第41話 鯨のような雲ひとつ
鯨の標本で星から出よう。
「説明しろ!」
「私は一切関与していない」
「信じられるわけない!それに自分が何をしたかわかっているのか!?」
「ようやく吠えたか。そんなことが言えるなら、なぜあの時止めなかった?結局お前には覚悟が足りないんだ」
「君と一緒にしないでくれ!」
「半端な良識だけで足りるとでも本気で思っていたのか!?本当にお前は、私よりも……!!」
「君にはわからないよ!人の心がない人には、一生わからないよ!」
教会の最奥。エルシアニー教主が不在の際は常に静寂に包まれている小部屋。
しかし今は、エルシアニー教主が行方不明で、他に立ち入ることができる人物--トリエス主宰、ゼクスレーゼ騎士団長だけが中にいる。
しかし今は、部屋の外にすら声が響くほど、そしてかつてないほど激しく二人は言い争っていた。
二人は夫婦である。13年前に出逢い、正式に神に誓いを立てている。しかし結婚当初から、触れ合うことはおろかまともに目を合わせることもなかった。勿論冷えきった仲を表立てることはなかった。あらゆる局面において、二人に意見の相違があるとは知られていなかった。
しかしそれは、正面からぶつかり合うことすら、本当はなかったということかもしれない。
そして現在において、彼等をここまで急き立てる話題など明白である。
一つは、エルシアニー教主とその形式上の妹リディセエーラの所在不明について。
そしてもう一つは、未明に市民に発見され、今は安らかに彼等の傍らで眠っている元歌姫。
キエルの死についてである。
彼女は昨夜シアンと、セルシオール同士の決闘を終えた後に二人で教会から抜け出し、その後何者かに暗殺されたことだけが判明している。第一発見者が市民であることに加え、人数が削がれていた騎士団の到着に時間がかかったこともあり、箝口令など意味を為さず、かつての教会の功労者の訃報はラウフデル中に知れ渡っている。
その衝撃は二人にとっても大きかったようだ。議論にすらなっていない口論は完全に平行線を辿り、あらゆる時系列や局面における互いの批判、果ては人間性の揚げ足取りにまで発展し、論点どころか妥協点も着地点も完全に失われていた。
「そっちがその気ならこっちにも考えがある!」
そう言って退室していくトリエス主宰の方を一瞥もせず、ゼクスレーゼ騎士団長は吐き捨てた。
「ばかめ」
ハーフラビット社の社長室にて、フロアは社長椅子に腰掛けている。キエルの訃報から更に一晩経過したが彼は一睡もしていないようで、目元の隈がとても濃くなり、土気色の顔をしている。たった今訪室したセエラや扉付近に控えているシャホールとラヴァンも表情から疲労が窺える。
「フロアさん、何か……いえ、何がわかりました?」
「僕達はセルシオールの動向にはとんと疎い。情報収集の方法と、彼女達の特性が大事なところで噛み合わないんだ。だから、こういう場合はわかりきった事実しか言えない」
「歌が止んでからキエルさんはすぐに教会からシアンと立ち去ったと考えられる。確かではないが人影の目撃者がいる。何者かに刃物で殺害された。出血多量で致命傷だった。シアンは見つかっていない」
「そう、それだけ。そして君に一つ言っておかないといけないことがあるんだ」
「どうぞ」
「キエルしか、エルシアニー教主のセルシオールとしての動向を理解できない。彼女の行動はある程度予測できたとしても、それによってもたらされる影響とその範囲に関してはお手上げだ。つまり」
「次にシアン……いえ、外部の人間と接触するつもりがあるなら。いいえ、もし外に出るなら、ここには戻ってこない。そういうことで良いですか?」
「ごめんね。僕達は身内を何より大事にしたいのさ」
「とんでもない、当然のことです。むしろここまでお世話になって、本当にありがとうございます。それと」
「彼のことなら心配しないで良い。最大限の配慮をするよ。ここにいる限りは、だけど」
「……はい」
