天使は言った。「悪役令嬢あれ」
創造主は、ジルに「そろそろ、おまえにも一つぐらい世界を任せてみよう」と告げた。
「ほ、本当ですか」
彼は「物語」を司る天使である。物語を作り出し、他の天使たちを喜ばせるのが使命だ。
「ちょうど新しく生まれたばかりの世界がある。小さいが、好きなようにやってみなさい」
「はい」
生まれたばかりの小さな世界は無限の可能性を秘めているが、立派に成長するのは、ほんの僅か。うまく世界を構築する事が出来たものだけが、出世するのだ。
──自分ならきっと、うまくやれる。
新米天使のジルは、全くなんの根拠もない、希望と自信に満ちていた。
そうして彼は、混沌とした大地に降り立った。あたりは何もなく、ドロドロとした沼のようなものが広がっているばかりである。
「俺には高度な文明を管理するのはまだ荷が重いな」
ジルは、まずは文明が発展するのを雲の上でのんびり待つ。そうして、安定してきた頃に「物語」を作り始める事にしたのだった。
天使にとってはあっという間の、人間にとっては持て余すほどの時が流れた。
「最近は、愛に満ちた世界が流行りらしいな?」
天使は雲の上に寝転がり、紙切れに背中の羽で作ったペンを使い、何やら書きこんでいる。
彼は物語を作る上で、あらかじめ先輩たちの世界をめぐり、愛に溢れた世界、その中でも「悪役令嬢」なるヒロインが存在する世界がとりわけいいらしい、とあたりをつけていた。
「しかし、悪役令嬢ってのは何かね」
ジルはパラパラと、集めてきた資料をめくる。
素直に受け取れば性格が悪く、ヒロインの恋物語を邪魔する存在、であろう。
なぜそれが人気なのか、天使にはいまいち感覚が掴めない。しかし、とにもかくにも一度やってみよう、とジルは気合を入れて立ち上がった。
「美人じゃ無い方がいいのか?」
ジルは考える。しかし、憎まれ役ならば「手強い」方が良いだろう、と気を取り直し、自分好みの少女を作り出す事とする。
背が低く、健康的な体型で、ゆるいカールがかかった薄桃色の髪の毛と印象的な翠の瞳を持つ、色白の、とびきり可愛らしい令嬢だ。
敵役にそんな素晴らしい少女を当てがってしまっては、後々問題があるかもしれないが、それはそれで良い。
どうせ長い付き合いになるのだ、納得のいく作品を作り上げたいものである。とジルは誰に見せるわけでもなく頷いた。
天使は言った。
「悪役令嬢あれ」
ジルが雑多に育てている新種の花の蕾の一つから、ふわりとした芳香とともに、ひとりの少女が現れた。しかし、白に近い真っ直ぐな銀髪に、薄い青の瞳の少女であった。
身長は高く、痩せていて、目は小さくはないが切れ長で、ややつり目。美しくはあるが、全くジルの思い描いていた姿形ではなかった。
「なんだ、お前は?」
天使はやや、がっかりしながら彼女に問いかけた。
少女は眩しげに目を細め、自分の頬をさすりながら答える。
「色白なのはいいとして、悪役令嬢と言えば銀髪ですわよ」
「そう……なのか?」
「はい。ピンクの髪に翠の瞳だなんて、適当に考えたでしょう」
「ダメなのか?」
「悪役令嬢を生み出すセンスがなさすぎですわ」
天使のジルは面食らったが、まあ「悪役」ならばそんなものだろうと、反論を飲み込む。
「なんとなく青い目にしましたけれど、あなたの紫の瞳もいいですわね」
少女は立ち上がり、ジルの顔を覗き込み、ぎこちなく瞼をパチパチとさせた。すると、瞳の色はジルと同じ明るい紫に変わった。
天使は見つめられて思わず赤面したが、自分の「創造」する力が優れすぎていたのだと、目を閉じて気持ちを落ち着かせた。
「馬鹿を言うな。紫は高貴な色なんだ。勝手に真似するんじゃない」
しかし、生まれたばかりの悪役令嬢はそんなことは気に留めていないようで、一糸纏わぬ姿で雲の上を物珍しげにうろうろしている。
「まずは服を着せなきゃな」
ジルは雲の上から身を乗り出し、下界を覗き込んだ。ちょうど、一軒の貴族御用達の服屋がある。
「ほら、あそこから好きなのを選ぶんだ」
