ~」


「答えが矛盾しているわね」


「時間の観念とかが無いのかも知れませんよ…」


「そもそも、もともと人間でそれが幽霊かなんかになったのかな?」


「とみきちゃん、訊いてみてよ」


 私が壁に向き直り質問した。


「え~、あなたは元は人間だったのですか?」


 壁が勢いよくドン!ドン!と2回鳴った、と同時に店内の電気が消えた。


「あらあら。怒っているのかし?」


 ママが慣れた感じでカウンター奥のブレーカーのほうに行った。


 カラオケの機械だけは電源が切れずに画面には苔に覆われた屋久島の杉が映し出された。


「元は…蝶ちょ?」


 ジョアンが杉の幹に留まって美しい羽を開いたり閉じたりしている蝶を見ながら言った。


「まさか…」


 私が苦笑を浮かべて言った途端に壁がドン!ドン!と鳴った。


 店内の照明がつき、ママがカウンターに戻ってきた。


「え~、それではあなたは元は…杉ですか?」


 壁がドン!ドン!と2回、更に強い勢いでドン!ドン!と鳴った。


「なんかイラついてるみたいですね」


「とみきちゃんがおばかな質問したからよ~」


 ジョアンが小声で言い、桜田が無責任な返事をして顔を見合わせて頷いた。


「ちぇ、ヒドイなぁ初めに蝶ちょって言ったのジョアンじゃないか」


 ジョアンがぺろりと舌を出して微笑んだ。


 私は気を取り直して壁に向いた。


「え~、質問を変えます。

 なぜあなたは壁を叩いたり、店の電気を落としたりするのですか?

 何か言いたい事があるんですか?

 何か不満がありますか?」



 壁はかなり長く沈黙した後でドン!ドン!と2回鳴った。


「…特に不満は無いようですね…しかし驚いたなちゃんとこっちの質問に答えてくれるなんて」


 私が新しいビールをぐびぐびと飲むと桜田がくすくすと笑った。


「とみきちゃん、マスコミとかに公にしていないだけで、はっきりと原因不明な物理現象が起きる場所が50以上あるのよ。

 うちの研究所が確認しただけでね。

 でも、ここの壁はずば抜けてはっきりとしてるけどね、おまけにある程度のコミュニケーションが取れるし」


 なるほど、日本国内で50もこういう場所があるのか…道理で桜田達の反応が随分落ち着いたものだと、私は感心した。


「テレビなんかに出したら凄い視聴率になるんじゃないかな?」


「駄目よそんなことしたら~。

 人が押し寄せて異界との裂け目が広がる可能性があるし、第一こんなことが起きる場所がありますなんて発表したら大パニックになるわ」


 なるほどその通りだ。


 私達はひとまずビールを飲んで次の質問を考えることにした。


 壁は沈黙しているが、クルニコフ放射値は依然300から下がらず、それはまだそこにいることは判った。


 それは次の質問を待っているのだろうか?


「ともかく、いささか不完全ながらコミュニケーションがとれてまぁまぁそこそこに会話が成り立っているのは幸運ですよ」


 大倉山がセルゲイエフ・センサーをいじくりながら言った。


「そうねぇ~でも、あの音の主がどこの何者なのか素性を知らないといけないわね

 我慢強く腰を据えて掛からねば…」


 桜田がビールのジョッキを飲み干してカウンターに置いた。


「もうちょっと強いお酒が飲みたくなったわね…」


「この前入れた焼酎のボトルならありますよ」


 私が言うと桜田がにやりとした。


「それじゃいただこうかな?

 ママさん、水割りで焼酎貰っても良いかしら」


 ママが私のボトルをカウンターに出した。


「はいはい、水割りでね」


「あたしも焼酎貰おうかしら」


 ジョアンが小さく手を上げた。


「それじゃ僕も」


 大倉山がセルゲイエフ・センサーを置き、目の前のビールを飲み干して言った。


「とみきさんは?」


 ママが桜田たちの水割りを作りながら聞いてきた。


「う~ん、どうしようかな~?」


「皆飲んでるんだから大丈夫よ

 もうビール飲んでるし、いっちゃえいっちゃえ!」


 桜田がドンと私の方を叩いた。


「それじゃ私も焼酎いただこうかな?」


「いよっし!そうこなくちゃ!

 …ところでママさん、変死した前の店のママ以外にこういう事が…」


 桜田はドンドンと鳴る店の壁を指差した。


「起こる心当たりは無いですか?

