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 二日目の朝、ソフィアが目を覚ました時にはすでにベッドにイーサンはいなかった。普段からイーサンは朝が早く、急ぎの仕事を朝一番に済ませてから朝食へ向かう。

 ソフィアは欠伸をしてから、イーサンの枕を引っ張って胸に抱え込んだ。枕に顔を埋めて匂いを嗅ぐ。イーサンはなんだかとても良い匂いがするのだ。いわゆる加齢臭のような匂いを感じたことはなく、ソフィアは夫の匂いが好きだ。今まで枕の匂いを嗅ぐような真似はしたことがなかったけれども。

 ソフィアはしばらくベッドの中で匂いを堪能した後、女官を呼んで身支度を始めた。


 普段から、都合が合えば家族五人で食事をしている。円卓でソフィアの隣にイーサン、逆隣に息子が座っていつも通りに挨拶をしてから朝食が始まった。

 家族の中でもイーサンと息子は無口で、娘二人とソフィアが喋っていることが多い。ソフィアがこっそり隣を見ると、イーサンは静かにフォークを動かしている。食事をする様子も美しく惚れ惚れしてしまう。


「それでお母さま、私も参加しても良い?」

「ーーえ?」


 下の娘が話していたのを、イーサンに夢中で全然聞いていなかった。


「聞いていらっしゃらなかったのね、お母さま。どんぐり拾い大会よ、参加しても良い?みんな出るの」


 つい最近そんな話を聞いた覚えがある。そうだ、オリヴィアにスターターをしろと言われていた。本当に大会を開くのか。それにしても子どもはなぜあんなにどんぐりが好きなのだろう。


「そうね、イーサン、いかがでしょうか?」

「企画の許可申請が上がってきたのを先ほど見た。危なくないなら構わないよ」

「危なくないわ!お父さま、ありがとう」


 娘は嬉しそうに礼を言うとパンを口に入れた。


「ソフィアが開会の合図をするそうだね。君がそのような企画に参加するのは珍しい」


 オリヴィアが企画書に勝手に載せたのだろうか。いや、スターターをする約束はしたから勝手ではないか。


「え、ええ。子どもたちがたくさん参加すると聞きまして。同年代の子供たちが交友を深める機会が多いのは良いことですわ」

「そうだな」


 食事を終えるとイーサンはナフキンで丁寧に口元を拭い、それを机に置いて席を立った。皆、同様に席を立つ。


 ーーあれが欲しい。


 ソフィアは無造作に置かれたイーサンのナフキンを凝視した。

 イーサンが始めに部屋を出て行き、その後を娘二人が話しながら歩く。隣の息子がテーブルを離れた後、最後にソフィアが立った。

 すぐ隣の席に置かれたナフキンをスムーズな動作で手に取りドレスの袖に隠す。周りを見回すと、女官の一人と目が合った。見られていただろうか。

 女官は目礼するとテーブルの片付けを始めた。見られていなかったようでソフィアはホッとした。



 自室に戻ったソフィアは、手紙などを保管している個人的な箱にナフキンを入れて満足した。それから扉で繋がっている夫婦の寝室へ入り、その反対側の扉で繋がっているイーサンの部屋の様子を窺った。

 イーサンの部屋に入ることは禁じられておらず、本を借りる際などに立ち入ることもある。いまはイーサンは不在のようだ。もう執務に向かったのだろう。


 ソフィアはそっとイーサンの部屋に入り、机に近づいた。

 夫のものが何か欲しい。


 イーサンの机には書類や本が積まれており、文具立てには羽ペンがたくさん刺さっている。一本くらい無くなっても気付かれないのではないか。

 学校に通っていた頃、女生徒の間で恋を叶えるおまじないが流行した。好きな相手が触った羽ペンでインク一瓶を使い切ったら恋が叶うというものだ。当時はやらなかったが、やってみようか。