「貴方が選んでくださいな」
なぜそこだけ素直なのか。ジルはその文句を喉のあたりに留め、薄い水色にレースの縁飾りがついたドレスを少女に与えた。
「似合いますか?」
ドレスの裾をつまみ、名前のない令嬢はくるくると回って見せた。
「ああ」
ジルは満足げに頷いた。
失敗してしまったようだが、生まれてしまったものは仕方がない。それに、やはり自分の設定は無理があったのだとジルは考えた。悪役令嬢あれ、と言ってやって来たのだから、彼女こそがこの世界の「悪役令嬢」なのは疑いようのない事実なのだ。
「おまえの名前は……」
天使は気を取り直して少女に名前を付けることにした。セリーヌ、もしくはアンジュ、ブランシュ……。
「わたくしはヴァレリアですわよ?」
令嬢はこてん、と首を傾げた。その表情は、「何を今更」とでも言いたげであった。
「そうなのか?」
「はい。ヴァレリア・クオーレですわ」
「わかった」
本人がそうだというのだから、そうなのだろう。正直なところ、ジルにとってはどうでも良い話ではあった。
「さて、ヴァレリア。これからお前には存分に活躍してもらう」
「嫌ですわ」
「なっ」
心底つまらなさそうな顔をしたヴァレリアに、ジルは面食らう。
「お前、自分が何のために……」
「『お前』ではありません。ヴァレリアです。私は「令嬢」ですのよ。働くなんて、嫌ですわ」
「おま……ヴァレリアには、大活躍してもらわないと困るんだよ」
「私が活躍するとどうなるんですの?」
「この世界が評価され、人が集まると、俺が出世できる」
「それで?」
「そりゃあ、嬉しいんだ。あと、もっと大きな世界を任せてもらえる」
ヴァレリアは考え込む仕草を見せた。
「それではわたくしは、貴方が出世するために、不幸になるために生まれて来たのですか?」
その言葉に、ジルはたじろぐ。ヴァレリアの紫の瞳が、強い自我を持ってきらめいている。
「そういう訳、では、ない、が」
若い天使である彼は、自分の作り出したものに反論されるなど、まるで想像した事もなかった。昨日までのジルならば「やり直し」ただろう。
しかし、さすがに自分も非情ではない。確かに「お前は不幸になるために生まれてきた」と言われてやる気になるヤツはいないだろう。
ヴァレリアが嫌だというのなら仕方がない。自分は天使なのであって悪魔ではない。助手としてならば、彼女も断りはすまい。
ジルが妥協案を口にしようとした瞬間、ヴァレリアが喋り出した。
「頑張ったら、ご褒美をくださいます?」
「別に、何も用意は……。いや、そうだな。もしうまくいったら、お前の望みを何でも叶えてやろう」
「なんでも?」
ヴァレリアはジルの前につつつ、と近寄り、再び顔を覗き込んだ。
「『俺にできること』ならな」
「そうですか。わかりました」
「何が欲しいんだ?」
ヴァレリアはジルの問いかけに答えず、両手を広げて地上に飛び降りた。その背中を、天使はじっと眺める。
彼女は少し痩せすぎで、ドレスの上から肩甲骨の形がわかるほどだった。
「変な女だ。まあ、やる気になってくれたなら良かった」
こうして、ジルとヴァレリアは世界に人を集めるため、色々な物語を作り出した。
『ヴァレリア・クオーレ。お前との婚約を破棄する』
『どうしてですのっ。あんな、身分の卑しい、礼儀もなっていないような女と!』
「おーおー、やっているね」
ジルは雲の上から、此度の物語を眺めていた。
『お前の悪辣な振る舞い、到底見過ごす事はできぬ。婚約破棄の上、お前には北の修道院へ行ってもらう』
『王太子妃にふさわしいのはこの私、ヴァレリアですわ! どうして、どうして、私の方がずっと、子供の頃からあなたの事を……!』
婚約者に縋り付こうとするヴァレリアを、王太子は無表情のまま突き飛ばす。「悪役令嬢」は赤いカーペットの上に崩れ落ち、騎士たちに運ばれて行った。
「相変わらず、ものすごい演技力だなあ」
ヴァレリアの様子は、見ているこっちの心が痛くなるほどである。しかし、評判はあまり芳しくない。