 どんなに些細な事でも良いのだけれど」


 ママは水割りを作りながら小首をかしげた。


「う~ん、特にこれって言うのは…」


「ママが子供の頃とかにこういう現象、ほかに何か普段と違うものを見たり聞いたりとか…無かったですか?」


 ママは私達に水割りを出しながら考え込んでいた。


「私は昔から霊感はゼロだったから…前の店からの常連の人でいきなり行方不明になった人がいたけど…それはこの店を開いてから、壁がドンドン鳴ったり、店の電気が突然消える前の事だから…」


「ママ、その事なんだけど、この前、その行方不明になった人のことを話していた時に黒い犬…」


 ドン!ドン!


 私がそこまで言い掛けた時に壁が凄い勢いで叩かれた。


 今までに無い激しさで2回。


 壁に掛かっていた絵の額がずれてしまうような激しさで2回。


 私達は顔を見合わせた。


「なになに?

 今のは何に反応したんだろう?」


 桜田が私に問いかけるように言ったがもちろん私は答えなど出るはずも無い。


「さぁ…ひょっとして…黒い犬のことかな?」


 私は壁に向き直った。


「今のノックは黒い犬のことを言ってるんですか?」


 ドン!


 壁が物凄い勢いで鳴った。


「黒い犬はあなたの化身ではないのですか?」


 ドン!ドン!ドンドンドンドンドン!


 壁が鳴り出した。


 叩く音に続いて壁の建材が壊れるようなメリッと言うような音も混じっている。


 先ほどの衝撃でずれた絵の額が壁からはずれ、ボックス席のいすの上に落ちた。


「なんかいつもと違う…ちょっと怖いわ」


 ママが耳を押さえ、怯えた口調で言った。


「判ったから壁を叩くのをやめてください!」


 壁の音がやんだ。


「…今の過剰反応はなんだろうか?」


 桜田が頭を捻った。


「しかしこれであの壁の音の主が私の後をついて来た犬とは違う存在だと…」


「いやいや、まだ断定は出来ないですよ。

 あの壁の主が必ずしも正直に言ってるとは限らないですからね」


 大倉山が言った。


「そうね。

 こういう事をする存在が必ず本当の事を言ってるとは限らないから…」


 桜田が頷いたが、私は別の気分を感じた。


「しかし、黒い犬…のことを言った途端にあの過剰な反応。

 何か、怯えている様な感じでもありましたよ」


「怖がってヒステリックになったようにも感じます」


 ジョアンも私に同意の意見を述べた。


「あの壁の音よりももっと凄いのがいると言うことなの?」


 ママが恐る恐るの口調で尋ねた。


 桜田がなんともいえないと言うように首を振ると焼酎のグラスを取った。


 あの壁の主は似たような別の存在にひょっとしたら怯えている、怯えてイラつきヒステリックに壁を叩いた。


 それは全員が感じた様だ。


 私達は顔を見合わせて無言で頷きあった。


 クルニコフ放射値がみるみる下がっていって100以下になった。


「どうも判らないな…」


 私が言うと大倉山がセンサーを壁に向けて頷いた。


「ちょっと待ってください!

 放射値がまた上がってきた!

 うわっ!」


 大倉山が差し出したセンサーを皆が覗き込んだ。


 クルニコフ放射の値が200、300、500を超えて800そして1000を超えた。


「凄い勢いだ…今までの勢いとはまるで…」


 大倉山が呟いた途端に店内の照明が落ちた。


 カラオケの機械だけは電源が落ちず。


 シュールで難解なイメージビデオのような映像を映し出した。


 私達は、ママも含めてカラオケの画面に見入った。


 不愉快な何かがきしむ音と多数の男女の苦悶の声のコーラスをBGMに、白黒の荒れた画像で人気が無い海岸をぼろぼろのワンピースを着た10代と思える女性が泣きながら歩いている、と思うと毒々しい色彩で深い森の奥で熊のような生き物が樹齢が優に1000年は過ぎていると思われる大木の幹に飲み込まれてゆく画像が映った。


 『溶ける溶けてひとつになる』


 画面の下に手書きのような字幕が浮かび上がった。


「…何よこれ?

 何かのメッセージなの?」


 そう呟いた桜田があっけに取られて画面を見つめている。


「こんな…こんな画面今まで見た事無いわ…」


 ママはブレーカーを上げに行くのも忘れ、カラオケの画面を見て呟いた。


 『介入不介入介入不介入』


 蜘蛛の巣に絡めとられ空しく羽を動かす蝶に女郎蜘蛛が近寄ってゆく。


 『喰う喰われる溶けるひとつに』


 恐ろしい勢いで月が沈み、毒々しく赤い太陽が昇った。


 『嫌嫌嫌嫌嫌いやいやいや』


 どアップのライオンの顔が画面を見ている私達に向かって吼えた。


 血まみれの口には長い黒髪がついた肉片が恐ろしい牙に引っかかっていた。


 いきなり突き上げるような衝撃が店内の全員を襲った。


「いやだ!地震?」


 激しい縦揺れに見舞われた店内で皆が何かに捕まって悲鳴を上げた。


「地震じゃないですよ!