扉に向かいながら、セエラはキエルと過ごした短い時間を頭の中で反芻する。初めて出逢った酒場。船上で涙を拭いてくれたこと。迷う背中を押してくれたこと。沢山の人に慕われ、そしてその人脈をセエラを助けるために使ってくれたこと。複雑な事情を抱えているにも関わらず、危険を省みず協力してくれたこと。
その美しい声、凛とした佇まい。
亡くなったことなどとても信じられないほど、彼女は常に生き生きとしていた。夢の中をさ迷っているような現実離れした感覚と、否応なく次々に突き付けられる情報という現実に挟まれ、涙さえ流せずにセエラは何回も、何回も繰り返しキエルの姿を思い出していた。
すべてが宝物のように輝いている記憶で、胸を締め付けるような痛みによって失ってわかる大きさを感じて、それから--
「あれ?」
セエラはある違和感を覚える。
何か、とても大切なことを見過ごしている気がする。
彼女は明け透けでぶっきらぼうな性格の割に謎の多い人物で、その全てを理解することは少し会っただけの人間にはほぼ不可能だ。しかしそういった、単純に情報が足りないということではなく、明らかに「意味がわからない」ことがあったはずだ。
その疑問に答えられる可能性がある人間は、そう多くはない。
しかし、確実にこの部屋にいる。
振り返り、社長椅子に座ったままの彼にある問いを投げ掛ける。
「『ここまでする』必要があったんですか?……私のために」
「……あったよ。彼女にはあった。僕にはないけど」
「やっぱり、そうなんだ」
「君が何を思い付いたかは知らないけど、質問の範囲を絞らない限りはこれ以上答えようがないね」
「私をここに連れ戻したのは、キエルさん?」
「それはないね。彼女に天候を操る力はなかったはずだ」
「あの人は死ぬつもりで行動していた?」
「有り得なくはないね。でもそれこそ『その必要はない』」
「シアンがセルシオールであることと、関係はある?」
「結果だけ見たらね。でも『そうでなくてもこうなった』。……ねえ、セエラ。何を確信したの?」
「私にしかできないことがある?」
「僕にとってはノー。でも彼女にとってはイエスだ」
「私の意志と関係ある?」
「原因だけ見たら、なかったよ。でも今後の展開においては、関係しない要素がまるでない」
「……私がここから出ていった方がいい理由は、さっきのだけじゃない」
「君と僕達は関係ないよ。最初から関係なかったのさ」
セエラは質問を終わらせた。一礼し、退室する。
広い客室の中で一人、改めて自分の荷物が何もないことを認識する。よくもまあ、こんな状態でここまで漕ぎ着けられたものだ。表情に出すほどでもないが自嘲したくもなる。
「台無しだね」
やや投げ遣りに吐き捨てるが、それを聞く相手などいない。
明るいもの。
優しいもの。
美しいもの。
柔らかいもの。
幸せなもの。
輝かしいもの。
望まれたもの。
それらを知らない方が良かったとは思っていない。
むしろ知らなければならなかった。
それでも、失われたものは戻りはしない。
胸の痛みが隅に追いやられるほどの、別の感情が湧いている。
セエラは、昨日以来開かれることのない隣室の扉にそっと手を置く。
「クロスタ、起きてる?」
返事はない。彼女は構わず続ける。
「……ごめんなさい」
静寂の後、彼女は再びぽつぽつと話し始める。
「私はあなたの思想を、あなたの意志を尊敬している。辛い時も人を傷付けない強さを。届かなくても守り続ける優しさを。正義を問い続ける聡明さを。どんな不思議な力より、どんな大きな奇跡より、大切なことだと思う。だから」
噛み締めるように語りながらも、鼓動は速くなっていく。それを抑えるように、ゆっくりと、はっきりと口に出す。
「あなたはあなたのままでいて。私はきっと、あなたの思い描く世界を作ることはできない。一員にすらなれない。それどころか、立ちはだかるかもしれない。でもあなたは変わらないで。あなたのことを心から想っている人間は必ずいる。だから、だから……。私のことはどうか忘れて」
最後に彼女は消え入りそうな声で一言だけ囁き、扉から離れた。
「さよなら」
セエラがハーフラビット社を出て、一度だけ振り返ると、もうあの小屋は、いや、小屋があった土地さえも存在していなかった。