 ソフィアは羽ペンを一本抜き取り、忍び足でイーサンの部屋を後にした。そしてその羽ペンを自分の文具立てに刺した。


 自分にこんな収集癖があるとは思わなかった。

 恋をすると自分の知らなかった面も見えるようになるのだなと感じたが、この収集癖はイーサンにバレたら引かれるだろう。

 ソフィアは自分の羽ペンを一本取り、拝借した羽ペンの代わりにイーサンの文具立てに刺すため、再度そっと部屋を出た。



 ♢



 昼は貴族夫人たちとの昼食会だ。参加者で最も地位が高いのはソフィアだが、ソフィアよりも年上の貴族夫人たちも多い。まだ王妃ではなく、王太子妃なのだ。出しゃばらないよう、しかし品のある装いになるよう身嗜みには気を使う。

 ソフィアは派手な装飾のない、落ち着いたコバルトブルーのドレスを選んだ。ただしシンプルすぎてもみすぼらしいと言われるものだ。装飾品は大ぶりの宝石にした。


 貴族夫人たちとの懇談は情報交換の色合いが強い。王宮内での人間関係や王都で流行している化粧品、服飾、芸術、音楽などの話題。また、会が進み口が滑らかになってくると時折、夫や姑の愚痴が聞こえてくる。

 ある公爵夫人は夫が趣味に没頭して家庭をかえりみないとこぼし、ある伯爵夫人は姑が育児に口出ししてくるのがやっかいだと愚痴る。順繰りに各々話し、王太子妃はどうですか、とソフィアに話を振られた。


 こういった話が出ることは多いが、姑は王妃だから愚痴るわけにはいかないし、実際関係は良好だ。イーサンに対する不満としても大したことはなく喧嘩もしないので、今まで適当に濁していた。

 ソフィアは少し考えて口を開いた。


「殿下は最近は前髪が寂しくなってきていらして、ああ歳を重ねているのだなと思っていたのですが、よく見ると生え際の産毛がとっても可愛らしいのです。王子が赤ん坊の頃、まだふわふわとした髪の毛だった頃を思い出して撫でてしまいたいのです。愛しい相手が歳を重ねていく姿を見ていられるというのは幸せなことですわね」


 思いもよらぬ方向からの話に、周りの夫人たちが目を丸くしてソフィアを見つめる。


「それから…殿下は口下手でいらして、着飾ってもなかなか褒めてくださいません。でも着飾ると熱い目で見てくださるので、愛されていると感じることができますわ。やっぱり少しは言葉が欲しいと思うこともありますけどね。皆様の旦那様は口に出して褒めてくださいますか?」


 皆が顔を見合わせる。すると侯爵夫人がおずおずと話し始めた。


「あの、私の夫はよく褒めてくれますわ。少しの変化でも気付いてくれるのです。言葉に出してくれるとやはり嬉しいですわよね」


 侯爵夫人の言葉を皮切りに、夫がどれだけ褒めてくれるかという話題に変わった。最終的にそれは夫の惚気へと変わり、会は朗らかに終了した。

 たまにはこういうのもいいだろう。ソフィアは満足してお茶を飲んだ。



 ♢



 今夜はイーサンと夜会へ出席する。ソフィアは気合が入っていた。元々、惚れ薬の効いたイーサンに特別めかしこんだ自分を印象付けるつもりで、惚れ薬ができてからは肌を磨き、充分に髪を手入れしてきた。

 ソフィアは女官たちと時間をかけて丁寧に化粧を施し、豪華に髪を結い上げた。夜会なので輝きの強い宝飾品を選び、ドレスはいつもより露出の多いものにする。黒いドレスはソフィアの白い肌をより艶かしく見せてくれるはずだ。


 出来上がった自分を見てソフィアは満足した。いつもよりも気合が入っていることは分かるはずだ。


「お美しいです、妃殿下」


 女官たちも満足そうに頷いた。イーサンもきっと見直してくれるはず。ソフィアは期待を持った。



 自室の扉がノックされ、イーサンが迎えに入ってきた。いつもの黒い礼服に勲章をつけている。礼服は身体にぴったりでシワ一つ寄っていない。若い頃よりは恰幅が良くなったが、それも年相応に貫禄があるように見える。

 部屋に入ったイーサンはハッとしたようにソフィアを見つめた。ソフィアは自身がイーサンに見惚れてしまったため、夫の反応がいつもと違うかどうかよく判断できない。しかしここ最近の中では一番長い時間自分を見てくれたように思う。


「準備できたようだな、…今日は貫禄がある。行こう」


 ーー貫禄がある?