 外はまったく揺れてないそうです!」


 大倉山がヘッドセットからの片桐の報告を聞いて叫んだ。


 唐突に店内の揺れが止んだ。


 築年数が古い建物はギシギシメリメリとうめき声とも悲鳴ともつかない音をあちこちからあげて沈黙した。


「あ!待ってください!

 黒い犬が!

 今黒い犬が現われたそうです!」


 大倉山が叫んだ。


 そして、店の外から犬と言うよりも、先ほどのジョンとアランの吼え声を遥かにしのぐ巨大な野獣のような咆哮が聞こえ、ドアのガラスをびりびりと震わせた。


 ジョアンがショルダーホルスターの大型催涙スプレーを引き出して構えながらドアに近付いた。


「待って!ジョアン!ドアを開ける気?」


 桜田が声を掛けるとジョアンが催涙スプレーをドアに向けて構えたまま腰に隠してあったごついダガーナイフを引き抜いて振り向いた。


「でも、奴がドアを破って入ってきたらここで接近戦ですよ!」


 私はカウンターに身を乗り出し一番頑丈そうな包丁を摑んだ。


「ジョアン!戸口を固めよう!入ってきたら挟み撃ちに!俺は左側を!」


 ジョアンが私の意図を察してにやりと笑みを浮かべるとドアの右側に身を寄せた。


 いくら魔性の犬とは言え頭は一つしかない。


 ドアを破って入ってきたとしたら私とジョアン両方からの攻撃を同時に受ければどちらかが奴を傷つけることが出来るだろう。


「倉ちゃん!奴は今…」


「店の前の道路にいるそうです!

 …ジョンとアランは…ビビッてしまって使い物にならないと言ってます」


 大倉山が落胆した口調で言った。


 私が広島山中の調査の時に遭遇した見たことも無い巨大な猪にも一歩も引かず私を守って威嚇し続け、仮に私が命令を出したとしたら躊躇無く猪に対して攻撃を加えたはずの2頭の屈強な、充分に訓練を受けた軍用シェパードが、この時は大して体格も違わない黒いイヌ1頭に怯え、尻尾を丸めて股の間にしまいこみ哀れっぽく腰を落とし鼻を鳴らし、車の荷室の奥から出ようとしなかったと、後に犬のハンドラーの陣内が苦笑混じりに言った。


 ジョン達は人間よりも遥かにシビアに相手との強弱を推し測ります、よほどあの黒い犬が怖かったらしく腰が抜けてしまったようですが、私が無理にジョンとアランを外に出していたら瞬く間にあの黒い犬に殺されていたでしょうね、と付け加えた。


 もっともこれは後になってから聞いた話で、この時はただ頼りの犬2頭が使い物にならなくなったと言うことを、黒い犬と戦う戦力が減ったと知っただけだった。


「ちっ、仕方ないわ。

 最悪の場合はやはりここで接近戦ね」


 ジョアンが引きつった笑顔を浮かべてナイフと催涙スプレーを握りなおした。


「腹をくくるしかないかな?

 どっちみち奴の狙いは俺のようだからジョアン達も危なくなったら…」


 ドアの左側で包丁を構えた私がジョアンに答えた。


「イッツマイビジネス、アイムガードューオケー?」


「ログ、プリーズカバーミー」


 ジョアンの頼もしげな笑顔を見て、私はそう答えて微笑むしかなかった。


「片桐さんが1人で出ると言ってますが…」


 大倉山がヘッドセットを押さえて言った。


「今はまだ様子を見てと言って!

 奴が店に侵入したら応援に来て!と言って頂戴!」


 ジョアンが答えた。


 人間よりも犬のほうが遥かに強いことをまざまざと見せ付けられた事があるにも拘らず1人で黒い犬と勝負をしようという片桐の肝っ玉の太さに私は感動さえ覚えたが、ジョアンの言うとおり、確かに今1人で車の外に出てあの黒い犬と戦うには無謀すぎる。


 いかに屈強な片桐でさえ、あっという間に引きずり倒されて生きたままばらばらに引き裂かれるだろう。


 片桐はジョアンの言うことを聞いて引き続きクルマの中から状況を伝えることにしたらしい。


 黒い犬は商店街のはずれとは言え、まだまだ宵の口のはずなのにまるっきり人気の無い店の前の道路のど真ん中に立ち、店の中をうかがっているようだ。


 後から考えたらそれも非常に変な事だが、その時の私は黒い犬の突然の出現で、そんな事に考えが及ぶはずも無かった。


 とにかく、その晩のその時間に店の前を通る人も、車も無かったという事だ。


 ドアにはめ込まれたガラスの隙間から黒い犬の足が見えた。


 『来ないでー!』


 黒い犬を待ち構えて包丁を構えドアの横に蹲っている時にカラオケのスピーカーから老婆の金切り声が聞こえた。


『あああああ!来ないで!来ないでぇえええええええええ!