あいつはあんなに頑張っているのに、なぜだろう。やはり、あまり美人に作りすぎたから同情票が集まってしまってヒロインに人気が出ないのが敗因か……とジルは首をひねる。
ジルが頭を悩ませていると、天から一人の来訪者が降り立った。先輩天使である。
「よう、ジル。調子はどうだ?」
「頑張ってはいるんですが、いまいちなんですよね」
「どれどれ。あーちょっと、違うぞこれ」
先輩が言うには、「どぎつい性格の恋敵が目立っている話」ではなく「悪役のような位置に立たされてしまった不遇なヒロインが逆襲ないしは成り上がる話」だそうだ。
「つまり、この状況で言うと、ここからあの子が幸せにならないといけないのさ」
「俺は間違っていたのか……」
どうりでヴァレリアをひどい目に合わせても、自分にとってもイマイチ面白くないし、「ヴァレリアがかわいそうです」と言った内容の感想ばかり来るはずだと、ジルは納得した。
「ありがとうございます、先輩。やっぱり自分がいいと思えるものでないとダメですよね」
「ん? うん。知らんが」
ヴァレリアが役目を終え、雲の上に戻ってきた。だいたいいつも、物語が幕を下ろしたあとの彼女は、誇らしげなのである。
「わたくしの活躍、見てくださいました?」
「ああ、今日も名演技だったな。しかし、さっき先輩から聞いたんだが、俺たちは前提から間違っていたらしい」
その言葉に、ヴァレリアはあからさまに不満げな顔になった。
「わたくしがあんなに、身を削って頑張っていましたのに」
見届けないで、他の方と喋っていらしたんですね。とヴァレリアはじっとりとした瞳でジルを睨んだ。
「い、いやいや。それはそうだが、有益な話を聞いたんだよ」
ジルはたっぷり間を取り、深刻そうな表情で、まるで世界の秘密を伝えるかのように、ひそひそ声でヴァレリアに語りだす。
「お前は悪役ではなく、ヒロインだったのだ」
「はあ、もしかしなくてもジル様は御存なかったので?」
私は生まれた瞬間から、存じ上げていましたけれど──と事もなげに言われ、ジルは意識が遠くなりかけた。
「何で知っていて、言わないんだよ」
「一つ目から成功していたら、ジル様ったら調子に乗って後々破滅するでしょうに」
ヴァレリアの発言は、正しくジルの性格を捉えたものであったが、天使はそれを無視した。自分が彼女の事をあまり知らないのに、向こうは自分を理解していると言うのも、むず痒いものであるからだ。
「とにかく、方向性を変える。お前が、お前こそがこの世界のヒロインだっ」
ジルはびしり、とヴァレリアを指差した。令嬢は気を悪くした様子もなく、ふわりと微笑む。
「じゃあ、わたくし、幸せになれますのね?」
「うん? え、ああ、そうだな」
今度は「ヴァレリアが幸せになる世界」を考えて、それで評価されればジルは「出世」することができる。
そうしたら、この世界は誰か他の者に任せて。もっと大きな、壮大な世界を管理できるようになるだろう。こんな、小さな国しかない閉ざされた世界ではなく、複数の国があって、海があって、血湧き肉躍るような戦いのある、そんな世界を手に入れる事ができるかもしれない。
「うーん、次は令嬢探偵ヴァレリア、もしくは女海賊……」
ジルは、ふとある事を考え、ペンを走らせる手を止めた。
「ああ、いや。ヴァレリアはこの世界の登場人物だから、他の世界にはいないんだった」
そう。ヴァレリアはこの大地から生まれた悪役令嬢。彼女は他の世界にはいない。
新しく作り出したところで「見た目がそっくりの違う誰か」でしかないのだ。
自分がいなくなったら、ヴァレリアはどうなるのか。ふと思ったが、きっと、ヒロインの座を新しい誰かに譲ったあと、物語の中で永遠に幸せなままでいるのだろう、とジルは考えた。
「次は、そうだな、ええと。婚約破棄されたはずのヴァレリアが、もっといい男に言い寄られる。実はそいつは前々からヴァレリアの事を好きだったが、身分の高い婚約者がいるせいで、気持ちを伝えられなかった。傷心の令嬢に熱烈にアプローチする、ヴァレリアにちょうどいい体格の、セクシーで遊んでそうだけど一途な男……これで行こう」