きっとそういうもので、捜したとしても同じだろう。そう納得し、彼女は一人、歩みを進める。
小鳥が歌う朗らかな晴れ空。
終わりかけの甘い花の香りを運ぶやや肌寒い秋風。
朝に少し雨が降っていたのだろうか、小さい水溜まりが陽光を反射して煌めいている。
数日地下で過ごしていただけだが、昼間に外の空気を感じることが彼女にはひどく久し振りに思えた。
欺瞞、争い、そして死が繰り返されたこの街と、口を固く結びながら歩く重い足取りには、すべてが不釣り合いだった。
「教会にいなくていいんですか?」
ラウフデル内の海に近い寂れた区画。数日前にセエラがシアンに遭遇した場所のすぐ近く。
セエラは一人の男性がベンチに腰掛けているのを発見した。彼は声を掛けられるとひどく驚いた表情をしていたが、混乱を必死に抑えている様子で彼女に向き直った。
「セエラ、君は……」
「……お父様、ごめんなさい。シアンが誰とどこにいるかは知りません。私自身、居場所がない身です」
セエラに父と呼ばれた男性、トリエス主宰はがっくりと肩を落とす。教会内では三本の柱、反教会勢力からは三大巨悪の一人とされている彼ではあるが、そうしていると弱々しくやつれた、どこにでもいる貧相な中年男性に見える。
見える範囲には騎士の姿はない。無論、控えている付き人が気配を消しているのだろうが。
「教会を抜け出すのは、シアンだけの特技じゃないんだよ。これでも昔はこっそり色々やらかしてたんだよ」
力なく笑う彼に、セエラは遠慮がちに話しかける。
「キエルさんには、お世話になったんです」
「……そう、君はもう知ってるんだね。うん、そうなんだ。昔、教会から抜け出すどころか司祭の地位さえ捨てて、彼女と生きていこうとしてたんだ」
「それで教会からお母様の追っ手が?」
「違うよ。元々神や教会をよく思っていなかった人々からすれば、セルシオールなんてさっさと葬るべきものだからね。素性を隠して、差別されない土地を探してあちこち転々と旅をしていたものさ。でもキエルはともかく、幼いシアンは力のコントロールがうまくできなくて、すぐにバレて追い出されてしまったのさ。そうした人達は教会軍の敵でもあるから、結局ゼクスレーゼと巡り逢ってしまったんだけどね」
セエラから見てもトリエス主宰とゼクスレーゼ騎士団長はこれといって仲睦まじい夫妻ではなかった。
それでも協力関係はある程度恙無く結ばれていたと思っていたゆえに、全くゼクスレーゼ寄りの人間ではないことを感じさせられる彼の語り口に彼女は少し驚いていた。
「……教会に戻ってきて、お父様とシアンは幸せでしたか?」
「わからない。シアンが安全に過ごせるなら、キエルがどこかで生きていけるなら、正義も良心も真実も何も要らないと思っていたから。でも、それは他の全てに目を瞑るのと同じことだから、幸せとか幸せじゃないとか、そういうことを感じる余裕も資格も僕にはないんだよ。……君にも、すまないことをしたと思っている」
「謝らないでください。実の娘でもないのにお父様には大変なお心遣いをいただいたと思っています。それよりも今は……」
「うん、わかってる。僕はシアンを捜すよ。どんな汚いことをしても、どんな貧しい生活が待っていても構うものか。今度こそあの子を守りきらなければ。君ももし一緒に来てくれるなら、僕が責任を持つよ」
「ありがとうございます。……でも私は、そうしちゃいけない人間だと思うんです」
「セエラ、君はもしかして……!だめだよ、それは。そんなことを」
「できるだけ早くシアンを見つけましょう。何かできそうなら手伝います。そしてもし見つかったら、私のことは構わず一刻も早く逃げてください」
「セエラ--」
「いやあああ!!!」
すぐ近くから女性の悲鳴が聞こえる。
その声に二人は、よくよく聞き覚えがあった。
セエラより速く、トリエス主宰が走り出す。
二人が駆けつけるとそこには、数人がかりで羽交い締めにされているシアンと、地面に倒れ臥しているギウスの姿があった。
もうとっくに大人なのかもね。