 ああああああああああ!ゴナイデェエエエ!エエエエエエエエ』


この状況でドアから目を離すのは致命的なミスに繋がるのだが、私もジョアンも、桜田達同様にカラオケの画面に見入ってしまった。


 古代からのものと思われる廃墟の中で子供のようなワンピースを着た100歳近くに見える老女がひざまずき頭を抱えて悲鳴を上げていた。


 何頭もの黒い犬、そして大きな黒いカラスがその老女を取り囲んでいた。


『喰うのは好き喰われるのは嫌、嫌嫌嫌』


 ひざまずいた老女の股間の辺りから失禁をしたと思われる染みが広がり、乾いた地面にその染みが広がってゆく。


 黒い犬の涎が糸を引き、風になびいている。


『溶けて一緒になる』


 死んだネズミの屍骸が蛆にまみれて分解されてゆく。


『なぜあたしのところに!』


『なぜあたしのところに!』


 野牛に似た異形の姿の大きな生き物が、狼に似た異形の生き物によってたかって貪り食われている。


 横倒しになってハラワタを引きずり出されていても、野牛に似た異形の生き物は目を剥き悲鳴を上げていた。


「お前が横取りしようとしたからさ」


 まったく別の女の声がスピーカーから聞こえてきた。


「私の獲物を!あつかましくも!」


「ガァアアアアアアア!」


 スピーカーには大音量すぎて割れた音が店内に響き渡り、老女は黒い犬とカラスの群れに襲い掛かられ、ばらばらに引き裂かれハラワタを引きずり出されたが、胴体から切断された頭部は眼から血の涙を流しながら悲鳴を上げ続けた。


 ひときわ大きな黒い犬が老女の頭をくわえると一気に噛み潰した。


 噛み潰されて下半分が地面に落ちた老女の首はまだ何かを叫ぼうとしているのか口をパクパクと動かしていたが、何頭かの黒い犬達が食い千切り飲み込んだ。


「あつかましくも…なんとあつかましくも…」


 声とともに画面を長い黒髪の細面の女が横切った。


 私、桜田、大倉山、ジョアンがその顔を見て息を呑んだ。


 見覚えがある顔だった。







 そのとたんにカラオケの電源が落ち店内が一瞬真っ暗になったあと、元通りに照明がついた。


「…黒い犬…消えたそうです…」


 大倉山がぼそりと言った。


 私もジョアンもその言葉を聞いて体の力が抜けた。


 私はのろのろと立ち上がり、カウンターまで行ってママに包丁を返した。


「ママ…水割りもう一杯お願い」


 いささか放心状態のママがはっと我に返り、ゆっくりとした手つきで焼酎の水割りを作り始めた。


「なんか…しゃれにならないくらいに怖いホラー映画を見た感じ…あなたたち…いつもこんな仕事をしてるの?」


 ママが私に水割りのグラスを出しながら小声で訊いた。


「いやぁね~!

 いつもはこんなにまで…」


 桜田が顔をほころばせてそこまで言ってから急に考え込んだ。


「…佐伯邸なんかの時は大変だったけどね」


 そう言って桜田が顔を落とし水割りを飲み、再び顔を上げてママに話しかけた。


「ただ、今の時点で言える事は…もうこの店で壁がドンドン鳴ったり急に電源が落ちたりなんて事は起きないだろうと言うことですね…」


 ママは自分用のウィスキーのボトルを棚から出して水割りを作り始めた。


「そうね…私も判る気がする…もう、あれはいないと言うか…」


「…喰われたということですかね」


 ママの言葉の後を大倉山が言い、グラスの氷を揺らした。


「とみきさんが黒い犬の事を怖がっていた原因が判りましたよ…だってあの顔は…とみきさんの絵の…佐伯邸調査の時に介入してきたというあの女にそっくりだったから…」


 そこまで言うと大倉山は黙り込んだ。


「…ルシファー」


 桜田がぼそりと呟いた。


 ルシファー。


 私がこういう不可思議なことに首を突っ込むアルバイトを始めてから時折姿を現す、ルシファーと名乗る不可解な存在。


「今回の黒い犬は…ルシファーということですか?」


「…彼女だろうねおそらく…いや、そうでしょうね」


 私の問いに桜田が答えた。


 そしてしばらく沈黙した後に水割りを一口飲んで話を続けた。


「とみきちゃんが危ないと思ったのかもしれないわね…ここの存在がとみきちゃんを引寄せたのか、たまたまとみきちゃんが立ち寄ってしまったのか…とにかく、とみきちゃんがこのままここに通い続けたら、何らかの危険な目に遭うと…警告に来たのかもしれない…」