ジルは書き終えた物語を読み直しても、どこか気に入らなかった。しかし、これも研究の結果である。
いいとか悪いとか、そう言った事は「読者」が決める事。そこに自分の好き嫌いなど、あまり関係がないのだ──
ヴァレリアはよくやってくれた。そろそろ、彼女を幸せにしなければいけない──
そうして、新しい舞台の幕が開けた。
「ヴァレリア。私はいつも貴女を見ていました。あんなあなたの事を自分の出世の為にしか考えていない男の事は忘れて、どうか私を選んでください。」
「なんだあいつ……お前がヴァレリアの何を知ってるっていうんだよ……」
ジルは雲の上から身を乗り出し、悪態をついた。此度の「物語」はかつてないほどの評判である。
ジルが指示を出せるのはヴァレリアだけで、物語の「概要」を作った後は、世界は勝手に廻り出す。今回のストーリーのメインとなるミケーレもまた、ヴァレリアのように好き勝手動いているのであった。
「私、馬鹿だったんです」
ヴァレリアは、薬指で目尻に溜まった涙を拭った。
「頑張ってさえいれば、いつかあの方が私を見てくれるんじゃないか。そう思って、いつか、きっといつかは……って」
パタパタと、白い鳩が飛んでくる。ジルの元に感想が舞い込んで来た証だ。
『ヴァレリア、まだあのクソ男に未練があるの!?』
『ミケーレ様、頑張って!』
『はやく元婚約者が、見捨てられて惨めに落ちぶれて欲しいです』
評判は上々である。そう、評判は上々と言ったら、上々なのだ。しかしジルはこの話がまったく気に入らなかった。理由は特に、何もない。
ミケーレがヴァレリアを抱きしめた。ここは噴水広場、公衆の面前である。
「あっ、何してんだあいつら」
ヴァレリアはミケーレの腕の中で硬直していたが、おずおずと、彼の背中に手を回した。
『ミケーレ様……』
ヴァレリアの、紫水晶の瞳が、ミケーレの肩越しに不敵にきらめいた。
「わーーーっ」
「わーーーーーーっ」
「わーーーーーーーーっ」
ジルは、地上への光を遮り、大雨を降らせ、突風でミケーレを吹き飛ばした。雷が鳴り響き、強風で木々が倒れ、花は散った。
嵐の中、ヴァレリアだけが、真っ直ぐにジルを見ていた。
「わああああああ」
ジルが錯乱する様子を、ヴァレリアは地上で、腰に手をあて、わずかに胸をそらせて見上げていた。その表情はどこか、楽しげであった。
「ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ。何がなんでもダメだ」
ジルは、今まで積み上げた物語の束を、バラバラにして下界へ放り投げた。
「これも、あれも、とにかく全部がダメだ。何かが違う。俺が求めてるのは、こういうのじゃないんだよっ」
ジルは雲の上で暴れ回る。
「ジル様が人生に悩まれるのは勝手ですけれど……」
ヴァレリアの、年の割にはハスキーな声が、雲の上に響いた。
「あなたのせいで、わたくしの人生がめちゃくちゃですわ」
「うっ」
「どうしてくれますの?この状況」
これではどちらが「悪役」か分かりませんわね、とヴァレリアはジルにいたずらっぽい視線を向けた。まるで掌の上で転がされているようだ、とジルは思う。
「ううっ……」
「説明を。あと、責任を取ってくださいませ」
「あー、もう。この世界はお前にやる。勝手にしろ」
ジルはすべてを投げ出すことにした。
不貞腐れたジルは、雲の上にうつ伏せに寝転がった。背中の羽が邪魔だからだ。
寝転がったジルの視界に、泥で汚れたヴァレリアのスカートの裾がはためいているのが見えた。
彼女はこの、水色のドレスを好んで着ていた。脚本が変わっても、大体いつも同じ服を着ていた。
「わかりましたわ。「終わり」なのですね?」
「ああ」
ヴァレリアは、もう一度「本当にこの世界を自分にくれるのか」と念を押した。ジルは、投げやりに頷いた。
「それでは」
