第47話 死の舞踏
12回、ハープの音が奏でられる。
ここはセルシエルム中間層。
セエラとクロスタがいくつかの足場を駆け上がると、少し広めの開けた円形の空間に出た。浮遊しているが、大理石のような固く優美な素材で、ある程度足場として安定しているようだ。
二人がその中心に辿り着くなり、セルスが近くを浮遊しているヴァイオリンを手に取り、不気味な不協和音を奏で始めた。
するとみるみるうちに黒い不定形が出現する。
それは今までのように上から降ってきたのではない。下だ。
風に巻き上げられ、割れた窓からぬるぬると侵入してきたのだ。建物の下の方は既に海のようにうねる不定形に埋め尽くされ、騎士達は成す術もなく呑み込まれ、逃げ延びた者も撤退を余儀なくされている。
しかし二人が不定形に囲まれることはなかった。
それよりもずっと質の悪いことが起こっていた。
今まで不定形に呑まれて死んだ人間。
それどころか、回収もできず街中に遺棄されていた遺体。
不定形が、共に巻き上がってきたそれらの体内に、口や鼻や耳を通して、泡を立てながら侵入していく。
ごぽごぽ。ごぽごぽ。
うねうね。うねうね。
多くのそれらは、養分を吸い付くされて急激にミイラのようにかぴかぴと乾いていき、そのまま木の枝のように折れて再び沈んでいく。
「酷い有り様だ」
「……うん」
その冒涜的な光景に、青ざめて率直に不快感を表するクロスタの発言にセエラも頷く。
しかし一部、何体か様子がおかしい遺体がある。
他の遺体と同じように侵食されているにもかかわらず、乾燥している様子がない。
それどころか、物理的に有り得ない量の不定形をそれらすべてが吸い込んでいるようにすら見える。四肢がぴくぴく動き、上体が跳ねるように起きていく。
だらりと口が開く。そして、焦点の合っていない目が開く。
「クロスタ危ない!」
セエラが素早く反応し、二人は回避することができた。
それらの異様な遺体が10体、二人のいる足場まで跳躍してきたのだ。
それらは着地するなり、時計の文字盤のように輪になって広がる。
「ぴったり12人ですね」
セルスがくすくす笑っている。不気味なヴァイオリンは止まることなく奏でられる。
遺体に共通点はない。上質な衣服を身に着けた老紳士、ぼろぼろの布を纏った浮浪者、趣味の悪いアクセサリーを首に掛けたごろつき、腰にエプロンを巻いた中年女性、年端もいかないような少女。老若男女、貧富を問わずランダムに集められているようだ。
そしてその中に、見知った顔があることにセエラは思わず息を呑む。
「ギウス」
首から大量のを流し絶命したはずの幼馴染が、他の遺体と同じように、自我を失った虚ろな目で立っていた。
否、踊っていた。
セルスが奏でるゆるやかな三拍子のワルツ。気が滅入るような不協和音。
それに合わせて遺体が動く。時に舞踏会のように手を取り合いながら、時に友人同士のように肩を組みながら。
ステップを踏みながら、じわじわとセエラとクロスタのいる中心部に寄ってくる。
四方を囲まれ、逃げ場などない。
「……クロスタ」
「ああ、わかっている」
「死なないでよ」
「お前もな」
背中合わせに声を掛け合って、二人は走り出す。
クロスタはハーフラビット社で新調していた、セエラは暴徒から強奪していた剣を抜く。
「ここにきて実戦なんてね……」
セエラへのアイフレンド先生からの稽古内容は、ひたすら避け続けて目眩ましをするか疲弊させ、逃亡経路を確保することを主な目標として設定されていた。また、丸腰の時に襲われても良いように徒手空拳が中心だった。
実のところ剣など、軽く基本型を教わってはいたが決して使うことのないように、むしろ持たないように固く言われていた。
曰く、体格の小さい女性が剣を使わざるを得ない状況など最初から勝てる見込みが薄く、万が一場を切り抜けたとしてもその後ろくなことにならないから絶対にいけない、避けるために軌道を見せるだけだ、と。
実際セエラはその教えを忠実に守っていた。窮地であろうと、人間相手に剣を抜くような場面は徹底的に避けていたし、初めての土地では優先的に逃走経路に適した地形や区画の把握に努め、逃走が不可能な時は口下手の自覚はありながらも対話で切り抜けることに努めていた。自分の剣など所持したことは一度もない。
片や軍人として厳しい訓練を受けてきた成人男性である。まともな戦場では足手まとい必至で、とても背中など預けてもらえないだろう。
しかし逃げ場のない浮遊空間で、輪になって襲いかかってくる遺体を避け続けた上でクロスタに全員倒してもらうなんて、そちらの方が勝率が絶望的だ。
幸い、敵の動きは速くない。高く跳躍することはできるが、はるかに大きく飛翔もできる飛竜の方が素早い攻撃を繰り出せる上に一撃も重い。
ただ、砲撃が使える環境になく、頼れるものは斬撃のみであり、更に万が一攻撃を食らったら傷口からどんな毒素が回ってくるかわからない。
死者が甦るなどといった話は物語の中でしか知らないが、倒し方などあらゆる物語でとうの昔に決まっている。
「頭を、潰す!!」
相手が跳ぶということは、必ず着地するということだ。そのバランスさえ崩せば、転倒させるなど造作もない。転倒してしまえば、自分より大きい相手でも頭部ががら空きだ。