「そして、今、ここの存在を滅ぼした…と…」


「ルシファーはあなたの魂を欲しいと言ってるけど…結果的にはあなたの守護神のような存在かもしれないわね…」


「…悪魔の親玉を名乗る者から守られても…あまり良い気分はしないですよ」


「ふふふ…さて、今回のこと山ちゃんになんて報告するかな~?」


 桜田は現在栃木市の怪現象を調査中に負傷して入院中の研究所調査部指揮官、山口小夜子の名前を出した。


「彼女、心配するわよ~ほほほほほ!

 …あのさぁ~、ひとつ心配なことがあるんだけど…」


「なんですか?」


「このカラオケの機械…大丈夫かしら?壊れていない?」


 桜田が言うとママがあっと声を上げてカウンターを出てカラオケの機械に近寄り、恐る恐る電源を入れた。


 しばしの沈黙の跡でカラオケの機械が正常に動き出したのを見てママはほっと胸をなでおろした。


「ああ、良かった!

 大丈夫!」


 ママが言うとジョアンはイエ~イと声を上げ、桜田と大倉山はガッツポーズをした。


「それじゃ。

 一応調査終了と言うことで飲んで歌いましょ!」


 桜田が高らかに調査終了の宣言?と打ち上げ会?の開始の宣言をした。


 そして、外で待機をしていた片桐、陣内、ジョンとアランが乗った車に調査の終了を告げた。


 片桐達は車なので飲めないからと桜田の誘いを断り帰って行った。


「あ!ちょっと待ってください!」


「なによ倉ちゃん」


「佐伯邸の時もそうだけどクルニコフ放射が強い場所は奇形、特に昆虫の奇形が多いんですよ。

 生活サイクルが短くて世代交代が早いこと、身体の構造が比較的単純だということで奇形発生率というか、変異率が高いんです。

 ママさん、ここ、ゴキブリホイホイとかあります?」


「え?まぁ、カウンターの下にあるけど…」


「えええ!ここ!ゴキブリがいるの?」


 ゴキブリが大の苦手の私は椅子から腰を浮かした。


「いやぁね~!ゴキブリって言ってもこんなちっちゃいのが時々出る程度よ!

 都内のお店ならいないほうが珍しいわよ~」


「まぁ、それもそうだけど…」


 私が恐々と周りを見回しながら椅子に腰掛けると、大倉山がバッグからデジタルカメラを取り出しカウンターの中に入った。


「ちょっとホイホイの中を見せてもらいますよ」


 大倉山がしゃがみ込んでカウンターの床にあるゴキブリホイホイを開けた。


「…やっぱりね…変異率が高いわ…え?これは…」


 大倉山がそう呟きカメラを床に向けて何枚か写真を撮った。


「ママさん、これ頂いて行っても良いですか?」


「え?それを?」


「ええ、中の虫ごと頂きたいんですよ」


「ええ、まぁ、良いですよ」


 立ち上がった大倉山がそう言うとママは戸惑った表情を浮かべて答えた。


 大倉山がホイホイをつまんでカウンターから出るとバッグの中からビニール袋を取り出しホイホイを慎重な手つきで入れてテープで封をした。


 顔をしかめてその一連の行為を見てた私に大倉山がにやりとした。


「とみきさん、見ます?」


 私は顔をしかめて首を横に振ったが、桜田達が見せて見せて!と大倉山のデジタルカメラのディスプレイを覗き込んだ。


「ちょちょちょ…うわぁ!なにこれ!」


 桜田達に体を押されてディスプレイを覗き込んでしまった私は悲鳴を上げた。


 デジタルカメラのディスプレイに映し出されたゴキブリホイホイの中身はまさに地獄の光景だった。


 ホイホイの強力な糊に捕らえられたゴキブリやその他の小さな昆虫達の3分の1は体に何らかの奇形があった。



 皆さんも家に何かしら説明がつかない現象があれば、そして、小バエやゴキブリが多く出没するならば、そして、ゴキブリホイホイが家にあるのならば、そして、それを開いて中を覗き込む勇気があるのならば、そこに捕らえられた忌むべき虫どもに奇形種が多いならば、一刻も早くそこを引き払うべきだ。