ヴァレリアは、寝転がったジルの首根っこを掴んで、背中に生えていた白い羽をもぎ取った。
「何してんだお前!?」
ジルは叫んだ。痛みはない。千切れた羽は、白い鳩に変化して青空へ飛び立っていった。
「悪役」の務めを果たそうかと思いまして。ヴァレリアは事もなげに、そう言った。そしてもう片方の羽も取ってしまった。
「地上では、邪魔になるだけですわ」
ヴァレリアは、呆然としているジルの脇に腕を差し込み、彼を羽交い締めにして雲のふちまで運んできた。
「俺をどうするつもりだ?」
ジルは、ヴァレリアに問うた。
今なら裁きの雷で、ヴァレリアを焼き尽くすことができる。しかし、今更そんなみみっちい事をするぐらいなら、世界ごと真っ二つにした方がましと言うものであるし、そんな事をした後、自分がどうなるのかと言う事は、皆目見当がつかないとジルは考えた。
「ジル様には、これから堕天使になっていただきます」
世界はわたくしのもの。
そう呟き、ヴァレリアはジルを抱えたまま雲の上から飛び降りた。
二人はゆっくりと落下していく。二人を取り囲むように、バラバラになった物語の破片がひらひらと飛んでいく。
「覚えていらっしゃいます?」
「……何を?」
「私がやり遂げたら、なんでも好きなものをくださると」
「ああ」
「ミケーレ様、今までで1番素晴らしい男性でしたけれど……どこかに吹き飛んでしまいましたから、もう誰か他の女の子が、喜び勇んで介抱している頃でしょうね」
「悪かったよ」
「それだけですか?」
ヴァレリアの、よく手入れされた長い髪が、ジルの頬をくすぐった。
「……お前が、よその男と幸せになるのが嫌だったんだよ」
「天使にあるまじき、悪魔的発想ですわね」
ヴァレリアは、ジルの首筋に顔を埋めた。彼女がいつも好んで身につけていた、梔子の香りがジルの肺を満たす。
「……悪かったよ」
「許して差し上げます。わたくしもちょっと、意地悪をしましたから」
ヴァレリアは背後から手を伸ばし、ジルの顔に触れた。ぺたぺたと、唇や、鼻梁や、額に触れ、最後に彼の目を覆った。
ジルは瞳を閉じる。闇の中で、ごうごうと吹き荒ぶ風の中で、ヴァレリアの鼓動に耳を傾けた。
二人はゆっくりと落下していき、雲の上からは見えなくなってしまった。
そうして天使はいなくなり、しばらくの時が流れた。
「はあ、この忘れ去られた世界を管理しろ、なんて主も無茶なことを言いなさる」
新しい天使はぶつぶつと、雲の上から下界を眺めた。
「なんだ。思ったよりずっと、平和でいい感じじゃないか」
天使はほっと胸をなでおろし、しばらく観察を続けた。
「あんたたち、悪い子になるとヴァレリアがやってくるよ!」
「きゃー!」
母親にどやされた子供達が石畳の上を駆けて行った。
天使は「ヴァレリア」とは何か、と思ったが雲の上はしっちゃかめっちゃかで、特に手掛かりになるようなものは何もなかったため、仕方なく地上に降り、近くにいた男に話を聞くことにした。背が高く、肌が浅黒く、遊び人の雰囲気があるが、目に知性の光が宿っている。
「もし、そこの方」
「どうしました?」
「つかぬことをお伺いしますが『ヴァレリア』とは何者ですか?私はこちらに来てまだ日が浅いもので……」
「『ヴァレリア』は男を堕落させる、恐るべき悪役令嬢です」
「はあ」
男は天使に対し、いろいろな話を聞かせた。自分の曽祖父は、ヴァレリアの呼び寄せた嵐に巻き込まれ、瓦礫の下敷きになっているところを曽祖母に助けられ、恋に落ちたのだとか、そんなとりとめのない話だ。
「なんと言っても、ヴァレリアの1番恐ろしいところは」
男は天使の耳元で、周囲の様子を伺うように、そっと囁いた。
「天使を天上から引きずり落とし、堕天使にしてしまったのです。こんな恐ろしいこと、ありますか?」
「はあ」
天使は生返事をした。「先任」はヴァレリアに地上へ引きずり落とされたのだと、容易に想像できた。
彼はあたりを見渡したが、天使も、悪役令嬢も、どこにもいないのであった。