不定形によって骨がぶよぶよに溶けているのだろうか。セエラの剣は驚くほどにすんなりと、桃を潰すように遺体の頭部を貫いた。
「まずは一体」
まだ一体目か。気が遠くなる。
次は手を取り合って踊りながら近付いてくる男女の遺体に狙いを定める。それらはターンしながらセエラに向かって大きく振りかぶってくる。
下手くそ。こんなテンポですらまともに踊れないのか。私はこれよりも大胆なターンにも、無茶苦茶なリフトでさえも対応できる。そう心の中で吐き捨てて、後ろに回り込み三拍目で切り伏せる。
「三体」
虚ろな目であどけない仕草を演じながら擦り寄ってくる子供の遺体。なんて趣味が悪い。早く楽にしてあげなければ。
そう思うのと相手にとどめを刺すのはほぼ同時だった。
「四体」
セエラの心は憤怒で燃えていた。死者は人間ではない。とうに意思を失った人間でないものを人間のように動かすなど、人間であった頃の彼等の生き様に泥を塗るような行為だ。
それがどんな生き方であろうと、どのように事切れようと、一人一人の生命が、生活が、人生が存在していたのだ。死してなお弄ばれる謂れなど誰にもない。これは人間の尊厳に対する最大の侮辱だ。
徐々に盛り上がっていく演奏とともにセエラは駆け出す。
如何に愉快な振り付けをしていようとこれは地獄だ。ああ、周囲を浮遊するいくつもの奇妙な石板。あれは墓石ではないか。
十分な加速による跳躍は、巨漢の頭部にやすやすと到達した。
「五体」
これで半分。クロスタの方はどうなっているだろうか。
セエラが振り向くと、反対側も残り一体といった状況である。
しかし、クロスタの様子がおかしい。彼の手元が、歯が震えている。セエラは即座に理解する。
愚かにも自分は、それを彼に任せてしまった。
絶命する直前、自ら告白したではないか。
「君のお母さんを殺したのは俺だよ」
肉体だけとはいえ、キエルの仇を前にしてクロスタがまともな精神状態を保てるはずがない。
急いで彼の手を引いて、一旦距離を取り端の方に退避する。
「クロスタ、息して。私と一緒に。そう、それでいい」
彼の呼吸を落ち着けてから、剣を握る手を上からそっと包み込み、ギウスの遺体を見据える。
「あれは違う。ギウスじゃない」
淡々とクロスタに語りかける。
「ギウスはもっと速い。もっと殺意に満ちた目をしている。こんなに時間が経過しても無策で、私を殺しに来ないのなんてギウスじゃない。何より、シアンの方を全然見てない」
スードリーガで追い詰められた絶望をセエラは覚えている。再び対峙した時はシアンや先生といった、逃がすべき対象がいたから刺激しないように意識していた。
しかし本当は、顔を見た瞬間に腸が煮え繰り返っていたし、口を開いたとしても自分のことにろくに触れられないことにも苛々させられていた。
生きているうちに数発殴りたかった。
勝ちたかった。
彼相手に、自分は逃げることしかしていなかった。
成功したところで、確かな虚無を感じていた。
彼にだけは勝ちたかった。いつか絶対に勝ちたいと、心の奥に閉じ込めておいた気持ちが顔を覗かせる。
それなのに、自ら命を絶つなんて。狡い。
そんなのは勝ち逃げだ。そんな卑劣な手段で勝って、死してなお追い詰めてくるなんて。
一生忘れない。
その過去も矜持も本心も決意も理解できない。きっと一生理解することはない。
それでも、共に施設で過ごした日々を。当たり前のように側にいた時間を。幾度となく重ねた会話を。
凪いだ水面のように穏やかな記憶として思い出せる。
どれだけお互い隠し事をしていたとしても、共に生きられる未来なんかなくても、自分と彼が肩を並べて歩くことが、ごくありふれた普通のことだったと今も本心から思っている。
目の前の存在を絶対に許さない。この世にあってはいけない。
いや、例え世界が滅びたとしてもこれがまだ動いているなら、自分だけ同じように甦ってでも潰してやる。
そんな激しい怒りの炎をなんとか押し留め、セエラはじっとクロスタの呼吸の音を聞いている。
クロスタは、大丈夫だ。
逃げ慣れていなかった頃とはいえ、殺意も持たずにセエラのことを何回も追い詰めた。
不意討ちとはいえ、首に刃が触れるのを許したのは彼だけだ。
こんなところで負けるような人間ではない。
こんなところで負けてもらっては本当に困る。
「クロスタ、あなたは強い。あれが違うということも、ちゃんと解っている。あの手がキエルの血で汚れていたとしても、これは復讐じゃないということも」
「……セエラ。俺は、何に見える?」
「人間だよ。決まってるじゃない」
それを聞くと、クロスタは大きく息を吐き出した。セエラは手を離す。
「もう大丈夫だ」
セエラは黙って離れる。
勝負は、一瞬だった。
ギウスだったものは、クロスタとのすれ違い様に崩れていった。
セルスは飽きたとばかりにヴァイオリンを投げ捨て、二人を見下ろしてくすくす笑っている。
完勝したクロスタの背中を軽く叩き、セエラは再び上を目指して走り出す。朝日も鶏の声も待っている時間はない。
もうすぐセルシエルム最上部に到達する。
セエラの
装備欄:武器
が解放されました。