 私ならばすぐにそうする。


 友人に金を借りても、たとえ高利貸しの闇金で金を借りてでもそうする。


 私は悲鳴とうめき声を上げながらもそのディスプレイから目を離せなかった。


「その左上の奴なんかとても奇形や突然変異では説明できないじゃないですか…」


 私は画面の左上にあるクワガタムシがゴキブリをレイプして出来た子供が更にムカデをレイプして出来た子供のようなような一段と気味が悪い虫を指差してうめいた。


「そうなんですよ。

 単純にクルニコフ放射に影響を受けた訳じゃなく…異世界からの浸透と融合を受けたような…異世界から進入してきてこの世界の生き物と融合したのか…とにかく持ち帰って調べてみますよ」


「うちの店にこんな気味が悪いものがいたなんて…」


 ママがカウンターから身を乗り出してディスプレイを覗き込みながら顔をしかめた。


「安心してください。

 おそらく壁や電気の不可解な現象が無くなっていたとしたら、もう、こんな気味が悪い虫は出てこないですよ。

 これ以上の浸透融合現象は起きません。

 異世界との出入り口が塞がっていたとしたらね」


「…異世界?」


「…まぁ…霊界とか異次元とかそんな感じの世界ですよ。

 ほほほほほ!

 カラオケも大丈夫なようだし!

 歌うかな~!」


 ママの問いについ口を滑らせたと言う感じがありありで桜田が笑ってごまかした。


 大倉山もそそくさとデジタルカメラをバッグにしまいこみ、焼酎のグラス片手にデンモクを引寄せた。

 ジョアンは早くもデンモクについたペンで画面を叩いている。


 そう、惟任研究所は異世界との裂け目からこの世界に進入する何かが起こす浸透融合現象を研究しているのだ。


 クルニコフ放射と呼ばれる心霊現象などが起こるときに発生する独特な電磁波。


 それを探査するためのセルゲイエフ・センサーなど地味だが金が掛かっている装備を使ってこの世界のあちこちに存在する、俗に言う心霊現象を調べている研究所なのだ。


「しかし…とみきちゃんも良くこういうところに遭遇するわよね~!

 とみきちゃんが呼び寄せられているのか、それとも…」


 ジョアンが早くも入れてこぶしを利かせて歌っている兄弟舟を聞きながら桜田は呟いた。


「それとも…何ですか?」


「案外ととみきちゃんが呼び寄せているのかもね…それか…とみきちゃんの身の回りに異世界との裂け目が出来るのか…」


「…やだなぁ~!

 気持ち悪いこと言わないでくださいよ~!

 俺も何か歌おうっと!」


 桜田の言葉に一瞬ぎくりとした私だが、とっさに笑ってごまかし、カラオケでも歌うことにした。


(とんでもない!こんな気持ちが悪い世界となんて関わりを持ちたくないよ)


 その日は桜田達と午前3時まで散々に飲んで歌って食べて語り合ったが、壁は二度と鳴らず電気も消えず、セルゲイエフ・センサもクルニコフ放射を感知しなかった。


 私はとりあえずチャゲアスのラブソングを入れてから焼酎をあおった。


 大倉山が入れたガッチャマンの歌のイントロが流れてきた。


エピローグ




 どうやって家に帰ったか良く覚えていない。

 枕元にタクシーの領収書があったので椎名町でタクシーを拾ったのだろう。

 時計を見ると、もう午前10時を回っていた。

 二日酔いと言うほどでもないがけだるい酔いの名残が体に残っていた。

 夕方からの病院の勤務に備えてシャワーを浴びようと立ち上がると、どこからかピーピーと警告音が鳴った。


 はて?


 部屋の中を見回すと私のナップザックの中から音が出ている。

 ナップザックを開けたら、セルゲイエフ・センサーが入っていた。

 一昔前の携帯電話のようなセンサーは赤いライトを点滅させてクルニコフ放射が300を超えていることを知らせていた。


 故障かな?と思って手にとってセンサーを眺めた。

 一度電源を切って自己診断プログラムを走らせるとセンサーは異常が無いことを示して沈黙した。

 おそらく昨日の夜にぐでんぐでんに酔いつぶれた大倉山が忘れていったものを私のバッグに放り込んだのであろう。


 私はタオルを肩にかけてシャワーを浴びに行った。

 すっきりして部屋に帰ってきた私をクルニコフ放射を感知して警告音を鳴らしているセルゲイエフ・センサーが出迎えた。


 背筋を氷で撫でられたような感触がしたが、私の額からはじっとりとした汗がにじみ出てきた。


 セルゲイエフ・センサーの表示する放射値はやはり300を示していた。


(クルニコフ放射が100以上なんていつ何らかの心霊現象が起きても不思議じゃない…ばかな!)