 貫禄があるというのは女性に対しての褒め言葉なのだろうか。ついさっき、イーサンには貫禄があると感じたが、男性に対してのそれとはニュアンスが違ってこないだろうか。

 ソフィアは疑問に思って女官たちを見たが、彼女らも怪訝な顔をしてイーサンを見つめていた。


 まあいい。普段何一つ言わない夫が非常に珍しくコメントをくれたのだ。良かったと思おう。


「ありがとうございます。イーサンも素敵ですわ。参りましょう」



 まず国王夫妻に挨拶をし、その後、出席者から挨拶を受ける。昼間の昼食会と同じように男性同士の情報交換の場でもある。ソフィアは話を振られない限りは出来るだけ口を挟まないようにしていた。



 最近頻繁に持ちかけられる話は、息子である王子の縁談だ。息子は12歳で婚約者はまだいない。国王夫妻以降の王族はみな恋愛結婚だし、息子はまだしばらく学校に通うので縁談を組む予定はない。しかし同年代の娘を持つ貴族の親は、交流を持たせようと話を挙げてくるのだ。


 今夜はとある貴族夫妻から話を持ちかけられた。


「王子殿下はますます凛々しくおなりですね」

「ありがとう。学校も楽しく通えているようだ」

「妃殿下も、王子殿下の将来が楽しみではありませんか?」


 ソフィアに話が振られたため、にっこりと微笑み返した。


「そうですわね、背も伸びてきて子どもの成長はあっという間だと感じます。ただ、とにかく最近は王子が昔の殿下にそっくりで懐かしく思うのです。ふわふわのシルバーブロンドも、マリンブルーの瞳もそっくりで、殿下は昔、本当に可愛らしかったなと思い出します。今も可愛らしいと感じることはあるのですけどね」


 ソフィアが嬉々として話すと、隣でイーサンが怪訝な顔をしたのが分かった。


「王子殿下は、殿下と妃殿下がお知り合いになったのと同じ年頃ですね。実は我が家の娘も…」

「そうなのです!ですから王子が、出会った頃の殿下に重なって見えるのかもしれません」


「それで我が家の娘も同じ年頃でして…」

「お嬢様の成長をじっくり目に焼き付けた方がよろしいですわね、あっという間に大きくなってしまいますもの。それで初めてお会いしたときの殿下がどうだったかというと…」


 王子の話題を振られていると分かっているが、ソフィアはイーサンの話をせずにはいられなかった。


 その後も貴族たちとの挨拶は続いた。


「妃殿下、いつにも増してお美しいですね」

「ありがとうございます。でも殿下ほどではありませんわ。ご覧になって、この礼服の似合うこと。美しく凛とした雰囲気もあり、威厳も感じられて…」


 いつもより気合の入った ーイーサンに言わせると"貫禄のある"ー ソフィアは出席者から口々に褒められたが、しかしその日のソフィアはどんな話題を振られても結局イーサンの話になってしまい、夫がいかに素敵かを演説し続けた。


 挨拶をした貴族たちはソフィアの止まることのない惚気に半ば辟易とし、そそくさとソフィアの演説から逃れていった。

 ソフィアはこれまでの夜会では出来るだけ口を挟まないようにしていたが、今夜はとにかく夫が素晴らしいことをアピールしたくてたまらなくなってしまったのだ。

 

 イーサンは特にソフィアを止めることもしなかったためソフィアは充分に惚気て喋り、大満足で夜会を終えた。

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