 私はセンサーを手にとって部屋を出た。


 ゲストハウスのあちこちで100以上、場所によっては400を越える場所があった。


 私はセンサーを片手に外に出た。


 近所のタバコ屋に行く途中3回も警告音が鳴り、100以上の放射値を表示した。


(なんなんだ…何なんだよこの町は…)


 タバコを買った私はゲストハウスに帰る気になれず、歩いて数分のところにある小高い山の頂に病院と看護師専門学校がある比較的大きな公園に行った。


 よく晴れた、やっと夏の暑さが薄らぎはじめたさわやかな景色だが、私の心の中はちっともさわやかではなかった。


 公園のあちこちでも場所に寄っては最大で500を超える放射値を感知した。


 もともと地元では夜になると幽霊らしきものが出ると噂されている場所だが、それでも高すぎる。


 ましてやそんな場所が家から歩いて数分のところに、それを言えば自分が住んでいる家自体が300を超える放射値…そして家の近所にはあちこちに普通では考えられない高い数字が。


 私はタバコに火をつけて一息吸った。





 日本だけじゃなくて世界中でクルニコフ放射値が高い場所が見つかっているのよ。

 …見つかっていると言うよりは…増えていると言った方が良いかもね。

 それに地震とか台風とか洪水とか津波とかの天変地異が最近の多いでしょ?

 この星全体が異世界からの浸透と融合に見舞われているのかもね…カレーやシチューを作るとき鍋をオタマでかき回すでしょ?

 よく混ざるようにね…今、この世界は溶けて混ざり合うことが頻繁に起きているし、人類も口では分裂住み分けみたいなこと言ってるけど、やってることはどろどろに溶けて混ざり合うことを進めているわ…私達はひとつの大きな鍋に放り込まれてぐつぐつと煮られてかき回されている…いつか…そんなに遠くない未来、世界のあちこちでそれこそごく普通にこの店で起きた事や佐伯邸で起きたことが起こるかもね…


 私は昨日の夜、飲んでいる最中に桜田が言った不吉極まりない言葉を思い出した。

 

「パパー!見てみて!変な虫がいるよ!」


 興奮した子供の声で私は我に帰った。


 公園の小道の端の草むらにしゃがみこんだ子供が草の根元を指差しながら父親を呼んでいる。


「どれどれ?

 うわ!気持ち悪い!

 ジュン君触っちゃ駄目だよ!

 あっち行こう!」


 若い父親が草の根元を見た途端に子供を脇に抱えて歩き去った。


 私はなんだろうか?と子供が指差した場所に近付いてみた。


 子供を抱えた父親とすれ違った若い男も子供と父親とのやり取りを見ていたのか、私よりも一足先に草の根元を見ながらしゃがみこんだ。


「なんだこれ?」


 若い男は近くにあった親指ほどの太さの棒切れを拾い、草の根元を突いた。


 しゃがんだ男から5メートル程に近付いた私はなにやら毒々しい色合いの細長いものが男が持った棒切れを虫にしては速いスピードで駆け上がるのを見た。


 虫?は男の手首に到達して尻尾と言うか、後方の先端を男の腕に突き立てた。


「うわぁ!」


 男は刺された腕を摑んでのけぞり倒れた。


 男の腕から離れたそれは、一度空中で丸まり、地面に落ちて何回かバウンドしてから体を解いて私の足元めがけて物凄いスピードで這い進んで来た。


 細長い毛虫のようなムカデのような毒々しい赤と緑のダンダラ模様のそれを見た途端に私は身を翻して逃げようと思った。


 だが、追いつかれると本気で走っても絶対に追いつかれると心の何処かから警報が出た私は必死に踏みとどまり、直ぐそこまで近付いてきたそれの頭めがけて思い切り踏みつけた。


 それは私の靴に頭を踏まれ、狂った様に体をのたくらせた。


 それの尻尾、先の方から2本の毒針が突き出た恐ろしい尻尾が私の足を刺そうと靴の表面に何度も突き立てた。


 非常に幸いな事に病院勤務用の頑丈な靴を履いていたので毒針は靴の表面を空しく引っ掻いただけだった。


 私は靴底の裏からでも判るねっとりした液体が入った硬いチューブのようなそれの頭を踏む靴に力を込めた。


 外骨格を破って粘膜がはじけ飛ぶ薄気味悪い感覚に耐えながらしばらく踏みしめていると、それの尻尾は動く勢いが失せて、地面にクッタリと伸び、動かなくなった。


私はその異様な虫を踏み潰した足をゆっくりと上げた。


 そのムカデに似た、いや、ムカデの醜悪なパロディの様な生き物は私の靴に頭を踏み潰されて死んでいた。


 10センチ程の長さのそれは奇形などと生易しい言い方では説明がつかない、異様な正に異世界からやって来たような、いや、薬物中毒者の悪夢から這い出てきた様な異様な、暫く見つめていると猛烈な吐き気に襲われそうな姿だった。


 事実私は喉の奥から酸っぱい物が込み上げてくるのを抑えるのに非常な苦労をして、それを観察した。


 頭はハエ。


 胴体はムカデ。


 だが、体節の太さが不規則に違い、ムカデの足に混じってゴキブリの足の様な長さがまちまちの足が所々デタラメに生えていてゆっくりと曲げ伸ばしをしていた。


 更に頭部を踏み潰されて絶命しているはずなのに、尻尾の先から二本の赤やオレンジや青色の毒々しい針が、何か手近な物を突き刺してやろうと、針の先端からネトネトした液体を滴らせながら、ゆっくり出たり入ったりしていた。


 だが、最大の違和感を感じるのは三対のハエかトンボの様な半透明の羽根が付いている事だ。



(こいつ………飛べるのか?)


 この虫が宙を飛んで人に襲いかかる光景を想像して私はぞっとした。


 どちらにしろ、この虫は悪い、非常に悪い邪悪な存在だと直感した。


 腕を刺されて唸り声を上げている男はヨロヨロと立ち上がり、遠くに見える病院に向かって歩いていった。


 その腕は紫色に変色し、倍ほどにも膨れ上がり、皮膚のところどころが水に濡れたトイレットペーパーの様に腐蝕して破れ、出血していた。


 男が立ち上がった辺りに何かが落ちていた。


 それは毒の影響によるものなのか…男の指の爪が根本から抜け落ち、血と膿にまみれていた。


 私があの男だったら。


 私だったら、私がこの悪夢の様な虫に刺されたら、毒が全身に回らない内にその腕を躊躇無く切り落とすだろう。


 私は男と反対の方向に歩き始めた。


 潰れた虫はそのままにした。


 一瞬携帯で写メを撮るか、大倉山に連絡を取り、回収してもらうか考えたが止めた。


 刺された男を助けようかとも思ったがそれも止めた。


 大して助けにはなれないし、もう、係わり合いになりたくなかった。


 こんな異常な出来事の関係者になりたくなかった。


 足早に公園を立ち去る時、あの黒い犬が少し離れたところからじっと私を見ていた。


 私は足を止めて黒い犬を見つめた。


(おまえ…ルシファーなのか?)


 黒い犬は、ワン!と野太く一声吼えて姿を消した。


 その吼え声は、ここから早く立ち去れ、安全なところを探してそこに移れと、私には聞こえた。 


 私は会社に電話をかけ、強引にその日の病院勤務を休み、ネットカフェに行き、安くて完全な個室があるゲストハウスを何件か検索し、その場所に行きセルゲイエフ・センサーでクルニコフ放射値がどれくらいか調べた。


 非常にぞっとしたのは新宿、渋谷など繁華街があるところ、世田谷など過去に凶悪犯罪があるところなどで異常にクルニコフ放射値が高い場所があるということだった。


 文字通り背筋が凍りついた。


 そしてついにクルニコフ放射値が低く、周りにも放射値が高い場所が無い小平市のあるゲストハウスを見つけ、冬が始まる前に引っ越した。


 風の噂によると私が前にいたゲストハウスはいかれた人間が多数入居してとんでもない状況だと言う。


 やはり異世界との裂け目には人を狂わせる何かが、おかしくなった人間を惹きつける何かがあるのだろうか?


 私はこれからも時々研究所からセルゲイエフ・センサーを借りて定期的に身の回りのクルニコフ放射値を測定するつもりだ。


 放射値が上がれば直ぐに、より安全なところに引っ越そう


 さて、話は変わるが私には娘がいた。


 父親の私が言うには非常にバカみたいだが、美しく聡明でとても人格が良い、私なんかよりも数段魂が上等な娘だった。


 数年前に事故で若くして亡くなったが、今はそれが唯一の慰めになっている。


 もし、全面的な異世界との浸透融合現象が起きてあの悪夢の中から這い出てきたような虫が跋扈する世界、いや、あの虫なんか取るに足らないほどの恐ろしい化け物がうろうろする世界に娘が生きていたら私はどうやって彼女を守ればよいのか?


 幸いな事に天国が存在するならば娘はそこにいるはずだ。


 私は安心して自分の身を守りきることに専念できる。


 近いうちに出現するかもしれないあの地獄のような世界。


 もしそうなった場合、私は自分の安全の事だけを考え、自分を守りきることだけ専念すればよいのだ。


 私がどんなに惨い目に遭ってもどんなに酷い苦痛を感じても私の命を投げ出しても守らなければならない存在は娘だけ、私の一人娘だけだからだ。


 守るべき娘を失った私は、近い将来来るかも知れないあの地獄のような世界で己の身の安全だけを考えればよいのだ。






だが、ほかの人たちは?






終わり 


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